拓くのは、「観客力の時代」
「観客力の時代」とは どういったことを意味するのだろうか。
タレント・高田純次氏は週刊誌の連載上、映画観賞後の会話で多用される「難しかたったね」について、「便利だと思う。自分がバカだということを隠す」と分析している。
その通りである。
作品に対する技術的評価、世界観をめぐる批評が あれば、たとえ多摩美大卒業展のようなカオス集でも「難しいかったね」の一言では済まない。
本舞台は二部構成と なっており、前半に『弥太五郎源七』を、後半に『一周忌』を 上演するのだが、休憩中に観客からは「下向いてて 聞こえづらいのよ」「マイクがほしい」「時間が長すぎるわ!」なる批判が続出した。
演劇の「中身」を批評するのなら好ましい。
ただ、役者の台詞を理解したければ補聴器を付けるべきだし、大切なのは上演時間ではなく、「平坦で つまらなかった」という「中身」だろう。
二部『一周忌』は、関東大震災後の昭和3年7月の東京・浅草で、未亡人となった女性(瀬戸 摩純)、保険勧誘にやってきたセールスマン(仲 恭司)を中心に展開される。
「新派」のアンチテーゼとして、新たな舞台様式である「ストリートプレイ」「現代演劇」「プロレタリアート演劇」は生誕した わけだが、それだけに、「純化した新派」を観劇するのは新鮮だった。
長台詞は、役者との「関係性」ではなく、むしろ「文学」であった。文字が記され、初めて「舞台様式」が成立する。
といっても、未亡人の女性が「着付」する場面は、成人式しか葬式くらいしか着物をまとわなくなった日本女性からすると、これは「学習タイム」だろう。
「新派」に存立価値があるとすれば、後世へ伝える「文化様式」に違いない。
戦前の日本を あれこれ言うつもりはないが、服装はファッション・センスがあった。
黒スーツを全員が着こなす企業社会もよい。しかし、茶系だとか、麻系だとか、紺だとか、灰色だとか、戦前の日本企業社会は もう少しオリジナリティが あったと思う。
「UNIQLO」の画一期とは対極である。
私は封建文化を強く叩いてきたが、「色彩文化」こそクール・ジャパンに位置付ける中心だと思っている。