悪い冗談 公演情報 アマヤドリ「悪い冗談」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    隔てる川
    それに浮かぶ、水の泡のごとし。


    かなり呑気な気分で客席についた。

    (またまた、誤読的に感想を書いたら、とんでもなく、長文になってしまった)

    ネタバレBOX

    かなり呑気な気分で客席についた。

    それは、「「江戸」にも似たとある都市の姿」とか、「観光立国となるべく国全体をテーマパークと化」などという、当初の惹句に引っかけられた(笑)からである。

    しかし、花火のシークエンスからそこへ移っていくのかと思っていたら、「東京大空襲」。

    偶然とは恐いもので、3月10日のその日が近づいてきたことで、昔々に読んだ早乙女勝元著の『東京が燃えた日』をアマゾンで購入して読んだばかりだったのだ(子ども向けの本だけどね)。

    だから、空襲と隅田川の様子を描写したシークエンスというか、説明台詞には、かなり揺さぶられた。いや、気分が悪くなったと言っていい。読んだばかりの本の内容がリピートされてしまったからだ。それは、もう、外に出ようかと思ったほど。
    隣とか後ろの観客には、変な感じになっている私は気持ちが悪かったかもしれない。それには、申し訳ないと思う。

    さて、舞台だが、東京大空襲はとても強烈なイメージだったが、「川」が象徴的に表現されていた。
    「赤い帯」として。

    最初は受刑囚と被害者家族との「埋められない溝」のようなもの、であると思っていた。
    「赤い」ということで、かなり強烈なイメージを受けた。
    被害者が流した「血の色」であり、また加害者が浴びていて、一生、拭い去ることができないものだからだ。互いにその色が見えて、自分の身体にも見えているはずだ。そして、それを拭うことができなければ(自分だけでは拭えない)、両者の溝は埋まらないということ。

    「殺してほしい」「殺したい」「しかし、しない」というやり取りが、単純に復讐すれば終わりではないことを示している。

    そして、隅田川のシーンとなる。
    3月ぐらいの季節外れの花火大会を待っている、男性と女性のグループが隅田川を訪れる。
    両グループは、片方は男性がほとんどで女性が1人、もう片方は女性がほとんどで男性が1人というグルーブだ。しかも、男性側には韓国人がいて、女性側には台湾の人がいる。

    いつまでたっても上がらない花火から東京大空襲がオーバーラップするような方向へ行く。

    それを導くのは、けんけんぱ、をしながらやって来る少女だ。
    浴衣のような衣装を身にまとっている。
    人には見えない存在らしい。

    浴衣は花火を連想させるが、彼女が引きずってきたのは、東京大空襲である。

    この少女と隅田川、そして、多くの死者たちから連想したのは、能の『隅田川』である。
    子どもを亡くした狂女が、隅田川にやってきて、死んだ子どもの話を聞き、それは自分の子どもだと悟る。狂女(母)が念仏を唱えると子どもの亡霊が現れるのだが、やがて朝になり、消えていくという話だ。
    びっくりしたのは、この能のストーリーの設定が「3月」ということだ(気になったので、家に帰ってから調べた)。

    なんと東京大空襲と重なってくる。偶然だとは思うが。

    なので、浴衣の少女は、空襲によって隅田川で亡くなった子どもではないかと思ったのだ。
    彼女が現れているのは、夜であるし。

    そもそも隅田川の花火大会は、もともと死者の霊を弔うために行われていたもので、そういう意味でも3月の花火大会なのである。

    台湾の女性が、川について話す台詞がある。
    正確には覚えてないが、「目の前の川は、ずっとあるが、違うものである」というようなことだ。
    それを聞いてピンときたのが、『方丈記』。
    「水の泡のごとし」なんだな、と。

    (正確には覚えてないので、先ほど調べたものを書き写す)
    「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」

    過去と現在と、そして、たぶん未来が交差する舞台の上は、「川」だったのだ。
    人(の世)は、水の泡の如し、である。

    犯罪者と被害者を隔てているのも川。
    生者と死者を隔てているのも川。

    人の罪は、時代が変わっても変わらない。
    人が死んで悲しむことで生まれるのが「罪」である。

    しかし、人はそれに対していろいろと屁理屈を捏ねる。
    マラソン男がベンチで独白する台詞が強烈である。

    焼夷弾に焼かれて死んでいった者に「罪」はあるのか。

    アダムとイブから背負ってしまった「原罪」があるのか。

    そういうところへ、気持ちは持っていかれた。

    しかし、ラストは違っていた。
    「花火」を待ちわびる2つのグルーブはやすやすと、川を越え、1つの合唱となっていった(2部合唱・笑)。

    これがひとつの「答え」なのではないだろうか。

    つまり、川には「橋」が架かっている。舞台にも大きな橋が架かっていた。
    その橋の上で人は炎に責め立てられるのだが、そうでないシーンがあった。

    転勤で宮崎に行く予定の男性と、彼と付き合っている女性のシーンだ。
    なんとなく、「別れること」を前提として、特に男性は話を進めているのかと思っていたら、どうもそうではないらしい。女性に仕事を辞めて宮崎についてきてほしい、というのが本音のようだ。うまく話せないのがいい。簡単ではないからだ。

    「橋の上」には「愛」がある。
    炎によって命を奪った場所の橋が、愛の橋となっている。
    それが、さきほどの「答え」を強化する。

    「人間なのだから」という台詞が何度か象徴的に発せられるものそれである。

    台湾の女性と韓国の男性から、わかるのは、われわれはあまりに近隣の人々に対して「無知」であることだ。言語のことや民族のこと、対日感情など、知らないことばかりで、それを素直に尋ねることで知ることができる。これもキーワードではないか。

    踊りには「富士山の初日の出」と「隅田川の様子(焼け野原の東京と死体)」が語られる。
    そこには、「祈り」がある。

    つまり、「人間だし」「話せばいいし」「愛があればもっといい」ということだ。
    それによって、未来が良くなるのではないか、という(ロマンチックすぎる)広田さんの祈りが込められている物語とみた。

    冒頭の受刑囚と被害者の家族も、なぜか対話をしている。
    「赦す」ということはできないとしても、「対話」はできる。
    というか唯一の方法ではないか。

    ラストは、花火を見に来た男が、高校時代の友だちと出会うシーンが再現される。
    この「一歩」から、友だちが集まり、女性グループと一体化していく。

    つまり、ここが「現在」の、「2015年の3月」の姿ではないか。
    今、混沌としている世界が、より良くなるための、「一歩」を踏み出している、という希望を込めたシーンではないか、と思った。
    ここから、その一歩が踏み出せるのだ。

    「罪」とか「悪」とかというレベルではない、もう少し「高み」へ作品が昇っていきそうな具合で、三部作は幕を閉じる。

    ただし、もちろん、それは、そんな簡単にはいかない。
    マラソンをしている男の存在がそれを示す。
    彼が常に舞台の上に「不安」を撒き散らしている。
    「通り魔」という言葉が、身体にまとわりついている。
    弱い者だけを狙った通り魔。
    それが「人間だ」と言っているようでもある。
    そして、受刑囚が、暗転の中で、わざわざ這って「川」を越えていく姿は意味深すぎる。

    今回の作品は、多方面へ広げていきながら、最後にシュッと収まり、別世界へ連れて行ってくれるような、アマヤドリ的快感には少し足りなかった。アマヤドリは演劇的な表現がとても優れているカンパニーだと思うから。

    とても失礼な言い方をすれば、今回上演して、それを再咀嚼した上で、再度吐き出して、再演したものを観たい、と思った。
    つまり、今、固いままの、いろんなエピソードやシークエンスを砕いて、練り上げ、さらに「演劇的な面白さ」を追加したら、凄い作品になるのではないかと思うのだ。

    中村早苗さんと笠井里美さんが揃って舞台の上にあるのが、とてもいい。
    この2人が声を揃えて言う台詞が好きだ。
    ト書きのような台詞でさえ、美しく感じる。

    渡邉圭介さんの、なんとも、あの、恋人に気持ちを伝えようとする、もどもどした感じがいい。
    今回も糸山和則さんが屈折して(開き直った)受刑囚にしか見えない。

    今回もいい塩梅で笑いがあった。

    まだまだ書きたいことがあるのだが、長すぎるのでこのへんにしておく。
    できれば、もう1回観たかった。

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    2015/03/23 07:50

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