ココロに花を 公演情報 ピンク地底人「ココロに花を」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★

    「雰囲気=世界観」では物足りない
    前回の東京公演『明日を落としても』でも採用されていた、俳優たちの発声によって環境音をつくる手法は、今回はメトロノームのように一定のリズムを刻んでいくのだが、残念ながらそれはわたしには眠気を誘う効果しかもたらしてくれなかった。低い唸り声のようなものがずっと鳴っているシーンにしても、いったい何の意図があったのか。停滞したムードしか感じさせない。ある種の暗い世界を描きたかったのだとしても、これではまるで生気を失ったゾンビの世界ではないだろうか(そしてそのゾンビ性が、何か批評的な視座によって導き出されたものだとも感じられない)。

    そもそも台本がまずよろしくないと思う。「イスラエルとパレスチナ」など、歴史、復讐、赦し……などなどのよくある話が語られるのだが、結局こういった紋切り型を振りまいてみても、何かを考えている「かのふうな」ポーズにしか感じられない。またそれらの話が、この物語のメインとなる事件とどう繋がるのかも今ひとつ見えてこない。

    演劇ではしばしば、なんとなくの雰囲気が「世界観」と呼ばれてしまうことがある。「この世界観が好き/嫌い」という言い方は確かに感想としては言いやすいものだし、この『ココロに花を』にはその意味では「世界観」があったけど、そこから何かがひろがっていく感触は得られなかった。

    役者の演技も単調だった。もちろんそれは演出のせいでもある。リアリズムの会話で押すところにしても、空想的なシーンにしても、もっと発話の方法や舞台での居方を練り上げていく必要を感じます。例えば単純な話、やっぱり女性の板挟みになる男には、ああ、この人なら確かにモテるわ、しゃーない、というくらいの説得力が欲しい。

    ネタバレBOX

    記憶を無くしている男は、面会謝絶になるくらいの大事故に遭ったらしいけども、そのわりには全然怪我をしている感じがなく、つるんとしていた。例えばの話、映画『イングリッシュ・ペイシェント』のような、包帯でグルグル巻きになってもはや匿名の存在にならざるをえない(自己を証明できない)、くらいの切迫感は欲しい。包帯巻けばいいという話ではないのですが。

    映画といえば「タランティーノ」をはじめ、映画監督の名前が幾つか持ち出されるけども、それもなんとなくの「雰囲気」を醸成するために動員されたように思えてしまった。映画への愛がもしも本当にあるのなら、『レザボア・ドッグス』はもっと魅惑的に模写してほしい。加えて言うならば、「オウム真理教」なども含めてぽろっと簡単に名前が出て来るけれども、そうやって名前を持ち出すことに対して「畏れ」がほとんど感じられないのは劇作家としては問題ではないだろうか。例えばル=グウィンの『ゲド戦記』をお願いだから読んでくださいという気持ちになります。

    ところで衣装は、赤、黒、白、の3色からのみ構成されていたと記憶していますが、その狙いはなんだったのでしょう?

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    2013/06/19 01:57

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