身毒丸 公演情報 演劇実験室◎万有引力「身毒丸」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    夜の縁日、見世物小屋の白熱電球の灯に誘われて、観客は結界を越える
    しんとく(身毒)の心の彷徨に、観客は、理屈ではなく、感覚として理解し、自分の中にもある(あった)気持ちの悪い「穴」と対峙する。

    ネタバレBOX

    開場と同時に、舞台の上でアコーディオン奏者が演奏をしている。ジンタのような、哀愁を帯びた曲調だ。

    その曲に導かれて、会場に入ったときから、興奮してしまった。
    セットが大きいのだ。
    そして、黒い。
    黒いセットの上を切り裂くように、真っ赤な柱が立つ。
    まるで鳥居のようであり、見世物小屋にはふさわしい。
    それは、こちら側とあちら側(彼岸)の「結界」を示しているようだ。
    観客は、その鳥居から禍々しい見世物小屋の世界を垣間見ることになる。

    それは、自分の「穴」に目を向けることにもなってしまう。

    パブリックシアターの舞台の上から下までセットが組まれ、そこを怪しげな人々が行き交う。
    どの場所を見ても役者がいて、それが細かい演技をしている。
    隅々まで神経が張り詰めていて、緊張感が続く。

    生演奏の音楽には、大きなセットや大人数の出演者に負けないぐらいに、深みと重みがあり、響く。

    1人の女性が琵琶の演奏で説教節の節回しで唱うところも、大人数のバンドと等しく迫力を感じる。

    セットはほぼシンメトリー。
    中央に廊下のようなステージが後方まで伸び、手前の左右にはカラクリ人形の2人がいる。語り手の女性も2人。
    その後方には、左右それぞれに琵琶と箏の奏者。そしてその後ろの左右には、ギターやベース、ドラムスに弦楽器、管楽器の演奏者がいる。シーザーさんは、その中で、ティンパニーや和太鼓などの打楽器を演奏している。

    彼の打楽器が響き、物語に導かれる。
    さらに後方の上部には合唱とソロの歌い手が並ぶ。
    ちょっとした、ロックオーケストラの様相だ。
    卒塔婆が床にパーンという音もロックだった。

    演奏される曲はかつての上演が音源化されたものとほぼ同じ。ストリングスなどのアレンジが加えられていたり、ギターなどのエフェクター類の扱いが違う程度ではないだろうか。

    「私の母には顔がなかったのです」からの「慈悲心鳥」の曲は、もう、鳥肌。
    あまりの凄さに「あぁぁ」という声が出てしまいそうなほど。

    今まで観てきた万有引力の中で一番大がかりな作品ではないだろうか。
    スケール感とダイナミックさ、スペクタクル感に圧倒される。

    しかし、表情の変化やその表現には、大胆の中にあって、繊細さを見せる。
    それは、バンド編成の音楽と琵琶や箏の演奏という対比にも似ていて、深みのある世界観を演出していた。

    万有引力の『身毒丸』は、縁日の見世物小屋だ。
    しかも、それは昼間ではなく、夜の縁日。

    夜の縁日では、怪しい屋台の食べ物やオモチャは、白熱電球の仄暗い灯りに照らされ、独特の光を放ち、魅力的に見える。
    その魅力は、白昼の光の中では皮が剥げてしまうようなものだ。

    白熱電球の光に誘われる蛾のごとく、観客はふらふらと、作品の中へ連れ込まれていく

    百鬼夜行のような、見世物小屋の登場人物たちが、舞台の上を練り歩く。

    いつの間にか、結界を越えてしまった観客は、怪しげなシャムの双生児や蛇女、肉男たちに導かれて、柳田国男が持っていた「穴」に、しんとくと一緒に落ちていた。

    しんとくが入り込んだ「穴」は、道に開けたものではない。
    彼の身体に空いてしまったものだ。

    家族合わせでも埋めることのできない「母」という「穴」だ。
    もちろん、父親が見世物小屋で買ってきた継母では埋めることができない。
    しかし、「(実)母」でも埋めることができない。
    しんとくの「中」では、「顔がない」から。

    それができないのに、穴を埋める母を探していく。
    それは「自分探し」にも似た感覚。

    彼がたどり着いた先は、「もう一度、ぼくを妊娠してください」である。
    彼の(心の中の)母も、それに答えてくれる。「お前をもういちど妊娠したい」と。
    それが実は継母でも、しんとくには関係はない。

    自分の穴に入り込み、自己完結でしか終わることができない。
    自分が開けた穴だからだ。
    他人にはどうすることもできない。

    そういう「どうしようもなさ」と、それによって引き起こされる「焦燥感」は、誰もが体験したことがあるのではないだろうか。思春期とかに。

    だから、人はこの作品に惹き付けられる。
    意味とか理由とかといった理屈の前に、感覚として理解でき、自分の中にもある(あった)気持ちの悪いモノ(穴)と対峙することになる、

    しんとくは、その「穴」を「母」とした。
    私たちの「穴」は何だったのだろう。

    見世物小屋を出れば、そこはいつもの現実の世界に戻る。
    戻るはずだった。
    継母がそこにいて、しんとくも継母も互いを受け入れる。

    たぶん、それでは、しんとくに空いてしまった本当の穴は埋まらないだろう、ということを観客は知っているのではないか。
    もちろん、しんとく自身も。

    先にも書いたが、どこにいる出演者も、指の先まで神経を張り詰めて演技している。
    30人もの出演者がいるのに!
    (演奏者はさらに20人!)
    黒子役になった人たちの、身のこなし方まで美しい。

    だから、これだけ大がかりで壮大な舞台なのに、端々まで緊張感があり、テンションの高さを維持できているのだろう。
    音楽は最高だ。中でも万有引力の合唱は大好きだ。

    今回もソロ、とくにソプラノソロがいい。
    そして、説教節の声のトーンとボリュームが素晴らしい。

    ★の数が5つじゃ足りない。

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    2015/02/02 20:20

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