ロープ 公演情報 NODA・MAP「ロープ」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    考えさせられました。
    見たのは2回。
    年末、渋谷に所用で行った帰りに1回、年明けて1回。
    二回見ておこうと思ったのは、1度は余計な情報抜きで、もう1回はネタを知ってる状態で見たいと思ったからです。

    普通、後半の方が出来がいい、というのが芝居のセオリーなんですが、今回に関しては前半の方が集中力があってよかった。
    2回目の回は、役者さんがちょっと慣れてしまってたような、疲れていたような、そんな気がしました。

    唯一、2回目の方が断然良かったのが野田さんでした。
    実は、1回目の時は何より気になったのは野田秀樹の衰えでした。
    才能の衰え、ではありません。
    単純に後頭部の衰え、です(笑)。
    遊眠社時代の芝居はもうできないかも、と思うのも当然です。
    もはや、「永遠の少年」なんて言ってられない。
    あ~、野田さんももう中年なんだなあ、と思った年の瀬。

    それが、年明けに見た時は不死鳥のように(笑)気にならなくなっていました。

    終わった後、一緒に行った人と口を合わせて言ったのが、
    「野田さんのスローモーションが美しかった!」でした。
    途中、覆面を被せられた野田さんが、銃声と共にリングに崩れ落ちるシーンがあったのですが、その美しいこと!もう芸術でした。
    同じ骨格を持ってるとは思えないような、どこにも力が入っていないような、
    なめらかな動き。
    時間が止まったように見とれてしまいました。

    結局、どんな理屈や言葉を並べようが、表現力というのは表現できる筋肉を持っている人間が持っている力だ、と改めて思わされました。

    さて、『ロープ』のあらすじですが。

    回転するプロレスリングと下手に小さな小屋があるシンプルな舞台。
    その小屋には弱小プロレス団体の「プロレスは決して八百長ではない」と信じている若きレスラー・ノブナガ(藤原竜也)が引きこもっている。
    そしてリングの下は自分を未来からやってきたコロボックルだと信じている女、タマシイ(宮沢りえ)が住みついている。
    その弱小プロレス団体を隠し撮りするテレビクルー(野田秀樹、渡辺えり子、三宅弘城)。
    プロレスのレフェリー(村松武)と相方(橋本じゅん)は、なんとかノブナガに引きこもりから出て戦わせようとするが、差し入れた食事をこっそり食べてるのはタマシイとテレビクルー・・・・。
    ノブナガとタマシイが出会うことから、物語は展開し始めます。
    テレビ局は、プロレスの実況中継が抜群に上手なタマシイを上手く取り込み、
    ノブナガがグレイト今川(宇梶剛士)を半殺しにしてしまった試合を中継したところ、評判は上々、更に暴力的な映像が求められます。
    そして彼女は、戦う人間たちの「力」を実況し始める。
    その一方で、引きこもりのレスラーは、「力とは人間を死体に変えることのできる能力だ」という信念にとりつかれていく。
    暴力はどこまでも過激になり、やがてそれは戦争の風景にかわります。
    ノブナガは八百長が嫌いなレスラー、というのはやらせだ、と告白し、他の戦う人たちもみな同じように、やらせだとわかっているのに、その戦いはやめることができない。
    お互いに「もうやめてえなあ」と声を掛け合いながらも撃ち合う顔の見えない敵。
    そして、「未来」から来たと言っていたタマシイが、実は、春まだ浅き日の早朝に、米軍によって4時間で滅ぼされたベトナムの「ミライ」村から若い米兵に救い出された生き残りであったと知る・・・・。

    ストーリーそのものは単純です。
    初期の夢の遊眠社の芝居に比べて、余りにストレートでわかりやすすぎる、という感想が今回の『ロープ』には多かったようです。
    昔みたいなもっと分かりにくい芝居が見たい、とあからさまに書いている劇評すらあります。
    実際、芝居を作ってる者のハシクレとして、そういうのって結構困惑するだろうなあ、とは思う。

    見て引っかかったのがこの「ミライ村」のエピソード。
    ベトナム戦争の「ソンミの虐殺」と言われる事件が起こった1968年。
    それは私にとっても大きな意味のある年だったりするせいかもしれないんですが、ナマで見ていたはずはないのに引っかかる。
    最近、「1968 世界が揺れた年」という本を読んだことも引っかかる一因だったのかもしれません。
    ベトナム戦争を、「正しい戦い」であるという幻想から反戦ムードに変えたきっかけともいえる事件です。
    この年は、キング牧師の暗殺や、いわゆるプラハの春、パリ5月革命、東大安田講堂の占拠などがおきた年でもあります。

    ・・・ホントに余談ですけど、「週刊少年ジャンプ」が創刊されたのも1968年なんだそうです。

    この1068年、ベトナムのソンミという村の、「ミライ」という名の地区がある晴れた朝に4時間で撲滅させられた時、野田さんは13歳。
    それから38年間、ずっとこの出来事、そして「ミライ」と「未来」という引っかかりは、しこりのように彼の頭の片隅にあったんじゃないかと思うのです。

    そう思ったのは2000年に上演された『カノン』のパンフレット。
    『カノン』はソンミの虐殺から4年後の1972年に起こった、連合赤軍による「あさま山荘事件」が重要なモチーフとして描かれる作品です。
    この芝居のパンフレットで、野田さんは「ものをつくる人間として、原風景がないことが、長い間コンプレックスであった」と書いてるんですよね。
    戦後の焼け野原を知ってる世代に、君たちにはそういう原風景がない、と言われたことをうらやましく思うことがあったそうなんです。

    正直なところを言うと、あさま山荘の記憶は私にとっては記録映像の中のもので、そのシーンで特別感動する、ということはなかった。
    むしろその後、宇都宮市の美術館で買ったばかりだった「大家族」という絵が出てきたことの方がセンセーショナルだったくらい(笑)。

    でも、原風景がない、ことの悔しさみたいなものは、もはや学生運動とかが下火になったとはいうものの、なごりみたいなものを感じながら大学時代を過ごした私には分かる気がするんですよね。

    「ソンミの虐殺」で「ミライが滅ぼされた」ということは、「あさま山荘事件」と同じように、野田さんの頭の中にずっとあった原風景だったのだと思うのです。

    そしてそれは、いつか書かなくてはいけないテーマだったんだと思うんです。

    でも、その原風景がラストに現れてはっとするか、それとも「何故今更ベトナム?」と思うかは個人差が出ちゃう芝居なんだろうなあ、と感じました。

    今回はあくまで畳み掛けるような情報量はベトナム戦争の描写に集中していて、それが今回分かりやすかったが物足りない、という感想にもなってるんだとおもうんですが、私の私見では、野田の芝居はラップ音楽みたいなもので、それは今も昔も変わらない気がしてます。

    スタートから畳み掛け、何層にも絡まる情報量の渦。

    そこにハマってクラッとする気持ちよさ、というか。

    ラップって、音楽の様式のように思われてますが、私の考えでは、本来、あのスピードで言いたいことが口から溢れてくるからラップになる、なんだと思うんですよ。
    始めに言葉のボリュームありき、というか。

    話若干それますが、ラップという音楽の成立に大きく影響してる人があのモハメド・アリなんだそうです。
    「ベトナム人は俺をクロンボなんて呼ばないから行かない」と公言し、チャンピオンベルトとボクサーライセンスを奪われてでもベトナムへの徴兵を拒否した元ボクシング世界チャンピオン。
    リズム感溢れる彼の口調は、ラップ音楽が生まれる前からラップだった、といわれてます。

    迸るイメージの洪水。
    それが今回はベトナムを語る、既成の言葉に代わったというべきか?
    そこは賛否両論ありますね・・・。

    役者は藤原竜也、宮沢りえ共に思ったよりかなりよかったけれど、やはり何かが弱かった。
    藤原竜也はラスト考えるとあの青年っぽさは必要なのかもしれないけど、レスラーとしては貧弱すぎた。
    渡辺えり子は・・・・どうなんだろう?
    渡辺えり子にやかましい部分を預けたからこそ、野田が芝居をすることができた、という見方も出来るんですが・・・個人的には渡辺えり子の演技は直視できなかったですね。
    あまりに演出家の芝居、で(^_^;)。
    ああいうのOKだと思っちゃうと、自分もいざとなったらパンツ見せたり口から水噴出したりすればいいや、というサボり根性が付いちゃうんで、ここはシビアに。
    宇梶剛士はよかった。
    なんだろう、特権的肉体、までは言わないけど、体に華があった。
    明星さんは思ったより地味だったかなあ。。。

    それから今回は「アンサンブル」とパンフレットに書かれた人たちが登場していました。
    私は常々、野田さんは自分の芝居に相応しいセリフをしゃべれて、自分のイメージしたとおり動ける人間をそろえた「劇団」を持つべきだと思ってるので、このアンサンブルのメンバーがそれになってくれると嬉しいですね。
    でも今回の時点では全然野田さん本人には及ばなかった。


    最後に、「あったことをなかったことにする」「なかったことをあったことにする」というフレーズにどこか聞き覚えがあると思ってあちこち探したら、個人情報保護法法案拒否!共同アピールの会というサイトに、井上ひさしさんの<A HREF="http://www.interq.or.jp/japan/s9d/" TARGET="_blank">以下の文章</A>がありました。

    ■井上ひさし(作家)
     去年(注2000年)、イギリスの、最高裁のような高等法院である判決が出た。『アンネの日記』は後世の偽作で、アウシュヴィッツはポーランドが戦後作った虚構の遺跡だ。そういうことが延々書いてある本を巡っての裁判の判決です。その判決文が傑作なんです。「あったことをなかったことにしてはいけない。なかったことをあったことにしてはいけない」と。
     最近、この国に、あったことをなかったことにする、なかったことをあったことにするという、大きな黒い意思が流れている。それに対抗するには、あったことはあった、なかったことはなかったと、僕や澤地さんの世代が若い人にわかる表現で、しかし程度を落とさずに世の中に提出していくことが一番大事だろうと思っています。

    ・・・とすると、アウシュビッツの強制収容所が開放された日に、『ロープ』を見たのは何かの運命というべきなんでしょうか?

    手放しで面白かった!といえる作品ではないのだけれど、後々までじわじわ考えさせられる作品でした。

    長々書きましたけど、ここまで読んでくださった方に感謝です。
    『ロープ』は<A HREF="http://www.wowow.co.jp/stage/" TARGET="_blank">WOWWOW</A>で4月7日に放映だそうですよ。
    見られる方は是非。

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    2007/02/26 09:07

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