満足度★★★★
テキストのコラージュ
主宰多田淳之介の日韓共同製作「カルメギ」(チェーホフ「かもめ」の翻案)、「台風奇譚」(「テンペスト」の翻案)に続く、同趣向の自劇団版と思されるが(この二つは残念ながら見ていない)、この古典をどういう視点で料理するのか。「カルメギ」「台風」は企画上からも明確に朝鮮史を舞台にとった作品になったが、今回はそうではない。ばかりでなく、物語としての「三人姉妹」はそれとして原作の登場人物名(ロシア人名)で演じられながら、戯曲「外」の要素が折々に浸潤してくる。(幕開きの舞台の光景から既に奇妙だ。)
場面はおそらく抜粋で、時系列も戯曲通りなのか不明、そのように作られてもいる。場面と場面の間には、前の語り手がゆっくりと歩いて去る間や、「音」が主役になる場(間?)によって、実にスローな時間が流れる。それらの場面は「何」によってチョイスされ、並べられているのか・・ いずれにせよこの舞台は人物がある状況で語るテキストが「固有の状況」を離れて言葉自体として浮かび上がるように切り取られ、強調され、繋げられている。「三人姉妹」はそのコンテキスト(文脈=物語)を語らない、言葉の集合としてそこにあるようであった。
言葉自体を独立させる事で、言葉は「現在」を指し示そうとする。俳優の「語り」の作法(技術)から、その意図が伝わる。
つまりこの「亡国の三人姉妹」は現代の「亡国」の風景に翻案した「三人姉妹」だ、ということになるだろう。
浮かんでくる疑問は、「三人姉妹」である必要はあったのか・・という点だが、連想を逞しくすれば、故郷=モスクワから遠く離れたわびしい田舎の生活に押し込められ、いよいよ待ち望んだ旅立ちの日に望みが断たれる結末は、故郷を思えどいまだ土を踏めない境遇、また故郷が他者のほしいままにされた状況にある人達にも、重ね得るかも知れない。
にしても、この舞台は知られ過ぎた戯曲だからやれた異色の翻案だったかと思う。