ロンギヌスの槍 公演情報 風雷紡「ロンギヌスの槍」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

     舞台中央にほぼ正方形の平台を置き、平台中央に縦長のテーブル、長辺中程に向い合せに椅子各1脚。上手、下手壁にそって各々数脚の椅子が置かれている。平台から奥へ向かって登り階段が3段、4段目が踊り場になって更に奥へ向かって3段。正面奥は、樣々な形の多くの窓枠をあしらったような造作が嵌められた壁面、見ようによってはたくさんの窓を象徴しているようにも取れる。

    ネタバレBOX

     極めて判断が難しい問題を提起する作品である。今作はある事件をベースにしているが、その事件とは実際に17歳の少年が起こした浅沼稲次郎刺殺事件である。犯人の山口二矢は、今作に描かれたように歯磨き粉を用いて遺書を残し縊死した。(有名な自死であり遺書なので内容は個々で調べて頂きたい)大物右翼の演説に感銘を受けて当初拒まれたものの後入党を果たし、暗殺事件前に脱党したのも調書通り事実である。一貫した彼の行動原理から言っても、実践的論理から見ても、またこの事件以前の彼の行動を見ても、公安からの自白強制や調書改竄などの可能性は極めて低いと見るのが妥当だろう。
     以上が、今作で描かれた真(まこと)のモデル、二矢の事件前後の情報であるが更に詳しいことは自分で調べて頂きたい。彼の親族などについてもかなりのことがネットで調べられる。因みに事件が起こったのは、1960年10月12日15時5分頃。
     本論に入ろう。今作の主眼は、純粋な精神を持った真に思考が形を与えた時に形作ったことと、通常の過程、即ち世間体だの他人への配慮だのというマヤカシの論理を遵守しつつ社会参加の経験知を通して大人になった人々との齟齬と対立を示した作品ということができよう。要は相対的価値観を容認する不完全を前提とした人間と、絶対的価値観を有する人間との対立である。
     相対的価値。真はこれに対して異を唱える。何故なら彼女は純粋精神の系譜に属し、絶対を追及する主体だからである。演劇を演劇足らしめる根本的な対立が、ここに現れている。
     繰り返しになるが、世間知や常識を纏うことによって生き続ける不完全を認識し、経験知に基づく世間一般の子供、大人達の価値観と、真の精神が希求する絶対は決して相容れない。調書内容から、真は人生を相対化するような前提を持たずに思考のオーダーを持っていたことが考えられることから、その思考の唯一無二の発展形式は、尖鋭化することのみであったという事実が導かれる。この思考が齎した悲惨の結果をどう我々が判断するのか? を今作は問うていよう。この際、注意すべき点は、先にも述べた取り調べの中で明らかになる真の生い立ちに学校の友人が殆ど居なかったことだ。この事実は極めて示唆的であり、唯一心を通わせた双子の兄の死が彼女に齎したアイデンティティーの地すべり的崩壊が、彼女の行動を反社会的で過激なものとした引き金・内的原因であろうことが類推される。だが、彼女が孤立していればこそ、この内実を類推することが常識人にはできない。この点にこそ、この事件の悲劇があるように思う。
     蛇足ではあるが、委員長刺殺に向かう階段の数は、踊り場を含めると7段。階段自体は6段というのは、キリスト教神秘主義の6に関する解釈と照らし合わせると興味深いものがある。6は、神秘主義では完全な数とされている。その約数を総て足しても、掛けても6になるからであり、神が6日で世界を創り7日目に休んだと旧約聖書に記されてもいるからである。では、完璧な数を越え、神の休息の合間を縫って齎された殺人の罪は、誰によって何の為に齎されたのか? という問いが当然発生するのであるが、真が人生を相対化するような前提を持たずに思考のオーダーを持っていたことから、その思考の唯一無二の発展形式は、尖鋭化することのみであったという事実が再び想起される。
     これは神の不在乃至あずかり知らぬ所での我ら人間の行為が殺人であるという極めて示唆的な解が、キリスト教が一般に示す原罪という発想の現代的原点にあるのではないか? という問い掛けである。通常の原罪解釈であるエデンの園でのアダムとイブの知恵の木の実摂取問題も宗教的には神への不服従ということになるのだろうが“神が死んだ”後に生きる我々の原罪とは、当に我々の判断で他者を殺害するという、悍ましい殺人にあるのではないだろうか? 神の関与が無いことがこの階の段数によって示されていることが、その例証となるかも知れない。

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    2018/08/16 14:42

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