満足度★★★★★
誠実で新しい才能
主人公の妊娠がわかる冒頭の場面のようなコミカルさ、ドーナツ化症候群というテーマのシリアスさのスイッチの切り替えが、抜群にうまい。胎児が母に話しかけてくることや、胎児同士の会話など、演劇的な魔法を舞台上で見せる手際のよさにも感嘆した。出生前診断というきわめて難しいテーマに、誠実に向き合っていたと思う。
先日、東洋経済オンラインでの記事で「子どもを産むことに覚悟がいる時代」(http://toyokeizai.net/articles/-/115149)という平田オリザの発言を読んだ。実際、数十年前、たった数年前よりはるかに、子どもを産み育てることはコストと覚悟がいることになってしまったと私も痛感する。そうした自然な人間のいとなみにも、斜に構えて安穏としてはいられず、覚悟をもって挑まなければならない。ヤリナゲの新しさとは、そうした時代に政治状況や社会問題、倫理の問題を「自分ごと」として捉える新しさである。従来、ある特定の人たちの(この場合は、知的障害を持って生まれた子どもの親たちの)切実さだった問題を、いかに誠実に自分ごととして引き寄せるか。作・演出の越寛生は一歩一歩、踏み込んでゆく。ハイバイ・岩井秀人の作品のように自分の人生をモチーフにするわけではないが、すべてを「自分ごと」として捉え、想像する能力が抜群なんだろう。脚本の言葉の鋭利なセンス、俳優がそれを口にした時のイメージのふくらみ方、進行のテンポの良さも魅力である。
足りない部分があるとしたら、主人公の母親が、かつて第一子(主人公の姉。ドーナツ化症候群を患っている)を生んだあとにどのように葛藤したか、それをもとに主人公に何か果たせる役割があったのではないか。
バッドエンドの衝撃は凄まじいが、きちんとこの世の絶望を描いている。個人の問題を扱っていながら個人の感傷に留まらず、普遍的な人生の問題に取り組んでいる。ひとの生きる姿の奥深さにリーチしないものは、エンターテイメントではないと私は考えるけれど、今作は「笑えるエンターテイメント」を超えた、芸術につながる「演劇作品」だった。
越寛生の作品は、人間の汚い同調圧力、「世間一般」とされる狭い尺度を浮き彫りにする。彼はけっして、問題を俯瞰したり諦観したり、解説しようとしたりしない。ただ、誠実に悩むのだ。その姿は、果たしてわれわれは、こんな狭い尺度で測れる世界にいていいのか? どのように世界と向き合えばいいのか? と問いかけてくるようである。