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世間を「あっ」と言わせた女の奇妙な対立
売春婦・阿部 定が事件を起こした1936年。当時32歳。女性に選挙権がない時代だから、世間にとってみれば猛烈にセンセーショナルである。
抑圧者としての男と非抑圧者としての女、貞節としての女と本能としての女、情愛と売春など、相互に対立し合う意義をもつ。
『毒婦二景』はAプログラム『定や、定』とBプログラム『昭和十一年五月十八日の犯罪』の長編 同時上演。12日間にわたり、『鵺的』が阿部定を追う。
「その後」の数十年と「事件後」の数日間を描く点において興味深い。普通ならAプログラムとBプログラムが逆転するはずだ。どんな演出意図があるのだろう。
対立し合うのにもかかわらず、阿部定事件は二項対立論が応用できない。「善」と「悪」ではないからだ。
私は50年代以降のソ連演劇に その答えを探求したく思う。
【公式にはソ連社会からは対立が消滅したとされていたので、現実の対立を取り上げるのはタブーであり、残る対立は、善と より大きな善との間の対立だけであった】(『ヨーロッパ現代史―西欧・東欧・ロシア〈2〉戦後欧州社会と東西の動向』
ウォルター ラカー, Walter Laqueur, 訳 加藤 秀治郎, 河原地 英武, 永山 博之, 藤井 浩司, 他
芦書房)
「偏向」かもしれない。しかし、「善」が対立するならば、必ず「勝者」と「敗者」が決まるわけだ。それは真の対立である。
例えば、日本の大阪府立高校の鬼教頭と不良生徒は どうだろうか。「対立関係」に思われるのが一般的だが、むしろ その「暴力性」において「依存関係」であることは明らかだ。
80年代「カウンター・カルチャー」の先導者・尾崎豊。彼は「盗んだバイクで走り出す」のだという。
その歌詞は反権力だが、実のところ、「権力」が絶対的に機能し続けるシステムを認めた延長線上の「反抗」に過ぎず、まるでファザーコンプレックそのものだ。
鬼教頭は どうか。「秩序を守る」というガバナンス・コミットメントにより、一定の権力が教育委員会、校長、教員指導部、保護者、地域住民から非公式に授与される。
つまり、「盗んだバイクで走り出す」生徒が0になれば、あるいは依存しなければ、教師による体罰は ただの「暴力」になってしまう。権力も喪失する。
ソ連演劇の「善と善の対立」は こうした依存関係の否定だ。
私はAプログラムを観劇しようと思う。阿部定と、彼女を生涯にわたり財政支援した男Aとの「奇妙な対立」が その理由である。