地点『スポーツ劇』 公演情報 KAAT神奈川芸術劇場「地点『スポーツ劇』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    日曜夜に千秋楽!?観れたラッキー。
    実はあまり期待しなかったが、ずっしり中身のある土産を持たされた気分。快楽を引き起こさない言葉の感触や、視覚・聴覚に刺さる尖った印象の反面、ある種の快さと、イェリネクの執念(絶望から見出そうとする希望?)に、慰撫された感覚で帰路についた。矛盾するようだが、ある症状に苦しむ時に「それが何である」と名を与えられる時の安堵、に近い。現在の日本の言いようのないもどかしさに、五輪というモチーフを介して言葉を当てようと試みる行為は、それが「乗り越えるべき状況だ」との認識をもって介入する以上、「絶望の中に希望を見出す」態度に必然的にならざるを得ない、という訳である。「快さ」とは、そうした事々がある確信的なリズムの下で確信的に語られる事への、それだろうか・・?
    「期待しなかった」とは、『光のない。』の壮大な舞台、同じKAATの、大スタジオで観た『三人姉妹』、『悪霊』(地点初観劇)も、相も変らぬ地点の劇世界にそろそろ限界を見るんでは・・、あるいは飽きて来るんじゃ・・という予感による。地点の最大の特徴である地点語(造語だが‥文を不自然な個所で切って言う)と身体の動きが、「語られる言葉」とは別個に文脈をもって構築されて行く独特の世界も、離れていると「地点はいつもあの感じ」と思ってしまう。
     だが多忙に取り紛れてふと見れば、日曜なのに19時という時刻、これは観なさい、という事だと足を運んだ(向こうの策に乗っかったに過ぎんのだが)。
     音楽。三輪眞弘が『光のない。』にも参加していたと露知らぬ私は、この著名な現代音楽家の仕事も一度見たい(聴きたい)ものだと願っており、例によって観劇の際はその名前も忘れていたが、秀逸であった。
     抽象度の高い表現要素が、コラボしている主体はその他、舞台美術(これも「光のない。」の木津氏)、映像も幾何か、そして俳優たちの奇天烈大発語大会。
     二次曲線を切り取ったようなダイナミックな面が奥に向かって聳える舞台装置。人工芝の緑の上をよじ登ったり、滑ったり、手前に左右に渡されたネット(斜幕様で映像も映す)に引っかかったり倒れたり、ネットを潜って移動したり、反復横跳びするなど動作がスポーティである。
     前後の動きが勢い余って客席の床に落ちたりもするが、このパターンの組合せが一様のものの繰り返しでなく(一定期間くり返す、というパターンはあるが)、少しずつ、また大きく変化する。その動きの上に、台詞が乗っている。
     そんな中、こちらはこちらで「曲」を奏でるのが「合唱隊」で、時々「シュー」という無声音や、微かに鳴る有声、何かの言葉を口から発するが、主には、全員が手に持つ叩き棒のような「楽器」によって(「打つ」「吹く」所作によって)音程・打点を示す。延々と続き、刻々と変化するのはミニマルっぽい。
     この一連なりの「曲」は、舞台上の台詞と連動しており、緻密に作られた「時間の芸術」が、開演と同時に始動し、再生されている現象を、支えている。不可逆で、再び同じ場所に戻る事がない印象がある。また、一人一音を担う形態からか、一人が全体に奉仕して全体を形成する「秩序」と、その「力」が、音量は小さくて地味だが迫ってくる。 その効果はたぶん、それまでずっと鳴り続けた「音」の一切が後半のある時点で止み、BGM無しで台詞だけのシーンが一定時間続いた後、終盤に向かって加速する(この時点で音楽は舞台上の芝居に拮抗する主役の一に躍り出る)演奏によって、自覚されたものだろう。
     最後に合唱隊は(演出か音楽三輪氏かが)加えた歌詞=「ハレルヤ」をウィスパーで8回唱える。これが何に対する「ハレルヤ」なのか・・色んな解釈が可能だが、多義的な解釈が混在したままで成立する抽象性、ハイアート性?が嫌味なくある。
     さて言葉はどうか・・ イェリネクの書いた言葉は、殴り書いたような、詩だ。もっともイェリネクとしては戯曲を書いており、話者は(恐らく)一人。 
     これに関しては一抹の疑問が浮上する。『光の‥』同様に、日本社会に宛てて書かれた『スポーツ劇』は、東京五輪をモチーフにしている。つまり新作だ。まずは、このテキストを意味を持つ言葉で聴きたい、という欲求がある。これに対して地点語は、分かりづらく発語する。古典を一旦解体して構築する、というアプローチが新作でどう成立する(正当化される)のか、についてだ。 後で訳本を読みたいと願ったが、全訳は出ていないという。
     文を妙な所で区切る遊びは、裏をかかれる楽しさがあるが、意味を理解したい時には、裏をかかれた瞬間、その前に言った単語が何であったか忘れてしまい、文を見失う。時間という小川にポンポン投げられては流され、脳内で構築できない。これには困惑するが、しかしながらイェリネックのテキストの晦渋さ(文脈を捉える困難さ)を思えば、あるいはひょっとすると、アレがイェリネクのテキストを的確に「舞台化」したものであるかもしれない・・・等というのは単なる仮説だが。 それでも、舞台は心地よい。断続的に「意味」をもって聞こえてくる「言葉」は、虚しさ、やりきれなさ等のニュアンスを帯び、合唱隊の「音」と相まって「君が代」を遠回しに示すシーン(判るまで時間を要する)や、終劇間際にイェリネクが観客へ直接語るコトバが、私のツボにしっかりはまった。
     恐らく私自身が、イェリネクの文学的実存への想像力を逞しくするゆえ、舞台に共鳴するのに違いない。
     その意味では、「他の文脈」(=イェリネク自身の存在)を借りて舞台を観ている訳だ。しかし純粋に舞台上で提供される情報のみで成立する舞台がどれほど存在するだろうか・・。何より「同時代」という文脈を背景に私たちは演劇をみる。で、私は今という時間を厳しいものと見ており、この文脈でこの劇を観、自分なりの理解を得たのであった。
     五輪に向けていよいよ殺伐として行く予感しか、私にはないが、悲観的である源は何か、掘り下げ、汲み出してそれを対象化する手がかりを自分は欲しているらしい。イェリネクは言葉で足掻き、いまそこにある「絶望」からどうにか「希望」(の言葉)を見出そうとする。多分そういう事なのであって、その響きが通奏低音に鳴っていたのだと、解釈して良いだろうと思う。
    (長文ご容赦・・毎度の事だが)

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    2016/03/24 01:12

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