満足度★★★★
変態性。
あけすけに「変態」と印字されていたりすると、これは昆虫の変態の意だと自発的に字義を置き換える「認知的不協和」解消に走る自分がいる。もしくは、「変態」の実態について、直視的考察へと促される。早稲田小劇場どらま館で、同居する三人を巡る大真面目な反応実験が、テキストに書かれた設定で展開された。作演出の松井氏がしばしばそう呼ばれるという「変態」は、人間という海の深みに存在し、日常の表層と深淵のグラデーションのある位置で己(変態)を主張していた。それを行為として、言動として明確に見せる舞台であった、と言える。
理性の揺らぎ(神経衰弱のような身体的な病の状態も含め)は、存在の根底にある意識、願望を結果的に強調する。「普通」を求める目には異常に見えるそれらの現象は、心の奥に誰しも秘める「存在の不安」の表面化ともみえるが、松井氏が現在ある「縁」を逃れ得ないものとした上でドラマを書いている点、つまり「実験」を成り立たせるための「関係」が既に存在している事実から、ユートピアに見えなくもない。
カップル+1の設定と、伊藤キム演じる兄の芸術家的な繊細さは、イメージが飛ぶが映画「ソフィーの選択」で、主人公が出会うユダヤ人の青年を思い出させた。その青年の恋人(メリル・ストリープ)への、主人公の思いはもっとウブだったが・・