満足度★★★★★
劇場版『鎌田行進曲』は,映画版を忠実に舞台に再現している。
映画は良く観るが,演劇・ミュージカルは,ほとんど観ない。そういう人生もある。とりわけ,東京などの都会にいないと,交通費分だけ上乗せになる。また,チケットを取るのも面倒である。さらに,独身者には,デートやら,家族連れのいるところは,苦手だった。でも,小劇場で演劇を観る習慣がつくと,映画・TVに多少の違和感を覚えるようになる。
『鎌田行進曲』は,映画のものが有名である。内容は,児童劇団以来の,銀ちゃんとコナツが,映画全盛時代に入り,ぎくしゃくした関係になり,コナツが銀ちゃんに捨てられる話である。銀ちゃんが主役かというと,コナツに密かな憧れを抱いていた大部屋のヤスが,にわかにコナツの伴侶に浮上していく点で,むしろヤスとコナツの話といった方がいい。
『鎌田行進曲』は,最初,つかが,舞台用に作った作品らしい。それが,映画化され,大ヒットとなった。今回の舞台化は,もう一度舞台に戻したものだ。劇場は,きわめて小さい。最前列では,実際に,役者のつばも飛んで来る。大道具は,メインテーマである「巨大階段」であり,それ以外には小道具らしきものはなかった。
新撰組は,明治維新に向かう時期に幕府側の大応援団になった時代錯誤な集団である。銀ちゃん演じる「土方歳三」は,なんと会津戦争にも参加し,函館五稜郭までいっているから,「竜馬」よりは少し長く活動している。もともとは,八王子あたりの出身だ。この地域は,甲府などにも近く,幕府にとっても重要な土地であったのだ。
銀ちゃんは,しきりに,竜馬と張り合う。実際の「土方歳三」も,「竜馬」と並んで,女たらしでカッコイイ。銀ちゃんは,どうしても,階段落ちにこだわる。自分が,そこで,芝居を演出してやりたい。誰でもいい,階段から,勤皇の志なかばで死んでいく長州藩士を演じきって欲しい。切られて,後ろ向きに倒れる役を,大部屋の誰かにやらせたい。
『鎌田行進曲』は,俳優・役者の世界が,競争至上主義で貫かれ,頂点の銀幕スターの存在あって成立することを執拗に強調する。映画にしても,演劇にしても,当たって,観客をどれくらい動員できるか,そのことが一番大事であって,時には,強力なスポンサーがつけばなおさら良いと言える。
劇場版『鎌田行進曲』は,映画版を忠実に舞台に再現している。このような逆流をすると,失敗するのではないかと思ったが,むしろ,すっきりとまとまっていた。一番の問題は,大階段落ちのシーンでは,コナツをどう表現するのかと案じられたが,舞台横で,見事にコナツは演じていた。これが,まさに舞台である,といった演出だった。
2014/09/04 07:47
2013/06/13 15:04
つかこうへい(1948-2010)の,追悼冊子から,
「口立て」,つか君の芝居の作り方は,演出しながらどんどんセリフを変えていく。近代演劇史にあっては,つか前,つか後に区切られるほどの存在である。
つかは,厳密には演出家ではない。文学・戯曲をむこうに回し,思想的に対決することで良い舞台ができる。純粋に演出家であろうとする者,たとえば,蜷川幸雄などは戯曲を書かない。
つかは,S.49.に,『熱海殺人事件』で,岸田戯曲賞を,S.57.に,『蒲田行進曲』で直木賞をもらった。
『ストリッパー物語』(1975)は,明美と重の物語だ。ヒモである重は,明美を,劇場支配人などを有力者に当てがい屈折した関係を続ける。この関係は,『蒲田行進曲』での,銀ちゃんと小夏の関係でもある。そこに,ヤスが割り込む。
つか芝居の魅力は,二人の俳優が二つのセリフを同時にしゃべって,掛けあいになることがある。
唐の戯曲は難しい,赤テントなどが役者が濃すぎたり,客席が窮屈とか,野外であつかったり,寒かったりした。ほかにも,どぎついものを避け,元気がなくなるようなものも敬遠する。そこに,つかが楽しく笑えた。
新国立劇場の小劇場のこけら落としで,つか作品は上演される。つかの背景にある思想について,騒動となっている。その後,二度とつか作品は呼ばれていない。
つか作品では,俳優が役作りをする過程こそが演劇である,という気がする。また,つか作品では,舞台装置が俳優より目立つことはほとんどないだろう。階級と役割を意識し続けるのは,別役実から引き継いでいるが,別役の方が乾いているのに比べ,つかは湿っているといえる。つかの作品は,恨みがましい。
悪久悠との対談。言葉の力が弱っていることについて共感する。劇画とゲームで日本語を覚えると,フォルテしかない。しかし,実は,ピアニッシモで語られる部分にこそ,すごいインパクトがあるのだ。「うるせー」「てめー」「このヤロー」しか知らないから,次は刺すしかない。そこで語れる言葉をもっていて欲しい。
僕の芝居,一回も暗転やったことないんですよ。最初に役者があって,その役者がどうしたら一番魅力的に輝くか,そこで演出家は活躍する。
『ハムレット』には,墓堀りの場面は不要。なぜなら,当時有名な道化役者を出すために作った場面だから,あんなものはいらないと思う。
幸せになるということは,誰か他人を無意識に奈落の底に落とすことで成立するものかもしれません。
地方の市民会館は,たいへん豪華で,贅沢にできている。そこでは,建築デザインばかりが優先される。しかし,音響効果についていまいちである。声のデッドゾーンなどがあることが多い。芝居は,デッドゾーンのない,小劇場が好き。
ぼくの創作のスタンスは,常に,社会の底辺で生きているひとたちへの応援歌。