そして誰もいなくなった 公演情報 ULPS「そして誰もいなくなった」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    『そして誰もいなくなった』後に待つ結末は....
     イギリス・デヴォン州の孤島に建った家に、U・N・オーウェンと名乗る人物から、招待された職業も年齢も違う8人が、迎えの船が来なくなり、オーウェンによって雇われた、召し使い夫婦と共に孤島の家に閉じ込められ、いつの間にか10体の兵隊の人形が暖炉の上にマザーグースの『10人のインディアン』の歌詞と共に現れ、その歌に準え、1人また1人と殺される度に人形が1つ無くなってゆき、そして、最後に迎える結末は....。

     というアガサ・クリスティの名作、『そして誰もいなくなった』原作のミステリーを基に、細かなデティールやどんでん返しのラストに更にどんでん返しという原作にはない、ラストを加えて織り成された舞台。

     ミステリーの結末を、たとえ本日千穐楽を迎えたとは言え、言ってしまうのは野暮と言うもの。

     なので、事細かに書くことが出来ないのが、惜しまれるのだが、高校生の時にアガサ・クリスティの原作を読んだ時のあの息詰まるような緊迫感とどのような結末にたどり着くのか、ドキドキしながら小説の中に引き込まれて読んだ感覚をそのまま、膚に頭に、感情と身体の内に甦った。

     集められた全ての人間が、過去に何らかのの罪を犯し、抱えている。オーウェンは、最後の最後になるまで、一切姿を現さず、蓄音機によって、彼等の過去の罪が告発され、弾劾されるのだが、その罪は事故とも事件ともつかないものであり、その罪を犯した彼らにしても、それを罪とは思っていない者もいる。

     各々の中にある、各々の自分にとっての正義若しくは正義だと思っているもの、それは、傍から見ると、自己を正当化する為の身勝手な詭弁にも思えるが、その思考もまた自己の規範と尺度でしかない。

     正義とは罪とは何なのだろうか。その違いとは何なのか。正義と罪は背中合わせの紙一重の処にあるものではないかと感じた。

     何が正しく、何が間違っているのか。それは、一人一人の解釈によって、正義にも罪にも、そして、正義という名の下に執行される歪められた正義にもなり得る。それを行ったのが、司法を司る者であったとしたら、これ程怖いことはない。

     正義と罪(犯罪)は、両刃の剣ではないのか。行き過ぎた正義と狭量で視野の狭い正しさの尺度は、暴走し狂気に走る怖さと、人に強要することにより、人を追い詰める危うさを秘めている事を感じた時、膚をぞくりと寒くさせる怖さを感じた。

     この舞台で、特に印象に深く残った、加藤大騎さんのローレンス・ウォーグレイヴ判事は、立ち姿、佇まいが美しく、そのスッと伸びた背筋と所作の端正さと目線、立ち居振舞いのひとつひとつが、原作を読んでイメージしていたウォーグレイヴそのものであり、アガサ・クリスティ作品の馨と雰囲気を纏っていて、とてもしっくりと舞台と馴染んでいて、素晴らしかった。

     この舞台は、10人が各々、このミステリーのキーパーソンであり、主役であり、語り手でもある。

     オーウェンの告発によって、向き合わされた各々の中の罪と、一人ずつ殺されて行く事で追い詰められ、露になる己の脆さと人の醜さ、自らの本性を突きつけられ崩壊して行く自己、ミステリーでありながら心理劇でもある。

     原作通りの結末だけでも衝撃的なのだが、最後にもう捻りあるその結末は、原作にはない種類の衝撃ではあるが、それによって、落とし処のなかった気持ちと感情が、救われた感じがした。

     原作を好きな人には、良しとするか否とするか意見は分かれる処かもしれないが、私は、この結末のどんでん返しは、この舞台ならではの面白さだと思う。

     2時間ちょっとの上演時間が、あっという間に過ぎ、観終わった後、酔いにも似た高揚感と興奮が、身体の中に熱が籠っているような、真相にじわりじわりと迫ってゆく緊迫感と高揚感に、何度も前のめりになって観た、濃密で面白い舞台だった。


                           文:麻美 雪
     

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    2016/10/10 01:21

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