熊楠の家 公演情報 劇団民藝「熊楠の家」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    予約は先行販売中だったので、前の方かと期待したが、当日精算だったせいか、むしろ後ろの方だった。

    前半は少し眠くなった。神社を減らすのは反対、環境問題は大事!国家を敵に回して闘う姿は素晴らしい。

    後半は研究分野で天皇に味方してもらえて良かったと思う。ただ息子との確執は考えさせられました。

    正当派の演劇もたまには見ます!

    ネタバレBOX

    南方熊楠:複眼の学問構想(松居竜五)から

    比較的早い時期から,熊楠を学者として評価すべきとした知識人は,柳田邦男や桑原武夫がいる。博学には違いないが,理論がない。1978年,鶴見和子『南方熊楠:地球志向の比較学』は,観点を変えた。

    問答形式の学問で,知的活動を行っていた。真言密教の思想を援用している。学問的モデルから,「南方マンダラ」と名付けた。1909年に,神社林の保護を目的に開始した,「神社合祀反対運動」をエコロジーの立場に立つ公害反対と評価。

    26歳で一般読者から寄せられた世界の星座に関する質問に答えた。これが,「東洋の星座」として『ネイチャー』に掲載された。鶴見和子により,伝説的巨人像でなく,等身大の人物として熊楠は把握された。

    『和漢三才図絵』は,熊楠にとっては格別な存在となった。和漢は,日中のこと。三才とは,天・地・人のこと。李時珍『本草綱目』にも関心を持った。江戸初期に輸入されたこの本は,儒者・林羅山が長崎で購入したものを,家康に献上したとされている。貝原益軒は、1709年に,『本草綱目』から動植物を比較し,『大和本草』を著した。

    『十二支考』の虎にあっては,熊楠は『和漢三才図絵』から材料を転用した。虎の頭蓋骨で,まくらを作れば悪夢もみないだろう。玄関に置けば,ゆうれいも退散するだろう。虎が死んだ場合,その目が放つ光は地中に落ちて石となる。

    加藤弘之の進化論理解は稚拙であったとする。むしろ,熊楠こそが,アメリカでスペンサーから自由な批判精神を獲得した。ただ,スペンサーそのものも,多面的思想家であったがゆえに,熊楠がどのような側面に注目したのかはよくわからない。

    文化が独立発生して来たものか,あるいは,伝播によるものであるかは論争になる。対立しているようにみえるが,補完的なかたちで作用していることがある。

    書簡によって,法龍と,大乗仏教を中心としたやり取りをした。1902年においては,粘菌(変形菌)の生態を例に,「曼荼羅」という言葉を使い始め,独自の哲学を展開した。のちに,2004年高野山にてその手紙が発見された。

    1893年には,シカゴで,臨済宗・釈宗演ほか,各派がイベントに参加している。この一連の対話では,仏教徒から,仏教と科学の比較が提起された。因(縁)果論が,科学上の因果律と一致するものがあるのではないか。釈宗演に随行したのが,鈴木大拙である。

    華厳経については,熊楠の世界観の一つの源泉である。唐の法蔵から来た教えもある。ほんの小さな世界に,大日如来の教えを受ける無数の仏がいる。微小な粒子の中にも,大日如来の法の力によった世界がある。

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    2017/06/17 18:48

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