満足度★★★★
テーマは「虚構」
この芝居は「虚構」である。
スライに始まってスライに終わるのがいいね。
つまり、原作では劇中劇の終わり=芝居の終わりだが、本公演ではスライ(≒ペトルーキオ)が闖入者として女将(≒カタリーナ)に追い出されるところまで描いていて、「つくりごと」ということを観客に思い出させて幕切れとなる。
本で読んでいるときよりも登場人物たちの「とりかえっこ」(≒「虚構」?)が目立つ。
目の前で服を取り替える演出とか。
結婚式のシーンでカタリーナが普通の(新婦らしい)表情をしていたのには「あれっ」と思ったが、あれは生まれて初めて求婚されて(つまり、妹でなく自分が求められて)嬉しかったのかな。
カタリーナが馴らされた後はどうなのか?
馴らされたのはペトルーキオに愛されている、ペトルーキオも本気で愛している、というのが希望的観測。
リーフレットにあるようにカタリーナの包容力の大きさを強調するならば、月と太陽のシーン以降は「全部分かっててやってる」ってことか?
「まったくしょうがないんだからうちの人は(笑)」みたいな感じだろうか。
DVぽい話で、ともすると暴力沙汰の暗い雰囲気になるところだが、積極的に笑わせようという演出なので終始楽しい雰囲気だった。
後半はちょっと暗かったけど。
ラテン語とシェイクスピア時代の観客との心理的距離は、ラテン語と現代日本人とのそれより遥かに近いことをなんとなく感じた。
ペトルーキオが友人に会う場面で、いきなり「ナイスツーミーチュー」とめっちゃカタカナ英語で挨拶したのでなんだこりゃと思ったが、召使が「ご主人様達はラテン語で挨拶しているけどおいらにゃさっぱり」と言うから、おそらく原文はラテン語なのだろう。
当時の民衆は貴族でなくてもグラマースクールでラテン語を学んだわけだし、そもそもシェイクスピアの学力がその程度だったって説もあるので、みんな聞いて分かるんだろうね。
だから、ラテン語と観客の距離は、日本人だと英語との距離に置き換えると近いのかも。
福田訳を読んだときには気付かなかったが、本公演は小田島の翻訳だから駄洒落満載。
こんな軽妙な会話だったのか、と改めて笑った。