満足度★★★★
鑑賞日2018/10/08 (月) 14:00
まずは、白い本の巨大な棚。この棚から落ちてくる本は、当然決まっているのだろうけれど、どのように落下を制御しているのだろうか。適当に落ちてきたら危ないし。
物語りでは、この落ちてきた(あるいは、ファイヤーマンが落とす)本が、発見されたものとして、キレイに燃やされていく。その白に映えるの炎の投影が美しい。ある意味この演出が、物語りを全てリードしていき、登場人物の心理や考えの流転や抑揚を、見事に観客に伝えていく。
今回の舞台では、白石氏と長塚氏で、配役をどうするかで頭を悩ませたらしいが、結果、少人数で複数の役を演じさせることで、説明に終始することなく、共有された世界観を出せると考えたらしい。確かに、美波の娘クラリスや妻ミルドレッド、吹越満のベイティー隊長とグレンジャーの対の関係性は、同一人物が演じることで深い妙味を醸し出しているし、2役の意識の差が相乗的に働いて、陶酔感溢れる演技に昇華している。
特に吹越満の2役は、彼特有の無機質なセリフ回しと相俟って、ケレン味さえ感じさせる名演になっている。双方を演じている部分だけ切り取って見せたら、この役は分裂症なのかというくらいに、自負に溢れた表現力は、2役を演じているということが大きいと思う。
さて、今回の上演に際しては、パンフで、白石や長塚氏が述べているように、スマホに代表されるようなデジタル文化への傾倒への警鐘があり、文化軽視、情報過多、アナログ蔑視への批判という面が指摘されている。さもありなん。これが65年前に発想されたということに驚かされる。
最近では、「1984」の舞台化、映画「2001年宇宙の旅」の再評価などが続いている。「華氏451度」も上演も、すでに古典と化しつつあるこれらSFが、今なお機知と新鮮味に溢れたものであることを示すものではないだろうか。