満足度★★★★★
凄くシンプル
ダンス言うところの「身体性」という言葉の意味が自分には不明だ。
ただ、ダンスの芸術性と呼ばれるもののひとつに、
「文学や絵画とは別の道で物語を語ったり、何者かを表現すること」(つまり詩的であること、と言い換えてもいいのカナ・・?
(「Andre Levinson on Dance」の序文より抜粋)
があるとするならば、
勅使河原氏のダンスはまさにそれだったように思う。
賢治の詩のように、非常に抽象的でありながら具体的で、
削ぎ落としながらも豊かさを湛えている。
詩人の筆のように時に躍動し、
次の瞬間に死を匂わせる。
まったく言葉を発しないにもかかわらず
身体の動きだけで雄弁である。
むしろ動きは次の静止(≒死?)をより雄弁にするために燃えながら準備される。
言葉(≒動き)を完全に削ぎ落とすべきなのか、
あるいはまったく削ぎ落とさないのか、
それともある配分を持って(作者の美意識に従って
削ぎ落とすべきなのか、
どれが最も空間と言うコップの中に、
詩という水を満たすのに適当なのか、
自分には、正直答えがまだ出せないでいる。
・・いや、たぶん「完全に削ぎ落とす」が、
最も正解に近いのは分かりきっているのかもしれない。
ただ、今回の公演を観る限り、
勅使河原氏が20年を経てこの作品を再演したということは、
まだまだ削ぎ落とす前に寄る道は多いということを言いたいのかもな、と思ったりした。
もっともっと豊か(躍動し)になり、
やがて全てを削いで完全な無になるのか、
あるいは砂漠の上の遊牧民のように情感豊かに夜空の星を語るのか。
前世紀(19世紀)までに派生し、準備されたと思われるダンスという詩が
一堂に会した20世紀初頭のヨーロッパから
100年が経過した今の日本で、
どんな解なら成立するんだろうかなぁ・・。