『青いポスト』/『崩れる』 公演情報 アマヤドリ「『青いポスト』/『崩れる』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    『青いポスト』

    一見「いつものアマヤドリ」であって、「いつもの」ではない。
    もう1本の『崩れる』が台詞(会話)の緩急・動静でリズムを生み出し、物語を先に進めていたが、こちらではシーンのつながり・重ね方で、物語を進めるリズムを作り出していたように思う。

    (以下はネタバレBOXへ)

    ネタバレBOX

    前後で行われるシーンと、次のシーンへ前のシーンを残したままつなげる手法。
    しかもそのテンポは速い。
    テンポの速いシーンの連続に、背中を押されるようにストーリーにどんどんとのめり込まされていく。

    これには「声のトーン」もあるだろう。
    双子たちの高くて揃ったトーンが要所要所で効いている。

    物語の中心には「善・悪」がある。それは以前の作品の延長線にあるようにも感じる。だから「いつもの」感があるのかもしれない。群舞もあるし。

    双子の姉妹はどう見ても「悪い」が、消されなければならないほどか、と言われれば、そんなこともないのではないかと思う。
    そもそもこの町の掟は、上から決められたものであったのではないかと思う。
    住民たちが自ら考え出したルールとは思えないからだ。つまり「消す人を選ぶ」なんて誰もやりたくはない。

    「多数決」による「住民の総意」とい形をとることで、「住民自らの選択」と思い込ませるというルール。
    「ルール」ありきで、「おかしい」と感じても元には戻れない。
    これこそが「大きな悪」なのかもしれない。大きな力による悪。

    毎年消される人が必ず1人選ばれるということは、いずれは「良い」「悪い」と関係なくなってくる可能性があることや、こんなに悪そうな双子が今までなぜ選ばれてこなかったなど、突っ込みどころのある「設定」が、この作品の要点ではなく、それをベースとして人との関係(距離)や自分自身のことをクッキリさせる。

    どう接して、どこまで踏み込んでいいのか、あるいはどこまでの関係なのか、がわからなくなってしまうことがある人もいるだろう。「これ、言ってもいいのか」などと迷ったりすることなどだ。
    委員会での関係がいい例で、そこでの関係はその場限りが前提のようだ。「人が消えること」を扱うのだからもっと人間味があってもいいのではないか、と思うサユリのような人も出てくる。

    また、双子とその育ての親の関係もそうだ。双子から叔母への距離感と叔母から双子への距離感にはズレがある。ズレがあるから哀しくなるのだ。
    ミズキが文通をしたり妹と話すときの感覚も、距離感が違いすぎる。一見「無害で人の好い」ミズキが、実は人を真綿で首を締めるように傷つけている、のではないかということが個人的に共感できすぎて痛い。良かれと思ってやる「お節介」は他人を苦しめることもある。

    先に「シーンのつながり・重ね方で、物語を進めるリズムを作り出していた」と書いたが、それは逆に登場人物たちの、それぞれのシーンでの役割・位置づけを観客の中で醸成させるには短すぎたのではないかと思う。また、その時間では登場人物たち役者もそれぞれのシーンで役を固定されるのがあまり上手くできなかったのではないか、とも思った。

    おばあちゃんを演じた中村早苗さんと、姉・ミズキを演じた小角まやさんの、全体の急な流れとは違う進み方が良かった。
    しかも、おばあちゃんと姉の役割が違うので、それぞれのテンポであるところが上手いのだ。

    0

    2018/01/10 03:51

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大