四色定理 公演情報 廃墟文藝部「四色定理」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    3作は初演当時に観ていた訳だけど、新作含めて4作並べると充実感ある。4女優が奏でる光と闇の感情の機微を堪能しました。

    以降、4作ごとの感想をネタバレboxへ

    ネタバレBOX

    【私は小綺麗なゴミ箱】
    「私」シリーズ元祖にして、最も切ない物語。
    「私」を取り巻くIF(Imaginary Friend)と定義される3人は、精神医学上のIFよりは、「私」の自我を構成する要素の分解・解釈する手段の色合いが濃いように思われた。IFを含む4人の会話は、個人の葛藤や逡巡を分かりやすく可視化し、舞台として非常に見映えが良い。
    IF3人で順繰りに言葉を継いでいくスタイルが多いせいか、初演の時は3人の性質の違いが「セリフでの表現」程の違いはないかなと思ったのだが、基本1個人の脳内であればIF相互に類似性があるのは当然と言えば当然。むしろ「私」の核たる個性を象徴するものかも。
    自分を押し殺して生きてきたかにみえる「私」の、自身の行為の正当化・意義の合理化は、非常に危うい雰囲気を漂わせるが、彼を元気づけた「人生にifは無いよ」というセリフが、IFに依存する自分に言い聞かせる様でいて印象深い。
    ラストの電話シーン。頭の中でIFが囁く「選択肢としての可能性」を静かに穏やかに制した理性。それを表現する「間」が好きだったな。初演の時は、ラストにもっと前進の予兆が欲しい…なんて思ったんだが、
    今回はむしろ、穏やかながら…IFの囁きに揺らぐことのなかった「私」に力強さを感じた。
    「結果は同じ」でも、選択したプロセスが違う…彼女は変われたんじゃないかと思えた。演出が微妙に違うのか、女優の演技が変わったのか、観客として受け取る私が変わったのか。本当にちょっとしたことで芝居から得られる印象ってのは変わるんだな。面白いよ、芝居ってヤツは。昨日も似たようなこと言ってるが、それが再演観劇の面白さだな。


    【私は4色のクレヨン】
    分かり易そうでいて、なんか一番捉えどころが難しい作品である気がしてならない。
    起承転結の「転」となる「四姉妹の置かれた境遇」は、物語としてはそんなに意外性があるでなく、初演の時でも、途中からソレを予感させる展開だった。だから、きっとその「実は…」の設定そのものは核心じゃない気がしてきている。
    でも、それ以外はさしたる事件がある訳でもなく、楽しく彩られてはいるけど、淡々とした彼女たちの人となりを示す日常の羅列。
     だから、それに添えられている…半ば無意識の様な彼女たちの言葉を掻き集めて意味を探ろうと思った。

    それで、観劇の感想としては邪道な気もするけど、購入した台本を読み返した。

    姉妹の性格・好みがバラバラであることを強調し、それこそが共存の秘訣だったかの語り口。一方、性格の表現型はその人を表現する唯一の要素ではなく、各々の表現型が「誰にだって少しずつある」と言ってみせる。

    バラバラの性格要素が個人を構成し、バラバラの性格の個人が集まることで家族という1個体がうまく機能する。面白い対照だ。血液型性格判定の話から、血縁の定めみたいなものへの懐疑へ展開するのも、設定への布石とだけ捉えるのは浅はかかな…

    そして終始、「私たちは家族」という呪文を繰り返す姉妹。
    舞台で見る限り、ほとんど理想的なコミュニケーションとバランスを持っているかにみえるのに…、バラバラの個人が集って機能することを実感として示していて、説得力もあるのに…、何がそんなに不安なのかと訝しく思えるほどに繰り返される「家族」のキーワード。
    それほどまでに、今の幸せでは拭えないほどに、過去に背負ったトラウマが重いのか…。血縁への抗えぬ渇望を逆に感じさせて、とても切ない。
    台本のおまけ小説「私はデニッシュ生地の氷塊」の終盤に出てくる「せめて…」のくだりがジンワリ沁みるのです。

    姉妹に幸あれと願わずにはいられません。


    【私は分裂するくらげ】劇闘版、新栄トワイライト版、そして今回の単独公演版と…都合3度観ていて、私の感じた印象がだんだん変わっていくのが不思議。

    「最後、あんなだったっけ?」

    というのが観た直後の感想だったのだ。劇闘版は、宮谷さん演出だから…というのもあるけど、奇妙な設定と4人の私の軽妙なコミュニケーションを楽しんだ感じが強くて、最後も天井からドサッと紙が落ちて敷き詰められ、まるで夢オチの様に「元通り」みたいな、ある種、爽快な後味だった。新栄版では、小屋の制約もあって地味めとなったが、廃墟文藝部らしいプロジェクター演出で、言葉の印象付けが巧みとの印象が主だった。

    で、実はこの時のラストは

    「何かさりげなく終わってしまった…」

    って印象に過ぎなかったのだ、私には。そして今回。
    その最終展開に、まるでサイコホラーの様な印象を強く受けて驚いた…

    元に戻るのではなく、一切の自己の喪失。
    穏やかな日常が始まるかの様に見えながら、
    私のすべてを失って「もぬけのカラ」になった「私」がそこに居るだけ… 「今日もいい天気!」という最後のセリフがひどく皮肉に感じる…怖い後味を残した。

    実は後で新栄の動画を見返したのだけど、基本やってたことは今回も変わらない。今思えば、新栄を観た時は、私は劇闘でのエンディングに意識を引き摺られてて、…核心のピースを拾えていなかったと感じた。まあ、私の目が節穴だったと言ってしまえばそれまでだし、今回の私の印象もおそらく一つの感じ方でしかないけど、ちょっとしたことで、こんなに受け取れる意味が変わるのかと…感動すら覚える。一つは女優の個性の影響も強いのかもしれない。新栄の「私」は天然癒し系の池場さんで悲壮感が薄まっていたかも。今回の瑠水さんの沈んだ虚無感の演技は、ダークな結末に相性が良かった。

    それにしても、本作は、本当にエンディング次第で残す印象を大きく変えられそう。

    切り捨てた私達が生き生きと活躍する様は、

    「自分の嫌な性質も、切り出し方次第でポジティブに活かせる。」

    みたいな前向きの結論も導き出せるし(廃墟文藝部にはひどく不似合いかも)、「分裂する私」って面白い素材だ。


    【私はためらう環状線】
    今回の新作。春子の感情が非常に微妙なところを漂うのを、瀧川さんが好演。彼女を取り巻く環状線は、無意識のうちに自己に形成してしまった「殻」ってトコなんでしょうか。

    最初は、自分が庇護するべき相手であった冬子の成長に、戸惑い、置いていかれる焦燥感みたいなもの… 裏切られたかのような逆恨み感情みたいなものが出てくるのかと思って観ていたのですが、一切そんな感じじゃなかったですよね。

    冬子は、どこまでいってもやっぱり愛おしい幼馴染であり、自分の歩んだ・選択した道に思うところはあっても、他者に責任転嫁しない春子の精神性は素敵だ。

    ラストであっけなく超えてしまった線路で、春子が漏らすささやかな嘆息と笑みは、軽い自嘲なんでしょうか。彼女はこの先、環状線を超えていくのか、
    それとも、なお留まってこの町で生きていくのか(それもまたアリ)…

    色んな想像を掻き立ててくれますね。

    なんか、4作で一番、等身大の物語な感じがしました。それはさておき、池場冬ちゃんの幼子芝居、完璧ですね。お姉ちゃんキャラと対極を行きそうなのに、なんなんでしょう、彼女に共存するこのキャラクター達は。美味しいとこだけさらっていく… ばみゅん…恐ろしい娘​((((;゚Д゚)))))

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    2018/01/04 14:12

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