Opus No.10 公演情報 OM-2「Opus No.10」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    OM2は近年の二作品を目にしたが、同じ会場(日暮里SunnyHall)で全く異なる趣向。挑戦的な表現形態の背後、遥かに霞む山の如く臨めるメッセージ性の重層感があった。が、抽象性が高く過激化する要素を孕む印象。個人的には応援したい部類だが今回なんと「演劇」の聖地(私の勝手な命名)、我らがスズナリでやるという。
    OM2 in スズナリの図が全く浮かばなかったが、良い感じの予測の裏切り方に「地点」が過った。両者全く異質だが。
    劇場に入るとほぼ一面に段ボール箱が積まれ(大小様々で銘柄入りの古いやつが巧みに隙間なく壁化され)、白抜き升目の画像が映写され全体を覆っている。
    やがて中性的少年的佇まいの喋らない役者が現れ、椅子で読書を始めると加工された段ボールから同じボール紙色の筒がにょ~と飛び出て、脱力な・時に熱い断続的な喋り。紙をペタンめくって今や顔を晒し、ガヤガヤ、不条理演劇風の始まりだが、やがて風景が一変。ここまでの序盤の迫力は申し分ない。
    ただ、客席で受け止めた破壊的エネルギーに転換した感情の背景を倒置法的に説明して行く中~後半、少し別の局面が見えたかったのは正直なところ。
    熱が高まる後半、憲法条文が文字表示や群誦で混じるが、条文を印籠の如く差し出すニュアンスが混じるとこれは面白くない。それはOM2のコアな部分である佐々木敦のパフォーマンスに、彼が登場人物を担った具体的エピソードに留まらないイメージを喚起できるかに大きく左右され、私に見えた部分が全てだとすると佐々木氏の時間は長い。私の希望は時間を削る事でなく、彼(に仮託された人物)が受けた凌辱が質的に持ち得る位相がパフォーマンスによって広がってくる事だ。
    象徴的表現というものに的確か否か(正解)など無いのかも知れないが。。

    ネタバレBOX

    様相を変えた作品でも毎回変わらぬのが、中心的存在である怪優佐々木敦のパフォーマンス(演技)、また後半に登場の舞踊の女性も。
    今回の「芝居」の登場人物は基本一人、父の訃報に駆けつけた霊安室の前で動けなくなった男の脳裏に甦った、父との幼少時代の記憶。そこからの自分語り(嘆き節)が、静けさの中から始まる。
    ある受難の人生を憑依させ、言葉を反復して次第に爆発的エネルギーに達する・・それが私の見た3舞台に共通する彼のパフォーマンスの本質と見た。今回は幼い頃隠れてやっていた女装が見つかった事で父親から非人格的扱いを受ける事になったという告白だったが、スズナリという会場では彼の濃すぎる演技は伝わり過ぎる程伝わり、その事も先述した彼の独壇場が「長い」と感じた理由かも知れぬ。
    今回は暗黒舞踊流の白塗りの裸体が後半登場する。だが裸体でない男の中でなぜ一人だけ全裸なのか、また男性が服を着ていてなぜ女性が二人も乳を出すのか、そのあたりの説明が十分でなく、「最後の手」を使ってこのあとどうなるのか、と心配が過ってしまった。

    最後の手段と言えば、一度見た芥正なんとか言う暗黒舞踏のパフォーマンス(亡くなった首くくり拷象(字に自信無し)を見た最初で最後の貴重な機会ではあったが)の、ただ立派な一物を隠さない事で「抜き差しならなさ」を伝えんとするもその何かはよく解らないという、あの体験が過り、あまり喜ばしい思い出でないのである。
    抜き差しならない生にとって、出し惜しむ物は無いに等しく、刹那に永劫をみる生の捉え方は、「終わりなき日常」の彼岸、憧れの対象になり得る。一瞬の燃焼への憧れは若年であるほど強く、三島の切腹はこの野性の惹起を企図したものに違いないが、望むと望まざるとに係わらずやってくる日常に甘んじる事が必ずしも「変化を拒む」守旧の姿勢だとは言えない、そこを押さえない事には、堂々巡りから抜け出せない、、という為され尽くした議論に戻って行く。(自分が見た)暗黒舞踏の突き詰め方に触れると、その事を思い出してしまう。全く個人的な偏った感覚かも知れず、今回の舞台がそれそのものという訳ではないが、そちらに傾いて行かねばいいな、との希望でつらつら書き付けた。

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    2019/02/25 00:44

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