満足度★★★★★
2018.6.30㈯ 18時 千歳烏山 アクト青山
演劇集団アクト青山主宰の小西優司さんから、7/4㈬~7/8(日)まで上演するテアスタ(夏)『輸血』の観劇ブログ執筆の依頼を受け、アクト青山で通し稽古を観た。
床の数ヶ所に、微妙な距離を置き、1畳~2畳の畳が敷かれ、それぞれに卓袱台や火鉢、柿の種の皿や湯呑み、座布団が1枚っきり敷かれていたり、1段上がった所に敷かれた畳には、酒瓶が所狭しと置かれており、その部隊装置をコの字に囲むように客席が設えられている。
将棋盤を持った男が入って来て、駒を並べ終えると将棋を打ち始めた所に、1人の青年が入って来て、虚ろな目を斜め上空に向け、暫し無言でぼんやりと見上げた後、壁に向けて置かれた座布団に膝を抱えて座ると、次々とこの芝居の登場人物が入って来て、それぞれの位置に着き、『輸血』の世界がゆっくりと織り成されて行く。
『輸血』は、坂口安吾が二本だけ書いた芝居のうちのひとつであるが、そこは坂口安吾である。始まってすぐは、まず浮かぶのが『?』である。
なので、大まかにではあるが、舞台のあらすじを紹介しておく。その方が、多少なりとも観た時に面食らわずに済むかも知れない。
『詩も音楽も冷蔵庫と同じように実用的なもんなんだがなぁ』という夫を持つ姉夫婦の家に、何やら離婚問題が持ち上がっている妹夫婦と姉妹の母親との3人が訪れる。卓袱台を囲む早々、姉妹と母親の間でかしましい丁々発止が始まり、妹の夫は、壁に向かって膝を抱え周囲の話し声を意識して耳に入れないように押し黙ったまま、一言も発しない。
かしましい姉妹と母親の横では、何故そこにいるのか解らないが、なぜか居る飛行士と駆け落ち同然で彼女と姉の家に身を寄せる弟とが、将棋を打っている。姉の夫は、聞くともなく、妻たちの話を耳に入れながら、時々話に言葉を差し挟みつつ、だらしなく気流した着物姿でごろりと横になっている。その間を縫うようにお手伝いさんが、雑巾がけをし、棚を作りに来た大工が昼の弁当をつかい、機織りの仕事を習っている弟の彼女が帰宅し、姉妹と母親の会話に加わる。
部屋のそちこちに散在している家族たちが、いつの間にかそれぞれの会話に干渉し、関わり、それでいて擦れ違って行くような、交わらないようでいて、交差する人間たち。
空気のような旦那たちと唯一何の関わりも無いのに、なぜか居る飛行士の会話が紡いで行く、家族とは?世間とは?愛とはなんなのかを『無頼派』の代表、坂口安吾が描く家族の物語である。
とまぁ、こう言った内容の芝居なのだが、『桜の下の満開の森』や『風博士』などを読んでも解るように坂口安吾は、1度読んだだけでは『?』となる、変な小説、不思議な小説を書く作家である。小説でさえそうなのだから、『輸血』は尚のこと、1回観ただけでは解らない事も多く、変で、不思議な舞台である。
通し稽古後、少し、小西さんとお話しをした時に、安吾は変な話を書く作家であるし、この舞台も1度観ただけでは『?』となるだろうし、実際に観ないと解らないであろうこと、事前に知って観たとしても、1度観て全てを解る事はないのじゃないかと言うような事を仰っていた。
実際に観た私も、その場で感想を言うのは難しく、一旦、観た時に感じた事や感情を家に持ち帰り、後々じっくりと頭の中を整理しないと書けないと思い、それがまた、この舞台に見入ってしまう面白さでもある。
『?』となるからと言って、難解と言うのともまた違う。ひと言で言えば、やっぱり『変』な話なのである。大体、先ず以てなぜタイトルが『輸血』なのかというのは、芝居の中盤の母親の言葉を聞くと、なるほどそういう事なのかと腑に落ち、膝を叩く。
家族=血の繋がり、血の繋がり=家族の絆かと言えば、そうとばかりも言い切れないのではないだろうか。
親と子は、実子である場合、確かに血の繋がりはあり、殊に母と子は、正しく血を分け、母の腹から産み落とされるという点では、成程、確かに血の繋がりもあり、臍の緒で繋がっていたものが、身二つになる訳だから、“ 絆”もあるとは言える。
がしかし、その子供の乳と母は、元々は血の繋がりのない赤の他人であり、赤の他人の男と女が出会い、縁あって夫婦になり、家族になるわけである。そこには血の繋がりはない。
けれど、例えば、怪我や病気で手術をして輸血をした場合、赤の他人の血液が自分の体内に入れば、そこに血の繋がりというものが出来ることになりはしないだろうか。昨日まで見知らぬ人の血が、自分の体内に入り、血が混じる=繋がりはするが、だからと言って血の繋がりが出来、絆が生まれ得る確率は極めて低い。
だが、夫婦、親子、恋人同士など、近しい人や近しい関係であったなら、血は濃くなり、強くなり、絆めいたものが出来、その絆が強くなる確率は高いようにも思う。
軋轢のある親子や夫婦、兄妹姉妹が、一方に自分の血を分け与えたら、相手の血の中に自分の血が混じり、自分の血が相手の血に混じり合う事により、絆が生まれ、或いは、きずなが強くなったりしないだろうか。
そして、それは、膠着した関係を打開する一助にならないだろうか?もし、なり得るとするならば、諍う親子の関係が少しはマシなものになり、離婚問題を抱えた夫婦の絆を繋ぎ直し、繋ぎ止める事が出来はしないか。
そう思う反面、そうまでして繋ぎ、結ぶ絆と言うのは何なのだろうかとも思う。血の繋がりや家族の絆というものは、そうまでして結び、繋ぎ、強固なものにしなければいけないのか?家族ってなんだろう?世間て何なのだろう。そもそも、形も実態も目で確認する事が出来ない愛ってなんなのだろう?
そんな事を、ふと考えてしまった私は、無頼派、坂口安吾の愛だの家族だの、血の繋がりだのを、何の疑いもなく信じているお前さんたち、果たしてそれは、そんな確固たる揺るぎないものかね。血の繋がりだの何だのと言うが、他人の血を輸血し、自分の血と混ざったらそれも血の繋がりというのか?そこにさえ血の繋がりだけを言うなら、血の繋がりは生まれるというのか?血の繋がりだの絆なんぞと言うものは、1度は疑ってかかって然るべきものじゃないかね。という声を聞いたような気がした。
そんな事を強く感じたのは、今の自分の状況に負う所も大きいのかも知れない。先日、天寿を全うして亡くなった父と私にも確執があり、4年前認知症が酷くなり、兄の家の近くの施設に入所する迄の29年間を父と二人きりで暮らし、父の面倒を見る中で、確執のある親子であり、日々記憶が壊れて行く父と対峙し続ける生活は、父の、又、自己の中の修羅を見つめ続ける事でとでもあった。母の亡くなる前年の14歳から、最後の4年は離れて暮らしたとは言え、家族、血の繋がり、父と娘である自分の関係、その中で、引き起こされ渦巻く自分の中の感情や、綺麗事だけでは済まされない、黒く紅い感情を鑑みて、この『輸血』のテーマが、膚を通した感覚として感じたと同時に、何処か腑に落ち、14歳の頃からずっと考え続けて来た事と重なった。
この舞台は、今の私が出会う必要があり、最も良いタイミングで出会う事が出来たと思う。こう書いて行くと、一見難しい舞台だと思うかも知れないが、観始めて気がつくと、その不思議で変な安吾の『輸血』の世界に惹き込まれて行き、観終わる頃には前のめりになって観ていた事に気づく。
最後まで、一声も発せず、殆ど動きもしなかった夫が、最後の妻の中に一粒残っていた愛情から出た計らいに、言葉は無いが、僅かに動いたその夫の虚ろだった目の中にも、妻への一粒の愛情の欠片を見た時、この妹夫婦に残った最後の儚い絆を感じた。
1時間弱とは思えない、濃密で面白い舞台だった。一度観たら気になって、もう一度観たくなる舞台である。
文:麻美 雪