ルーツ 公演情報 KAAT神奈川芸術劇場「ルーツ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    KAAT大スタジオ一面が高低差のある「町」で、左右のバルコニーも「路」の延長として役者が移動に用いる。その意味で舞台の隅々までこの世界の秩序の行き渡り感が視覚的にも圧倒して、隙が無い。閉山した「鉱山(やま)」らしく、黒くくすんだ町(というより廃村に近い)の全容、この地にへばりつくように暮らす住民たちの独特な、歪つな、猥雑なエートスが、この僻地にやってきた青年の眼差しと体験を通して顕在化していく。「個と集団」を探る企画の狙いが、作者・松井流に執拗に追究され、答えの無い混沌の中に放逐される。「砂の女」のテーゼがなお探求に値する今の現実があるという点には同意。
    休憩10分を挟んで2時間40分。架空の村の生態観察は、言わずもがな変態性に満ち、私には好みである。

    ネタバレBOX

    この芝居の「主人公」とも言えるこの「村」の歪さは、ある一点(村独自に生み出した宗教的慣習)にあり、村で自身のライフワーク(古細胞の研究)を続けることを望む青年は、他の事では村に従うがこの一点において村の趨勢に抗い、英雄的行為に走るという割合爽快なラストがある。
    だが、宗教を生み出す「異常さ」にでなく「必要」に迫ろうとした戯曲ゆえ、その部分をもって「歪」の判子を押して打ちやるには躊躇いが生じる。
    話の時代設定ははっきりしないが「今」ではなく、廃坑以来何十年かが経った、戦後のある一時期のよう。すれば世代は3世代ぐらいか。しかし村の宗教的挑戦での「神」第一号に当たる男(年齢不詳だが老齢ではない)が、「神」の任を解かれ、次の「神」の誕生への代替えの儀式が、(この宗教の開闢以来・・つまり十何年だか何十年だかを経た今)第一回目のそれとして芝居の中で展開する。ここで奇妙なのは、実験の途上でもあるこの宗教が、その独特で柔軟性のない=具体的な実践に他者を巻き込む教義における「次段階」が到来した時、村人は「初めて」の経験でも「信じる」ゆえか戸惑いがない。想像するに奇態な心理状態がよぎって嘔吐しそうになる。
    ところがなんとここで、(この教義であれば当然)「あってもおかしくない」事態が起きる。それまで「神」とされた者が「解任」された事により人の視線をまともに受け、パニックを起こすのだ。それは「醜態」と呼ぶに相応しく、村の発明品(宗教)を無言の内に酷評されたに等しい。いかにひどい「試み」であったかの証左となる。そうすると、その時点で「神の目」を持つ観客は、村を脱出しようとする者、村の大勢に抗う者が本質的に「英雄」であり主役の側である、と感知する。
    だが。・・「神」を必要とする事と、その「神」を頭上に頂く「方法」についての是非は別であり、世から打ち捨てられたような村で慎ましく暮らす彼らは、励まされこそすれ、一点の過ちで指弾さるべきでない、とも思われるのだ。
    松井氏は単純な答えを用意したとは思わないが、この芝居での集団(村)は目先の利益のためでなく、極めてまじめに、人間救済の宗教を生み出そうとした、そこは間違いないように思われる。そして(キリスト教が発祥当初そうであったように?)カルト化していることには間違いないが、一方「私は神を<生む>人になる」と宣言して母と妻を廃業した女性の登場など、物語の副流ではカルトの権力構造に(結果的に)切り込む事で「宗教」自体に普遍性を付与させ行く契機・・世界宗教のような・・が垣間見えたりする。
    「外」からやってきた青年の現代的な感覚は、差別にさらされた村で細々と暮らす感覚に比して格段に「軽」く、ヘラヘラと見える青年のほうに自分を重ねた観客も多いだろう。「閉じた」村であって何が悪い?という台詞もあった。ラストでは「村」的思考の敗勢がみえたが、一つ一つの問いは容易に答えへと導かれない。
    ・・終演後、「私はどこに行っていたのか」と思う。希有な体験を持ち帰り、吟味しようとするが、松井氏の爽やかな童顔と変態的存在性とのギャップに悪夢を見そうになる。
    奇怪な人物(関係)の景色を、舞台上に生み出した仕事には敬服。

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    2016/12/22 02:56

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