親愛ならざる人へ 公演情報 劇団鹿殺し「親愛ならざる人へ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ほぼ2時間。珍しく2度観劇した。鹿 at 高円寺は『山犬』(だったか)以来の2作目。イベントらしいのが鹿番外編的な公演には合うんでねが・・と今日は思ったさァ。

    ネタバレBOX

    なみチケ(劇場発行割引チケット4枚綴り。有効期間は年度内)の使いみちがこれ以外なく、異例の2度観をした。もっともこうなる可能性も入れての購入であったしバージョンも「天真爛漫な妹」と今回は「破天荒な妹」と分けて観ることができた。

    観直すことで不明だった事が明らかになった箇所もあり、嬉しい誤算・・というか、とにかく新鮮に観る事ができた。バージョンの違いが大きく、一組の俳優の入れ替えの自然な変化というより意図的なキャラ付けがある。ただ、細部で微妙に異なるのはバージョン違いと同時に回を重ねての変化もあるだろう(着ぐるみ=ひっとくんの動きがえらくシャープになったり)。
    座席は横長の向かい合った対面で(通常の組み方より席数5割増し位?)、私は前回が入口から遠い側のほぼ最下手・上段、今回が入口から近い側のほぼ最上手・最下段と、真反対の席であったのでその違いも大きかった。
    両日とも当日券で条件悪し。二度目の観劇は最下段で目線が人物の腰より下、足を付けた床から、40センチ位の台上がステージなのは良いが、こちら側は反対側より一段高い上に、「観客ご招待用の丸テーブル」があり、披露宴の場面になるとパンフに書かれた番号で呼ばれた観客が着席し、そうすると私の席からは舞台中央の芝居の大半が見えなかった。
    が、全体としては、表裏から観る事による「発見」があり、満足であった。

    「カリスマ・ウェディングプランナー」(オレノ)のピアノ演奏が生である事、プラン通りに行かない披露宴の成り行きに演奏をしながら一々失望の演技を地味にやっている所など。出ハケの通路が目の前なので役者の顔のファンデーションの乗り具合までわかる。

    さて奥菜恵である。後先にも大人計画『キレイ』での自由奔放な姿(上演10年以上経てDVD映像で見ただけだが、十数回は見た)しか知らない。映画、ドラマすら観てない。この舞台(2000年)では売出し中の初々しいアイドル顔が天真爛漫かつ破天荒に主人公ケガレを演じていたが、きっとこの体験は彼女にとって大きかったのだろう・・そう想像させられる、殆ど再現に見えた今回の舞台だった。

    結婚式を明日に控えた夜、かねての夢「両親への手紙を読む自分」の実現の前に、肝心の「手紙」が書けない。・・ちなみに彼女は心の声が駄々漏れで、芝居でも「実はそれ、ダダ漏れ」だった事が判明するくだりもあるが、とにかく「夢」以外のことは無価値に等しいとばかり、あけすけな傍若無人な毒を吐く。そこが奥菜恵だ。
    ついに朝を迎えてしまった彼女は、目を血走らせ獲物を狙う猛獣の顔で「夢、夢・・」と呪文のように唱え、時を待ち構える。尋常でない彼女を、周囲はフォローともスルーともつかない微妙な距離に置いて、式は進行。妹の「歌披露」という彼女には全く不要なサプライズもやり過ごし、ついに迎えた「感動的な手紙」はいかにも凡庸であったが、そこで終われば主人公にとっても、語り部(ウェディングプランナー)にとってもハッピーエンドであった。ところが「私も手紙を書いてきた」と懐から封書を取り出したるは、母。父そしてまさかの新郎から、いずれも彼女の「自己中」ぶりを憎たらしく指摘するという「逆襲」であり、「夢を邪魔する敵」に悪態をつきまくる彼女を渦の中心としてブーイングそして乱闘の嵐が吹き荒れる、という顛末。
    母親の手紙は、不肖の娘への愛情が滲み出たぶっきらぼうな文面、父は男という存在の不憫を嘆きつつそこに小さな幸福を見出す喜びを語り、新郎は旅先のオランダで出会った彼女と東京の彼女では天地の開き、将来を思えば憂鬱にもなるがそれでも添い遂げてみせると結ぶ。
    主人公は予定外の展開に戸惑い、不満をぶちまける。
    この分らず屋なリアクションが、彼女に相応しいものに見える事がこの芝居には重要である。奥菜恵でなくば、難しいだろうと思われた。
    彼女の夢が瓦解した後にも、新たな芽吹きがあり、静かな出発がある・・とキレイにまとめられたのも、解毒力(それは即ち容姿・華という事になるか)を持つ彼女ゆえ、に思われた。
    (この先の文章を読み返した処、眠気に抗いつつ書いた模様、支離滅裂。バカ長いが意を汲みつつ書き改む。)

    メッセージらしきものがある。主人公のこの台詞、「嫌いなところを言い合える家族のほうが、いやいやながら笑顔を作るような家族よりよっぽどマシじゃない!?」(という趣旨)、これは親族による結婚式にはあり得ない「ディスり」の手紙に彼女がキレた事に発した場内大乱闘のケツで、場内を水を打ったように静まらせる言葉だ。「だけどあなたたち、本当に言いたいことを言い合えてるの?」と、ほぼ客席に反転した体勢で言う。
    彼女の普段の素行が問題の「手紙」を書かせたのだとすれば、これらの一連のやり取りを肯定評価する事は、彼女自身が自分に正直に(自己中に)生きているゆえに相手をして「正直」ならしめた意味も含めて己を最大限肯定する言葉だ。「夢」を持った事による苦悩と相見あう、己を鼓舞する言葉と言えるだろうか。もっともさっきまで、鬼の形相で自分のイメージを壊す人間を睨み付けていながら、突然何?歯の浮く事を言って。。というご都合主義な雰囲気も過るのだが、また彼女が自己中でなくなったら彼女ではなく、彼女が「そうせざるを得ない」何かを解消しないままにしおらしくなる不自然も過りはするが、突如の飛躍台詞には何故か演劇的説得力があった。
    その言葉には現実を映すものがあり、日頃自分が痛切に感じ取っているものにブリッジされたからだろう。
    架空の世界の中で完結される事をドラマを味わう者は欲する(無意識にも)し、「作る」意志も完結へ向かおうとするが、(この芝居も例外でなく)演劇は現在を含み込んで出来上がる。逆に、排除できない「現実(劇の外の世界)」と組み合って成立するのが演劇だ。
    「言いたいことを言い合えてない」今、とは従わねばならない義務の領域が、自由の領域を侵食しているという事だ。
    この事はさまざまな次元で生じている現象だが、奇異さにおいて突出するのが安倍首相絡みのあれこれだ。
    安倍は悪口(自分への=笑笑笑)を決して許さない人だが、そんな無理筋が、あろう事か周囲が身を引く格好で罷り通ってしまっている。うるさいから一時的に避難(自粛)、「君子危うきに近寄らず」とは道理のありそうな言葉だが、危ないものは逃げずに捕獲して安全確保をする事が必要な所、そうなっていない現実がある。
    安倍が人に「言わせようとしない」事は多々あるが、ある時間を切り取れば対象は一つだ。別の時間にも、それを言ってはならないという、恒常性、普遍性がない。いつどこでもとなればまだ抗議のしようがあるが、安倍は相手の指摘に「疑わしきは罰せず」に反する事が人倫に悖るかのように反駁し、「言わせない」。だが他の場所では同じ指摘は通用する。この違いは安倍が敷いてしまう治外法権な「空気」にある。空気はもちろん安倍一人では作れないが、安倍が強烈にそれを気にする人である事により、それは醸成されるのだ。(政権支持率が更にこれを助けている事も否めないが、そろそろこの国も支持率や視聴率、その他重要なデータの信憑性を疑って掛からねばならない日に備えねばならぬかもしれない)
    自民党案による憲法改正が成れば義務と禁忌は生活の大部分を占めるようになる。
    かつて途上国などの開発独裁政権は冷戦の下、人民の自由と権利を制限したが、富を引き込む目的において国民と一定利害を共有した面があったと思う。
    だが安倍政権は外資を招き易くし、国に必ずしも雇用や富をもたらさず、国内産業や環境や健康をも危険にさらしてただ「米国(のある勢力)」の顔色を窺う事でそれと引き替えの「何か」を得る事が国益であるかのような論理を、(それと説明する事なく)浸透させている。自分たちを選んだ国民よりも米国や企業のほうが、彼に利益をもたらすと考えているのだとすれば、やはりこれは奇異な現象だ。この奇異な事態に、気づくだけの冷静さを持たないために敵愾心を焚き付け、格差は簡単に縮まらず次第に不遇の原因は己自身にあるとの論を飲み下させ、生活に追われるよう追い込み・・。
    奇異な事態に気づいた者を管理し取り締まるために法律によって禁止事項を増やしていく。今でさえ、別件逮捕や微罪逮捕、長期拘留。
    今や本当の「国益」についての議論も、「言えないこと」の一つになってしまったかのよう。せめてこれらが「国民自らが招いた事ではない」と、示す事ぐらいが後世に残せる事であるかも知れず。暗澹とした所で、おしまい。
    この芝居に元気をもらったなど、口が裂けても言えない。言葉を埋めたくなる隙間にこそ、賛辞が贈らるべし。(とかなんとか)

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    2017/03/11 07:41

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