満足度★★★
人称
一応、2人の演出家が、短編を其々演出して、技を競うという形で2篇。その後、関西漫才を模した作品が1篇のオムニバス形式なのだが、3篇で編むのならもう少し、尖鋭的な組み方をして欲しい。この辺り、頗る非論理的、非数学的である。演劇の基本は言う迄もなく理論だ。そして、理論は一切の例外なく、自然な展開をさせれば必然的に尖鋭化する。つまり平面図形で言えば、三角形なのだ。この辺りが、理屈でなく感覚で分かっていないように思う。文化系の人間に理数系の理屈をそのまま押しつけても、何の意味もないからこういう言い方をしているのであるが、言いたいことは以上で述べたことだ。
大体、ナルキッソスにもなれないナルシストの安倍でもあるまいに、あんな阿保の真似を芸人がしてどうなるのだ? あの阿保が阿保なのは、歴代の保守本流が、敢えて置かなかった駒を得意になって置き、その愚かな棋譜の意味にすら気付いていないことにあるのだが、アーティストも然り。決意性ややる気ばかりを顕彰して、日常の中に潜む、他人の誰一人として未だ発見できていないような発想、視点、可笑しさ、グロテスク等を見出し、形にしてこそのアーティスト、表現者だ。メンタリティーに踊らされてはならない。泣き落としだの色仕掛けだのの手練手管を用いても所詮、それは、2人称の世界の話だ。世界と対峙し、互して行く為には、無論、3人称の世界での対峙が必要である。2人称的な世界に意味が無いか、と問われれば、無論、意味はある。然し、取り違えてはならないのだ。2人称だけで世界は成り立っていないと知るべきである。今公演、1作目、3作目はそのような意味で反面教師として解釈すると面白い。同時に、以上の点に注意して世界を見て欲しいのである。
3作のうち、自分が最も気に入ったのは、2作目である。