満足度★★★★★
不遇の中にこそ人生の輝きがある・・等という揶揄には揺るぎもしない、戦後在日「あるある」家族ドラマ
実際にそうだったのだろう、裸電球の暖色系の灯火や、集落全体もまた夕暮れに染められた「昔色」の中、生活に、政治に、色恋に熱を上げ汗を流し、飲み歌い踊り言い争い殴り合ったある「過去」のひとコマが、新国立小劇場での3時間という時間に再現・凝縮されていた。 在日が戦後の大規模公共事業(住込み)に従事した後、住居に窮して河川敷や大工場の跡地にバラック小屋を建てて集落を築き、やがて立退きで消滅した「幻の町」は、最近まで存在した例もある。 さしづめ唐十郎の舞台なら懐古と憧憬の的となる神秘的な場所に描かれそうだ。
以前映像で見た「完璧」とみえた初演のキャスティングから、総取っ替えした新キャストたち(演奏担当の朴勝哲・山田貴之を除く)による今回なりの「ドラゴン」の風景が、次第に濃厚になって行く様を凝視した。 鄭義信仕込のギャグが時に滑ったり時に効いたり、「笑わせよるなァ」と判るシーンはそれと判り易く、オモニ役などは作っていたが、アボジが過去を語る長台詞はそれとの対照でギュッと締まる(琴線を弾きまくる)。 涙せずにおれない脚本が憎いが、彼らが表現するのは、心からの嘆き、叫び、己自身でありたい思い、自由を欲する心、欲得感情や虚無感の赤裸々な内面だからだ。
日本は他国に劣らぬ残虐な民族で、関東大震災では在日朝鮮人を「内地」で数千人殺した(外地で殺人鬼となった事は周知だが)。それも端緒は警察サイドが意図的に流したデマだというから、御し易い国民、別の言い方をすれば能天気で愚かな民族である事は、その昔「穢多・非人」がお上によって制度として作られ、まんまと差別を内在化させたのにも通じる。 従って、こういう民族がまたぞろ「上からの操作」によってマズイ事をやらかす可能性は非常に高いだろう・・と思っている。 ・・もっともこれは民族性の発露でも何でもなく、ただ「まんまとやられて来た」に過ぎないのだが・・。
歴史のIFではあるが、植民地化という事がなければ、(自民族意識の強い)朝鮮民族が日本へ何十万と渡って来る等という事は考えられない。 朝鮮戦争による南北分断が在日社会に影を落としたり、朝鮮人自身のための学校を建設したり、、つまりは「在日社会」を日本の一角に形成する事じたいがそもそも無かった訳である。 これは言わば理の当然だが、この根本が全くネグレクトされる事情を遡れば、教科書で教えるべきこの歴史の基礎知識が、民の「御し易さ」の点で「不都合な真実」である事、即ち「反中韓」感情の種火を国民の中に燻ぶらせ続けるのに障害となる事実である事も、わざわざ記す事でもない平板な事実だ。(それ以外に理由があるなら知りたいものだ。)
そんな国民感情も、「焼肉ドラゴン」初演時(2008年)とは様相がずいぶん異なっていることが想像される。当時はまだ韓流が受け入れられており、このドラマで描かれた歴史は、両民族間の厚い壁が融解してゆく未来をみながら、忘れ去られつつある「過去」として蘇らせられたものであった。しかし今回(再々演)は、そこから地続きにある在日の現在の運命が、意識される。差別は過去のものではなく、外的な都合でいつでも首をもたげてくる。差別依存症を遺伝的に抱えた日本民族を隣人に持った彼らの不幸というものを、私などは考えてしまう。
芝居は彼ら在日の悲哀とともに、それに屈しないたくましさを描いている。身世打鈴(シンセタリョン)を存分に語り尽し、自身が今ある状況にただ翻弄される生から、今立つ場所を見つめ本当の自分に立つ生への変化が、この焼肉店の三姉妹と三人の男の中に起こる。変わらぬのは彼らを見つめる父母であり、敗北し去った末の息子(時生)は、彼らと町を見つめる者として、屋根の上で物語を語る。非常に生々しい在日の歴史的な実相を状況設定に借りながら、普遍的なドラマを紡ぎ、しかし最後には在日への冷徹で優しい眼差しを後味に残す。
長年住み慣れた町から皆が去って行く日、最後の場では照明が白系(青系?)に変わる。春先の朝、思い出として区切られた時間から、不安と希望の未来の時間へと、旅立つ日の陰影の濃い明りだ。じっくりと長い別れのシーン、町と人への思いを嘗めるように吐く時生の独白は、これ以上無いくらいたっぷりやられるが、リアルな時間の速度である。それが許されるだけのドラマがそこまでで語り切られたという事でもあるだろう。次女と韓国人夫婦は韓国へ、長女と在日の夫婦は「北」へ、三女夫婦は近場でスナックを開く。
この旅立ちの延長には、現実の「今」がある。芝居と現実、「戦後期」と「現在」は、断絶していない。