演劇愛って、何だろう?
『日本劇作家協会 新人戯曲賞』のレビュー リーディング(5戯曲 15分間)と公開審査会を拝見させて頂いた。セットもなく、リーディングのためだけに参加する俳優達が審査戯曲を読む。当然、作家が記した文章が全て だから、いずれも「同じ土俵」であろう。
レビュー リーディング公演は、日本劇作家協会の審査対象ではない。むしろ審査会を見守る人向けだ。
『漠、降る』、『ト音』、『クラッシュ•ワルツ』『東京アレルギー』、『死の家』の5作品を拝聴した。後に公開審査会でも指摘されたことだが、総じて「人間の不幸」をモチーフとしていたように思う。『東京アレルギー』は、青森から来た女性が、新宿界隈の風俗店のチラシ配りを始める冒頭である。「標準語を津軽弁へー津軽弁を標準語へ」変換し、新しい「東京の在り方」を問う一点突破型だ。渡辺えり氏のいう「底辺」の不幸を、言語を逆転させた手法で浮き彫りにする。
一つひとつの作品は挙げない。私が濃密な会話劇だと感じたのは『ト音』と『クラッシュ•ワルツ』の二作品だった。前者について、佃典彦氏は「舞台化した場合どうなのか…」と疑問を呈されたが、それは同感である。参考になるのが駒場小空間で上演された『あの日踊りだした田中』(劇団綺畸2012年度夏公演)だろう。『ト音』と同じく、2人で1人の役を演じるコンセプトだった。常時、役者の隣か前後方に もう1人の役者。お互い台詞を放つ。ただし、心が分裂した主人公と周囲を描く本作と比べれば、違う面も多い。
このポージングは残念ながら観客の「違和感」であり、佃氏の言うとおりラジオドラマであるとか、小説であるとか、単一情報の媒体の方が、その緻密な関係性は表現しえるのかもしれない。