禁断の裸体 -Toda Nudez Será Castigada- 公演情報 Bunkamura「禁断の裸体 -Toda Nudez Será Castigada-」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    不具合もありつつ‥緻密さを醸す演出
    ブラジル戯曲だが三浦大輔氏が書きそうな戯曲でもあり、無理仕事の感は全く無し(同じく他者作品を演出した『ストリッパー物語』は観ていないのでそれとの比較にあらず)。ただ、性に対する禁忌の強いカトリック圏の文化に根ざして書かれた話は「キリスト教」に近い場所に居る自分にとっても理解しづらい部分があった。この部分が「不具合」にも関わる。
    異文化への想像力を動員させられる作品ではあったが、美術に十字架を多用した演出はその意味で効果的におもわれた。装置もよく出来ており、乾燥した固い土か岩を削って作ったような(南米にありそうな)白茶けた造形物が小高い丘のように中央に立つ。下手には袖側へ湾曲した長い階段、中央からもう一つの階段が中段あたりのエリアに至り、そこから更に下手側に昇れば最上段のエリア(先の階段の上)がある。上手は建造物を支える数本の柱が見え、奥は暗い。両階段上の各エリアと舞台前面の広いエリアの三つが、シーンごとに道具を変えて場所を表現する。前面エリアでは、下手斜め奥から別荘の部屋が、(暗転中で判らないが多分)上手から小さな部屋のセットが運び込まれ、中段・上段の小エリアでは短い挿入エピソードに多用され、上中下と階段を組み合わせたバリエーションが多彩で、場面のリアルさにこだわる三浦氏ならではの凝った装置となっていた。
    さて、俳優と演技については内容に触れるのでネタバレにて。

    ネタバレBOX

    話の中心に座るのは寺島しのぶ演じる娼婦ジェニー。抜きん出た娼才(?)を持つ彼女は、知人(恐らくは客である)男(池内博之)から、妻を亡くして生ける屍と化している兄(内野聖陽)に近づくように言われる。兄は銀行家で資産を有するが、弟は兄から金を引き出せず、生来の遊び人で金に困っている設定。もっともその事の恨みより、兄の「純潔さ」を汚したい、剥ぎ取りたい願望の方が強そうだ。兄を「蘇生」させてほしいと弟に哀願したのは、この名家に仕える三人の「おばさん」(木野花、池谷のぶえ、宍戸美和公)。おばさん(叔母/伯母かも知れない)たちはいずれも処女で、兄の息子は既に思春期を過ぎているが入浴中の世話まで彼女らがやっている。神に授かった純粋さを持つ尊いこの少年をおばさんたちは自らの使命として大事に育てているのだ。弟は策略家というより野人で、兄とジェニーとの接触が起こす化学反応に興味があって仕方ない風だが、背景には性欲の強過ぎる弟の、その所業は戯曲中「初体験が獣姦」の一事が挙げられるのみだが、紳士然とした兄への屈折した感情がありそうだ。
    ところが、娼婦ジェニーは兄に惹かれてしまう(深酒をした兄と彼女は行為に及んだ模様)。やり取りの後、弟は(思惑通り)兄の欲望に火がついたとみて、ジェニーに「結婚して」と兄に乞うよう言いつける。ジェニーはそこだけ弟に従い結婚を要求すると、兄は考えに考え1ヶ月後ある別荘を用意して見せ、状況が整った暁に結婚しようと言う。ジェニーが喜び、行為を迫ると「婚前交渉はいけない」と、また純潔さを発揮してお預けとなり、加えて1週間放置され業を煮やしたジェニーは兄と一悶着あり、兄は禁を犯して事に至るのだが、行為の後なぜかジェニーは娼婦街に戻りたいと兄に別れを切り出す(ここへ至るジェニーの内面の事情は説明されないが、女の行為としてあり得る自然な演技でこなされていた)。
    一方、兄とうまく行っていない兄の息子は、父を怪しみ、探る途上で別荘での二人の露わな光景を見てしまう。街で暴れて喧嘩をした息子は留置場に入れられ、ボリビア人の泥棒(米村亮太郎)と同じ檻で「女」を奪われてしまう(手込めにされてしまう)。息子の入院先から駆けつけたおばさんの一人(木野花)が兄にその事を告げる(「彼は聖人なの。インポテンツなの!」はぶっ飛び)。これに衝撃を受けた兄は掌を返しジェニーにその責任を問い、罵倒して息子の元へ必死の形相で走って行く。予想に違わずベッドの息子は父を全く受け入れず、「恥」に懊悩する。
    ・・と、時系列にストーリーを追っているが今暫し。兄が去った後、おばさんからも悪しざまに罵られたジェニーだが、前言を翻し、居残る。傷ついた兄の息子と話ができるのは自分だけだと、なぜか確信し、入院先に出向く。そうこうあって彼女は息子を愛するようになり、最上の愛を感じる。息子も愛に応じるかに見えたが、留置場での癒えない傷は彼を不安定にさせる。更にそうこうあって、恋愛の変転劇の、最終結末に至る。
    このオチは十分に楽しめるオチであるが含蓄のあるオチでもある。
    難点・・気になったのは兄を演じた内野のキャラである。登場した時点の印象が弟(池内)のとかぶって(配役を気にしてなかったので)見分けが付かなかった。やがて整理されるものの、兄が弟とは対照的である事がミソであるのに、兄が(銀行家という設定がそうさせたのか)世慣れた雰囲気を出しており、性的な領域について過敏である部分がうまく出せていない。舞台を回す役としての大ぶりな演技が、幕開きの登場からあった。
    一つの証左としては、内野の演技に客席から笑いが起きる事が多々あった。客席の反応で気になった事だが、作品が眼差そうとする「性」の領域は、演技の中に照れの要素を持ち込む事で即「笑い」を招じ入れてしまう。「性」がそれだけ緊張を強いる領域である事の証しでもあると思うが、「笑い」に逃げた分だけ、作品の味わいから遠ざかっている気がしてならなかった。そして、それを助けてしまっていたのが内野氏の時々みせる所作だったと思う。
    が、難しい役である。大きな劇場でもあり、イメージが近くても存在感の薄い俳優がやるよりは断然良かったのに違いないが、振り返るにつけその部分は改良を望みたいネックに思われた。
    娼婦演じる寺島は裸体をさらしていたが、cocoonでやるのはかなりの度胸かも知れない。三浦大輔は俳優にそれをやらせるフリーハンド?を得つつある、のだとすればその確実な成功舞台になっただろう。
    ラストに漂うのは、ジェニーという一人の女性の「生」に希むものの強烈さ、生の愛おしさ、その裏返しの絶望。一連の物語をオープンテープに吹き込まれた彼女の語りで聴かされた兄が最後に拳銃をふるうラスト。このカットアウトの一瞬は物語を焼き付ける一瞬となった。
    スタンディングオベーション。カーテンコール4回の呼び戻しは初めての体験だったが、成る程、この回は東京の千秋楽だったと後で気づいた。
    ラストの暗転後に流れる曲は、この本が書かれた60年代のブラジルで風を吹かせ始めた若き日のカエターノ・ヴェローゾ「Coracao Vagabundo」。何度も聴いたはずの曲だが新鮮に響く。選曲も全体に的確で良し。全て相俟って手抜きのないこまやかさを感じさせる舞台だった。

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    2015/04/26 15:14

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