満足度★★★★
言うまでもなく、唐十郎の代表作。本多劇場こけら落としの伝説の名舞台である。
柄本明、緑魔子 版を見ている者にとっては、見るのが怖いような公演である。
日暮里は坂の多い街、駅前には漆の木があって・・・・・と柄本の独白で始まる舞台の記憶はまだ体に残っている。あれからもう、35年も過ぎたのか。そういえば世代も完全に一回りはしている。
時代は変わった。ナマの演劇は時代とともに変わる。作品が古典として残っていくには、何がその芯になっていくのか、と言う事を痛切に考えさせられる舞台だった。
かつて本多で柄本明がやったアキヨシをその子の柄本佑がやる。幕開き、その最初の第一声からして違う。(そのことをあげつらっているのではない) 柄本明のモノローグには、大都会東京の片隅によどんでいるような下町から立ち上がってくるそこに生まれた人間の実在があり、アキヨシに引きずられて舞台に現れる人々にも、リアルな存在、イメージ上の人物などなど、見事に振られた多彩なキャラクターが、現実社会に太古の時代から残っている親子兄弟の人間関係や、天候や地形など人為の及ばぬ環境に操られて舞台の上の秘密の花園に咲き乱れる。めちゃくちゃに見えるようなプロットなのだが、観客の心をしっかりとつかんで離さない。
あれは1982年の東京が見た夢だったのだろうか。
柄本佑のモノローグには、明のような痛切な都会への憧憬もなければ、女性への思いもない。舞台全体も、本多が情念の渦巻く混沌の舞台だったにくらべ、形だけは似ているのにどこか客観的で透明な感じである。重ねて言うが、それをあげつらっているわけではない。それがナマモノの演劇の宿命で、今の「秘密の花園」はこうだ、ということでいいのだ。
それにしては…という感想になるのだが、今回の公演では、そこが思いきれていないのが残念だった。観客は唐十郎に導かれて、新しいいまの日暮里を見たいのである。
当時のものとしては珍しく公刊もされている初演の公演ビデオでも不完全ながらほぼ8割の舞台は残っているし、30年を超える以前の公演にしてはこれまためずらしく当時の多くの関係者が存命だ。今回はスタッフ全員その呪縛から逃れられなかったのではないか。若い演出者にとっては大きなプレッシャーだったのだろう。
思い切って新しい演出でやってもこの唐十郎の世界は壊れたりはしないと思う。戯曲のどこをどうと、いうことには数限りなくアイデァも浮かぶいいホンなのだ。それを舞台の上で実現していかなければ、またホンも生き残らないのだから。