グレートフルグレープフルーツ 公演情報 OuBaiTo-Ri「グレートフルグレープフルーツ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    鑑賞日2017/01/21 (土)

     舞台の真ん中に、背凭れが不自然な程長く伸びた真っ白な椅子が一脚、寂しげに据えられている。

     その後ろと前に、同じ椅子が、ネオンカラーの蒼、赤紫、碧の照明に染まって吊り下げられ、床には文字の書かれた紙が打ち捨てられたように散らばり、キャンディーズ、八神純子、アグネス・チャン、小泉今日子といった、懐かしい昭和歌謡が止めどなく流れ続けている。

     どんな世界へと誘われるのかと、目を凝らし、耳を澄まし、八幡山ワーサルシアターの一部と化したその時、

     2017.1.21(土)PM13:00

     OuBaiTo-Ri『グレートフル・グレープフルーツ』の幕が上がり、物語の扉が開く。

     舞台の壁、床、天井と縦横無尽に張り巡らされた赤い糸。

     それは、一本の長い糸が一筆書のように交差され、張り巡らされたようにも、何本かの糸が交差し、干渉し合って張り巡らされているようにも見える。

     赤い糸は絆。運命の赤い糸であり、柵(しがらみ)でもある。

     赤い糸は、この舞台を象徴している。

     始まりは1本の赤い糸。

     それは、『居ない父さん』と暗闇ヒカルの親子の絆。

     その絆は、ヒカルが8歳の時に、ヒカルの前から父が突然居なくなり、『居ない父さん』になったあの日、断ち切られたかのように見える。

     しかし、その絆は、ヒカルがずっと心の中に父をずっと持ち続けていたことで、細々と繋がっていた。

     『居ない父さん』とヒカルの絆という赤い糸は、2時間10分の舞台中、ずっと物語の根底に張り巡らされている。

     やがて、雑誌記者となったヒカルが遭遇する、福岡県で発生した連続バラバラ殺人事件の取材を上司から命じられ、後輩の久津木高丸ことクズ丸と共に、渋々と東京から赴いた福岡で、その赤い糸は、影彦とテルオという、二人にしか存在し得ない、切なく、悲しく痛ましい赤い絆を持った二人の糸に繋がって行く。

     取材を続けるうち、ヒカルたちはこの事件で次から次に発見されるバラバラの遺体にはすべて、喰いちぎられたような痕があり、人々は土地に古くから伝わる妖怪「ししこり」の仕業だと噂する異常な謎に覆われていることを知る。

     事件を取材するにつれ、それには、影彦とテルオの糸が交差し絡み合っていることが明らかになる。

     行き着いた其処にあったものは、『居ない父さん』とヒカルの絆、影彦とテルオ、『居ない父さん』とヒカルの4本の赤い糸が、孤独と絶望と柵という糸に搦め捕られ、繋がった5本の赤い糸によって織り成されて行く物語。

    全体として、舞台から放たれる情報量は膨大なのに、煩さを感じない。寧ろ、静かにすら感じる。

     それは、夏の終わりの蝉時雨の静寂、雑踏の中の孤独のような、クリスマスの片隅に潜む一抹の淋しさのような静かさ。

     どんな理不尽なことも肯定して生きるヒカリの命の力に触れ、テルオも影彦も、一筋の仄かな灯りを、最後に見たのではないだろうか。

     自分の目を潰し、影彦の目を潰し、光を失った後でその事に気づき、影彦と共に自らを「ししこり」に与えるために、歩いて行ったその闇に閉ざされた目に最後に映ったのは、夜空にただひとつ瞬く小さな星の光のような希望だったのではないかと思う。

     物語は、影彦とテルオが、「ししこり」の餌食になったのか、何かが「ししこり」を退治して、二人は生きているのが解らない。

     ただ「ししこり」が、テルオの絶望と孤独が産み出したものだったとしたなら、ヒカリの指と同様、自らにかけていた呪縛が解けた時、「ししこり」も消滅したような気がして仕方ない。

     私個人の希望的観測としても、影彦とテルオは、物語のその後も生きて幸せになって欲しい、そう強く願った。

     さめざめと温かな涙が、頬に止めどなく流れ続け、年明け早々今年一番とも言える物凄い舞台を観てしまった。

     そう言い切れる舞台であり、年明け最初にこの舞台を観られたことを幸せにも誇りにも思う素晴らしい舞台だった。

                  文:麻美 雪

    0

    2017/01/29 11:17

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大