「団地」 と「自然」の薄暗さの対比
座•高円寺という広い舞台スペースを、非常に効率よく使ったことに目を疑う。
「団地」はコンクリートの集合体であるが、人里離れた「人的な森」と表現することも 可能だろう。
例えば、多摩ニュータウン。
「多摩の森」は希少な日本のタヌキが生息する、極めて自然豊かな地域だった。
ブルドーザー等の重機で土地を切り裂き、「多摩の大地」を東京湾へ流したのは人間自身に他ならない。
多摩モノレールも、西武鉄道も開通してはいるが、しかし 東西南北の地域文化から分断されてしまっている。
森の中に突如、現れた巨大団地シティは、新しく生活を追い求める若い夫婦が集まった。
出身県、仕事を異にする数万の国民が(中流上層)、周囲で田んぼを耕す農家の近くへ引っ越してきた。
ただ、彼らは独自の「団地コミュニティ」を形成し、外の人間を排する。かくして60年代〜70年代初頭にかけて「団地コミューン」と呼べなくもない自治組織が生まれたのであり、そうした意味において 一種、団地は日本列島の「人的な森」であるといえるのではないか。
宮崎駿が映画『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年 スタジオジブリ)で伝えたかったことは一体、何だったのか。
核心に、このニット•キャップシアターなる関西の劇団が真っ向から答えたのである。
「少年王マヨ」は古事記にも登場するらしい。
おそらく、ほとんどの観客は「少年王マヨ」なる存在すら知らなかったはずである。私も、名前を 存じ上げなかった。
ニットキャップシアターの、音、光、舞台美術の相互効果作用は 独自のものを感じる。
「団地」という現実を扱っているののに、「幻想」的な雰囲気を醸し出す。
大元のテーマは具体的な事象だが、ストーリーは摩訶不思議であり、普通は「理解できない舞台」となる。
ニットキャップシアターは、「幻想」を炊き、劇場に それを充満させることで、両立する舞台を造り上げる。
冒頭の、夜の団地シーンは 圧巻だった言わざるをえない。
舞台上には、十数名の役者が立つのにもかかわらず、「存在感」が皆無なのである。
団地少年は「存在」する、しかし他は夜に漂う不気味な揺らぎであり、およそ人だとは思えない。
後半のブルーベリー農園も、やはり そうだった。
「小鳥のさえずり」である。
といっても、役者達を小鳥に間違えたわけではない。
「雰囲気」こそ背景であり、舞台セットであり、時代であり、現実だったのだ。
それは、新聞記事を読むニュースキャスターだった。
「団地で火災が発生し、その炎で虫を退治しようとする住民」
「理解できない」といえば それまでだが、役者の口調は事実関係を誤りなく 説明する用意があった。
団地のコンクリート+住民同盟と、自然界。
それは、ダーティーな「戦争」であって、団地少年だった「少年王マヨ」が自然界側に付いたのは作品の重要なポイントだった。
元々、古事記に記載された物語が そのような骨子だったのだから、当然といえば当然だろう。
つぎはぎの布であっても、1枚の白い布であっても、ダイナミックであれば、強い威力を発揮する。
単調なメロディを繰り返し流すことで、観客は病み付きになる。
この舞台は、「団地」に対しては否定的な印象を感じえないが、「昭和」の「大きいことはいいことだ」社会構造は受け入れているのではないか。
ちなみに、私にだけアンケート用紙が織り込まれなかったのは何故か、残念だ。