満足度★★★★
イプセンの『人形の家』には,しっかりとしたストーリーがある。
下北沢小劇場「楽園」で,イプセンの『人形の家』を観る。
演劇史を研究していると,チェーホフとならんで,このノルウェーの作家が頻繁に出現する。明治時代,西洋の完成度の高い作品として,日本に紹介され,気が付けば,女性の自立を促すためとか,家庭の在り方への問題提起の意味を含んで,何度も上演されている。
演劇というものは,たしかに,戯曲を忠実に,演技するというだけではない。しかしながら,自由に演出し,自由に演技していく場合,もとの戯曲=テキストが,多少しっかりしたものでないと,うまくいかないものだろう。そういう意味で,翻訳劇には,登場人物名が覚えにくいなど違和感はあるが,筋は明瞭だ。
作品は実在した人物からヒントを得ている。イプセンは,ある女性から,夫の病気ゆえ借金話をもちかけられる。「すべての悩みをご主人に打ち明けなさい」とすすめるが,金は貸さなかった。結局,彼女は,うつ病になってしまう。劇中のノーラは,もう少し別の話で,借金はできたが,にせ借用書事件に追い込まれる。
「パパは,あたしを赤ちゃんと呼び・・」「あなた(夫=ヘルメル)も,私を人形として,この家であつかっていた!」。イプセンの『人形の家』のテーマは,このような会話に収束されるだろう。妻であり母親であるのに,その責任を放棄して,家を出ていくノーラは,この後,しあわせになれるだろうか。彼女は,明確に,自分には,子どもを育てる自信がないのだと述べる。さらに,子ども以上に,自分は,自分という人間を最初からやり直したい,という。そう,もう,人形ではいたくないのだ。
ノアノオモチャバコの演出は,とてもおもしろい。この小劇場は,普通のように,前に舞台があって,客席があるものとはちがう。劇の種類によっては,真横から,観客が,じっと劇を観ることが可能である。まず,入場すると,おどろいたことに,ノーラは,すやすや舞台中央の揺り椅子で眠っていた。その後,太陽やら,月をイメージした,おもちゃが,ぶらさがって,回転している中央で,演技をする。最後,左手奥にある観客席を,思いっきり蹴飛ばして,家を出ていく。
イプセンの『人形の家』には,しっかりとしたストーリーがある。そのために,ノアノオモチャバコ版においても,その基本構造は,びくともしない。
二組の男女が,物語の骨格を作っている。まず,主役のノーラと,その善良かもしれないが,見栄っぱりで,信念も,誠実さもどこか薄弱な凡夫であるヘルメルがいる。これに対し,ノーラに金を貸したどこか胡散くさいクロクスタと,ノーラの幼なじみのこれ又ひとくせあるリンデ夫人の組み合わせである。
意外とおもしろいのは,クロクスタが自滅していくのを,どういうわけかリンデ夫人は,救う展開となっている。「偽借用書事件」やら,「同窓生ゆえのなれなれしさ」に,ヘルメルは,銀行頭取になるや,クロクスタを解雇し,かわって,未亡人のリンデ夫人を事務職にすえる。この時点では,クロクスタとリンデ夫人は,あきらかに敵対しあう関係なのである。しかし,リンデ夫人は,クロクスタを救う。
かつて,クロクスタは,リンデ夫人に夢中になるが,はねつけられた。リンデ夫人は,そのクロクスタのかわりに銀行で職を得たのだ。でも,仕事をしてみたかったのは事実だが,欲をいえば,クロクスタの子どもたちがかわいくて,その母親にもなってみたかったのだ。そのためには,遅くなったが,リンデ夫人は,クロクスタの求愛を受け入れることは,まちがっていないと考える。
ただ,このリンデ夫人の機転のきいた判断で,ヘルメル・ノーラ夫婦は,一転危機を回避できたように見えるが,かえって深い決裂に向かってゆく。ノーラが,実際に,家を出ていくには,戯曲の中ではわからない複雑な思いがきっとあるだろう。ヘルメルは,彼なりに,自分のまちがいをなんとか詫びたいという気持ちにまでなった。しかし,時すでに遅し。ノーラは,傷つき,家を出るのだ。対話らしいものが,ひとつもなかったヘルメルが,変わるとは思われないのだ。