満足度★★★★★
ストリンドベリの芝居は、初見。戯曲も「令嬢ジェニー」くらいしか知らない私にとって、この舞台を観れたことは、結果的に幸運だった。
昨年、「緑のオウム亭」を観劇して、その時もらったコピーの次回公演告知。長らく待ちわびただけのことはあった。
説明書を読むと
「家父長制度、父権制の色濃いシステムの中で「父」であらねばならないと
男らしくあろうとする男とそのシステムの中に存在する女性達。」ここまではその通り。だけれど、その後を読んで、イプセンの「人形の家」のような、家父長制度、父権制に抗い、自立と自由を求める女主人公(ステロタイプな解釈で恐縮なのだけれど)を想像していた。
しかし、「人形の家」のノラは、家父長制からの脱出を試みる、それと対峙して自己の立場を決めるのに対して、「父」の妻は家父長制・父権からの脱出を図るのでもなく、それらを否定ないし破壊しようとするでもなく、自らが父権を握ろうと企てるのだ。
その点では、権力奪取劇である。
父であるためには、まず男でなければならず、そして子を持たねばならない。
妻は、この2つの前提を根底から揺さぶることから、主人公の存在基盤を、そして精神を蝕んでいく。
まず、妻は周辺の人々に、彼は精神を病んでいるという情報を流布する。そして彼が家父(家庭の男性)として果たそうとする責任や義務をおざなりした上で、果たして娘は主人公の子だとどうして言えるのだろうかと、あらゆる角度から疑義を投げかける。
「父」の主人公は、家父長制に象徴されるような高圧的で、他者の思慮を排除するような矮小な人物ではない。例えば、娘を自宅に置いておきたい妻に対して、街に住みたいと望む娘を、街の知り合いに預ける手はずをする。娘の希望をできうる限り尊重する開明的な人物だ。主人公と娘の心は通い合い、それゆえに、この2人は幾度も抱擁をする。
かれが父権をかざすのは、家族を責任もって養っていくこと、家族の心の安寧を保つことに対してであって、権限というより父としての責務への従順さからに他なならない。
(以下、ネタバレ)
とにかく、主人公のセリフの数々が素晴らしい。朗々と詩を読み上げるように、次々と発せられる不安と猜疑の叫び。真実への訴求に没頭する言葉の洪水。
オープニングの気怠い雰囲気から、終盤の狂気からの誘い。それを見事に変化をつけながら演じきった松村武さんには、心底参った。