秋の超収穫祭 公演情報 feblaboプロデュース「秋の超収穫祭」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

      Feblabo、大統領師匠、家のカギ3団体合同のオムニバス公演。基本的に板上はフラット。必要に応じてテーブルや椅子がセットされる。(華4つ☆)

    ネタバレBOX

    演目は家のカギが「うらみつらみ」:今作は、固定観念に囚われた一人の男が、自分が好きだと思い込んだ女を奪ったとしてその容疑者を殺しに行く話なのだが、殺す為の必然性や、殺人を犯した後の罪の意識、社会的制裁等を抱えて生きてゆくことの重荷と比べ殺される側がそれで御終いというのは如何にも安楽に過ぎる、として堂々巡りに陥り乍ら、通りすがりの女や「恋人」の女を次々に刺し殺し、漸く最初の目的であった容疑者殺害を果たすもそれは単に偶然の結果でしかないというアイロニカルなシニシズムを表現した作品だが、この不条理性は、刺された容疑者が、恰も刺した犯人が伝染病の保菌者であったかのように、この不条理に伝染し新たな犯人になって終うブラックユーモアに終わる。
    大統領師匠は2作品。「スイカ割り」:一組のカップルがスイカ割りをしようとしている。スイカを割るのは男、指示を出すのは女である。既に男は鉢巻で視界を遮り、棒を振りかぶってスイカ目指して指示通り動き始めていたが、女の元カノが突然現れ、縒りを戻す
    為にくどき始める。男が目隠しをしていてイマイチ状況が読めない中で、男VS恋人の女VS女の元カノとの三角関係が展開する。科白のやりとりの面白さ、結局男が割を食って、元カノに恋人を奪われてしまうというオチ。
    もう一作が『ベテラン声優のアテレコ風景』声優同士の熟年カップルの浮気噺。元々は男が20歳程の若い娘と浮気したのが「原因」で妻に財産を持って行かれてしまうのだが、金品以外に男性用シャンプーであるサクセス迄持っていかれたことに腹を立てる夫は、サクセスを返せと迫る。だが、若い娘への嫉妬に狂った妻は、煙草すら買えぬ程貧乏させてやる。「ホープを奪う」と断言、この痴話喧嘩は本番収録中に行われているので、本番の科白と痴話喧嘩のやりとりが重なり合って絶妙のコントラストを為し笑わせる。女も“夫の浮気以降”は自分も若いツバメを抱えてよろしくやっているというのだが、それはあくまで夫の浮気以降と強調、サクセスもツバメに使わせていることを認める。一方自分の浮気は、ベテランで若い者に教えを垂れるような女は皆していること、と居直る辺り男と女の浮気合戦の様相を呈しつつ、社会通念として妻が莫大な慰謝料を手に入れることができる社会への「あてつけ」にもなっていそうで大人の男女の狡さ合戦の様相も呈し実に面白い。戯曲の完成度の高さと役者の上手さ、アイロニーのキレなどでは最もシャープな作品と観た。
    Feblaboは矢張り2作。「日曜日よりの使者」:認知症にやられた老人のボケた日常を行きつけだった喫茶店を便として、記憶を呼び起こす為に行われる試行錯誤の辛さ、もどかしさと甦った記憶の入れ子細工で表現、重層的な時間と老人の過ごしてきた人間関係を顕にしてみせる。殊に親友との出会いと、思い出の場所図書館に現れるマドンナを巡っての恋のさや当て、マドンナを射止める為の争闘を通じて親友を亡くし、深更の荒海に友の名(洋の仇名・ハマオ)を叫ぶ若い頃の老人(睦・リクオ)の叫びの痛切は、ふと「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラを甦らせた。ハマオは、バレンタイン前日、沖合に在る小島に咲くという幻の花(この花を持って愛を告げればその恋は必ず成就するとの言い伝えがある)を求めて小舟で漕ぎだし、帰らぬ人となってしまったのだ。共をしたのはハマオの弟、近隣の船、人々総出の捜索に弟は助かった。明け方も近くなった頃、(入場券代わりに配られた)レーズンチョコが、マドンナからリクオに渡される。どういう訳か彼女の頬には紅が差していた。(2月14日である。)
    終盤、親友が現れ、この物語の理を説明するが。それによると主人公も他界しており、あの晩ハマオの魂は、リクオの呼びかけで故郷に戻ることができた。その礼に認知症を患ったリクオを迎えに来てくれたのだという。マドンナも既に来ており、とても美しい女性になっている、と。最後のオチが、睦をどう読むかなのだが、これはちょっと正解できまい。
    「いまこそわかれめ」:馴染の喫茶店に来て、卒業式の定番曲「仰げば尊し」の歌詞解釈がキチンと為される導入部で、オーダーされた2つの飲料(オレンジジュースと珈琲)が一人の前に置かれる点に注目。歌詞解釈も見事なもので感心させられた。(自分は、職業高校だったので日本の古典と漢文は余りキチンとやっていないから、教えられる点が在った)何れにせよ、別れに関する解釈の導入部として極めて優れた脚本であり、キャスティングも良い。さて、仰げば尊しの歌詞によって方向づけられた物語が佳境に入ってゆくのだが、
    小道具に使われている彼女の持っている文庫本は、19世紀イギリスの詩人テニスンの「イン・メモリアム」(In Memoriam A. H. H.)である。内容は無論今作にかぶる。演劇が因果律を殊に強調せざるを得ないのは、その構成が対立を基本とする以上必然的な結果である。ドラマツルギーは因果律が深ければ深いほど、そのインパクトが増大するからである。作家は当然その効果を狙う。それは観客という残酷な消費者がそれを望むからである。“他人の不幸は蜜の味”とはよく言ったものではないか? にも拘らずこの可憐な少女と彼女と交わした約束を守って、卒業後に馴染の喫茶店を訪れた、少し年を取った彼との切ない魂の邂逅は、矢張り胸を撃つ。
    念の為、上演順に作品名を挙げておく。1、うらみつらみ、2、日曜日よりの使者 休憩5分 3、ベテラン声優のアテレコ風景 4、スイカ割り 5、いまこそわかれめ



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    2018/10/03 12:29

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