アメフトを観戦しているかのような演技です
人は役者だ。
不良高校生が「サラリーマン」を演じたければ、染色を抜き、背広を着用するのが効果的だろう。家電メーカーの社員証を持ち合わせていなくとも、その「姿」だけで新橋の住民だ。
麻布在住の20代OLが「主婦」を演じたい衝動にかられたら、「割烹着」をまとい商店街を100m 歩行するのだ。「激安シール」にハイテンションになれば その「シャネルのバッグ」は すでに「偽」である。
しかし、彼らは「演じている」はずだ。「不良高校生」を、「OL」を、毎日休むことなく「演じている」のだ。
人は性別を演じる。人は年齢を演じる。人は国籍を演じる。人は職業を演じる。
シェイクスピアの演劇理論は「人生というステージ」だ。すなわち、赤ん坊は「登場」で、死去は「はける」ことに等しい。
政治家の演説。駅前で支持者の動員をかける、あの退屈な政治パフォーマンス。
朝、1人たりとも振り返らぬなか、チラシ配りをする県議の仕事は「号泣」クラスだ。泣いたらいい。
横にいる若い世代から、通勤者へ配布しているポケット・ティッシュを受け取って。
広告主は「DHC」だろう。
ちなみに「演説」の語源は明治時代にあたる。自由党員が「議会制民主主義」「立憲主義」などのデモクラシーを全国各地に巡回し、教え回ったことに由来する。名付け親は 福沢諭吉である。
この派生語には「演歌」も連ねるそうだ。NHK『紅白歌合戦』放送中に「演歌」を聴くと万単位のチャンネルが移動する。
政治家の「街頭演説」を聴いて「つまんねー」と若い世代が感じるのも、上記の「コトバDNA」からすれば健全な感覚だろう。
およそ3人分の熱量ではない。
少なくとも、5人は舞台に立っていたように思う。
追記あり