満足度★★★★★
細部を穿った、「実家に帰った気分」を催させるセット。壁の羽目板の幅といい、色といい、取ってつけたような絵の額の位置といい、台所の平均的なシンクといい床のビニルの汚れ具合といい、奥の縁側から覗く塀の内側(庭)の中途半端なスペースといい、勝手口の土間のサイズ(狭さ)といい、ワゴン上に置かれた物々(もらいもの土産物がひしめく)といい・・・地方性(これを地方的と呼ぶのも哀しいが)が濃厚に漂う二間の空間がまずデンとある。そしてここに配置される人物も、そこは小松台東、作りの細かいキャラを担って存在している。些末な事柄がその人物の本質・弱点を表出させ、それを感知する「近い人」の反応が作用しあう図は、やはり芸術の名に価する仕事だと思う。
なぜか人情喜劇に流れず、非人情悲喜劇の道を選ぶかに見える芝居だが、城山羊の会と違って人間の根っこを掴まえている。即ちサイコパス化したか、元から素養を持つ人間の「怖さ」は、あくまで他者の目が「奇異なるもの」を面白がる目線に逃げるしかないが、松本哲也の書くものは人間がニヒリズムに陥るにもそうなる経緯がある、と捉える。そこを丁寧に、恐らく想像もまじえながら、粒立てていく。この細部にこそ本質が宿る所以を観る者にも突きつけてくる、リアリズム。
・・小さき者共が所与の条件下で不満を燻らせながらも押し殺し、あるいは叶わぬ夢を見、代償行為や勘違いに逃避する姿。もっとも芝居は彼らをリア充でない者、と分類してもいないが。
実家を守り父を看取った弟(山田百次)が、長く都会暮らしをする兄(瓜生和成)に電話をかけ、話があるから実家へ戻るよう言い含めるシーンから芝居は始まる。最初瓜生氏と判別できなかった扮装の兄は定職も持てず、弟が旅費を持つなら帰る、という境遇。
最近亡くなった父、幼少時(弟が生まれた時)に亡くなった母、不在の二人を含めた家族史がもたらした兄と弟の「もつれ」を解きたい、という単純な動機(弟の)が、恐らくはドラマを貫いている。ただ、その家(実家)に出入りする有象無象が絶妙な距離に存在しており、家族だけのはずのプライベート空間を密度濃く占めている事が、加熱をもたらす。皆それぞれにあるあるな人物キャラを見せ、一見醜悪だが群像として立ちあがる。人物いずれも憎んだり嫌ったりしているが「関わり」ゆえに感情が生まれる。長く不在だった兄を弟が呼び寄せた行為に、その視点が意志的に選択されている事が見えてくる。周囲のゴタゴタエピソードを挟み込んで最後の最後まで真意を明かさず温存した構成も、その意図を裏打ちするものだった。