満足度★★★★★
何にもすがらない自由を勝ち取る少女の戦記
「笑い、エンタメたっぷり、絶対王政から自由を勝ち取る
少女の大逆転大河ドラマ」。拙者が1回目この劇を観た時に思った
感想だ。面白すぎて結局3回この劇を観た。感想は
「何にもすがらない自由を勝ち取った少女の戦記」に変化した。
今までの月刊「根本宗子」なら、舞台は仕事場、登場人物間の
人間関係といえば、職場の同僚や上司・先輩・後輩、もしくは
恋人同士、または友達というのが多かったが、この劇は違う。
この劇の舞台は「安曇野家」という家の現在。安曇野家は、
成田空港からさほど遠くない、車でジャスコに買物に行くような土地にある。
借家ではなく持ち家に住み、そこそこの資産家。登場人物はほぼ
その一族。物語はその家族に新しい構成員が入るところから始まる。
安曇野家の絶対的戸主は58歳のミチコ
(川本成、猪股和磨、小沢道成が順に演じる)。
彼女は女手一つで三男(長男・川本、次男・小沢、三男・猪股)一女を
育てあげる。上三人の息子たちは全員一見ちゃんとした社会人に成長し
それぞれ家庭を持つ。娘も成績優秀な女子高生。そんな彼女が24歳の
太一(土屋シオン)と婚約。
今では珍しくない年の差婚だが、家族はこの結婚に猛反対。なぜか?
ミチコの娘で17歳の主人公・咲良(根本宗子)の担任が太一だからだ。
担任と実の母が結婚という複雑さに加え、咲良が太一にほのかな恋心を
抱いていたため、余計に反発が膨らんだ。
息子3人も大反対。なぜなら、彼らは「超」がつくほどの「マザコン」で、
年下で部外者の太一に母を取られるのが嫌だったからだ。
息子たちの超マザコンぶりや、彼らの太一への嫉妬からくる大人気ない言動、
ミチコと太一のバカップルぶりが観客の大爆笑を何度も誘う。
実は息子たちが超マザコンになるように、ミチコが意図的に育てたのだ。
咲良曰く「息子たちを自分の好みの男性に育て上げた」のだ。
息子たちには「お母さん」や「おふくろ」等ではなく「ミチコ」と呼ばせたり、
人前で彼らと腕を組んだり・・。「欧米か!」と突っ込みたくなる反面、
いまだに和式便所やダイヤル式電話機を使い畳の上が一番と言ったり、
息子たちの躾けには厳しかったり、息子がイオンの
袋を持っているにも関わらずいまだにジャスコと言いはったりと保守的な面も
合わせ持つ。安曇野家の家訓は「ミチコを大切にする事、ミチコの言う事に従う事」。
安曇野家の中では、イオンではなくまだジャスコなのだ。なぜなら、ミチコがそう呼ぶから。
息子の嫁たち(大竹沙絵子、梨木智香、あやか)も、ミチコから散々な目に遭わされ、
母優先の夫たちから粗末に扱われ、不満を抱きながらも安曇野家のルールに従っている。
ミチコの暴君ぶりは半端なく、それゆえに観る者は大笑いと同時に彼女に嫌悪感を抱く。
その嫌悪感を隠さないのが咲良だ。安曇野家唯一の反逆児、突っ込み役だ。
息子たちとは真逆で、ミチコからぞんざいに扱われている彼女。育児放棄された恨みも
過分にあるが、それがかえって、この家の異常さを冷静に分析する思考力や、
それに対処する行動力が身についたと、拙者は考える。それがLINEや
テレビ電話を使い兄の嫁たちを自分の御方に引き込もうとしたり、忍者部に入り、
そこで獲得した術で家の図面を入手し、家のあらゆるところから、
ミチコと太一を監視したりするという事に繋がった。
物語の終盤。安曇野家に君臨していたミチコが不慮の事故で急逝。それがきっかけで
実は太一もマザコンで、ミチコに実母の面影を見い出したから付き合い始めた事が発覚。
今度はミチコと瓜二つの咲良を奪いにかかる。太一への反感から、急に妹思いになった
息子たちとその嫁たちは太一から咲良を守るために立ち上がる。
月刊「根本宗子」ならではの大どんでん返しの爽快感。殺陣の面白さとカッコ良さ。
ここまでのお話の中で使われていた小道具が、こんな意外なところで役に立つとは!
と感嘆する脚本の妙。そして何より、母や兄やその嫁たちを捨て家を出て自由になると
宣言する咲良の堂々とした生き様に、観る者は酔いしれる。
拙者は冒頭、この作品はある種の「大河ドラマ」だと書いた。「安曇野家」を
めぐる母と娘の17年もの間に及ぶ争いの記録。家の支配者たる母は、自分の
地位を脅かす存在になりかねない娘を、幼い頃から邪険に扱う。長年虐げられた娘は、
知略を使い、兄の妻たちを御方に引き寄せ、母への抵抗を試みる。大河ドラマによく
見られる親と子の確執、策略で敵御方がころころ変わる人間臭さ。忍者や刀が出てきたり、
殺陣があったり、家が焼き討ちにあったりする事も弥が上にも大河っぽさを感じさせる。
だが、この演劇、その要素だけでは止まらない。
ミチコが咲良を嫌う理由。それは、咲良がミチコを大切にするという
安曇野家の掟に従わない事が一番の原因だと当初は考えていた。そんな咲良は、
成績優秀で仲間を作る能力が高いという事もミチコには脅威だったに違いない。
理由はそれだけなのか?咲良と妻たち3人との何気ない会話の中で、こんな
台詞が出てくる。「子供は親の嫌なところが似る」。「咲良は小さい頃から色目を
使って男を誘惑してきた」と語るミチコ。実は、ミチコが自覚していた自分の
嫌な点でもあったのではなかろうか?
しかも、自分に似て可愛いし、自分と同じ仲間を作る能力もある。これでは将来、自分を
大事にしてくれる人たちを、この子に奪われるかもしれない。
そのような被害妄想に似た危機感が、ミチコが咲良、強いては女の子の血族を毛嫌いする
最大の理由ではなかろうか。
息子役の川本、小沢、猪股が順に演じてきたミチコ。その遺影が
根本だった事は、血の繋がりはもちろん、外見だけではなく内面も似ているという事の
象徴だったのかもしれない。
人間の心の奥に潜む醜い深層心理を笑い・エンタメ要素たっぷりに描いているのも
このお芝居の魅力なのだ。
この劇の魅力はこれだけか。いや、まだある。拙者が感じたこの演劇の最大の
魅力は、何事にもすがらずに生きていく自由を勝ち取った咲良の姿だ。
このお芝居に登場する人間は、咲良以外、何かにすがって生きている。
母にすがって生きている息子たちと太一。母が死んだら、今度は咲良にすがろうとする。
息子たちや太一より立場が上のように見えて、実は彼らに寄りかかって生きているミチコ。
息子の妻たちはどうか?
ミチコから不条理な仕打ちを受ける彼女たち。いつもの月刊「根本宗子」なら、
自分の運命に嘆き悲しんだり、怒り狂ったりして、咲良の側に立つはずである。
だが、今回はそうならなかった。結局はミチコ側に立ったのだ。これが大人の対応、
現実に近い選択で、この劇に説得力を持たせるのに効果的だった。加えて、
彼女たちも、何やかや言いながら安曇野家にしがみついている事がはっきりする。
何かにすがって生きている人々の可笑しさや哀れさが凄く表現されていた。
何かに依存して生きているのは安曇野家の面々だけではない。私たち一般人だって
そう。だから、必死に生きようとする彼らに観客は親近感を抱く。
咲良も太一や妻たちに頼りたかったが、結局は頼れなかった。
それが逆に咲良を成長させた。家を捨て家族を捨て、先生を捨て、自由に生きて
みせるという何者にもすがらない彼女の力強い姿に、大いなる勇気と爽快さを感じた。
何かに必死ですがる事しか出来ない我々の理想を、咲良は最後の最後で見事に叶えて
くれたのだ。
『忍者、女子高生(仮)』。このタイトルが意味するものを考えた。もちろん、
歴史に出てくる忍者という意味もある。あと、何かにすがり生きるために
耐え忍ぶ者、という意味もあったのでは、と拙者は推測する。何かに依存する限り、
仮の姿のままだ。忍ぶ者が、成長し、自由を奪い取り、本来の姿を手に入れた。その姿に、
観客は心を激しく揺さぶられるのだ。
「忍者」とタイトルが付いているのだから、もう少し忍者らしい事をやって欲しかった、
忍者部について語って欲しかったというのが正直なところ。最後の殺陣の場面、
忍者部での鍛錬のおかげで咲良が一番剣術が強かったってオチも有りだと思った。
根本宗子のモットーは、「今しか、私しか」作れないお芝居を作る事。最後の
咲良の何者にも頼らないという強烈な宣言は、根本自身の、演劇に対する信念を
貫き何者にも寄りかからず独自の道を歩んでいこうという熱烈な思いも
込められていると拙者は確信する。