「私は佐村内だ。」
「何も聞こえない」。
「聞こえないふり」をした作曲家は佐村内守である。『現代のベートーベン』は 板の上の俳優とは似ても似つかわぬ「演技」だった。
地方放送局が生活情報バラエティ番組の新しいメインMCに起用したのは、ごくふつうの少女(大橋 睦美)。「視聴者は君の純粋さを求めている」。プロデューサーがある日、自宅に上がりこみ両親を説得した結果だった。
私は思う。
彼女は「佐村内 守」その人であったと。
「偽りの偽善」が「耳に障害のある作曲家」を「感動」に拡大解釈したのなら、時代は この騒動における演出家だ。
そして、放送局スタジオで「好きな食べ物」を可愛く、ビタミンッシュに「演じる」少女は、紛れもない、時代の要請に従った俳優であった。
「ピュア」でなければならない。
これは 時代との契約だ。
旋律のクラシックが、公園で出会った詩人(山崎 純佳)のポエムとともに、少女を狂わせる。
「私は音楽をとりもどしたい」
彼女は佐村内を辞めた。「耳が聞こえるようになった」のだ。
その眼差しは「カルト」で、空間的表象が また旋律の歪みであり、作曲家本人の苦悩、絶望である。
「佐村内からの卒業式」は自身に知らず知らず潜んでいた「新垣隆の告白」によってしか催されないイベントだろう。
ポエムによれば、パチンコ・チェーン店舗の入り口から漏れる大音量は「音」ではないそうだ。100年後の 国土は「佐村内 守」の亡霊に取り憑かれた心の瓦礫地帯となっていく。
役名が原発ネームと重なるところをみると、これは「今日の延長線上」にすぎないことを印象づける。
「私は 佐村内 だ」
かつて冷戦期の1960年代、アメリカ合衆国大統領が西独ベルリン市で熱演したスピーチの一説。
それが、「私は ベルリン市民だ」だった。
「遠くの地に住む人々を、隣人として身近に感じる」
アメリカ合衆国大統領の唱えたスピーチは、日本外務省・文科省主導の「アフリカの子どもたち式」国際教育ではなく、国境線を越え、民族を越え、戦勝国か敗戦国かを越えた、「隣人の共同体」である。
「私は 佐村内だ」
この文字列が指す意味は「偽善の共同体」である。
プラズマ・テレビが毎日報道する「純粋さ」を、支持する人々。
みんな、「SNSで、世界と繋がる」とか言いながら1人たりとも住所・連絡先は 掲載しない。
みんな、「地域コミュニティ再生」を唯一の信条であるかのように振る舞うが、今ほど「閉じた街角」はない。
「あなたに恋してるわ~」のはずが、ステージを降りれば空港仕様の金属探知機と柵付きのセキュリティによる握手会。
空前の「偽善時代」だ。
明治大学実験劇場「何も聞こえない」は、この「佐村内」的な時代を、近未来に濃縮還元したように思える。