期待度♪♪♪♪
談志が死んだ
ご存知の方も多かろうが、立川談志の弟子でありながら、ブラック師匠が立川を名乗っていないのは、立川流を除名されているからである。
原因は借金。一時期は2000万円を超えていたとか。家元制度を採り、師匠への上納金を義務づけていた(現在は廃止)立川流にあっては、示しを付けるためには愛弟子と言えども除名せざるを得なかったようで(破門は免れている)、談志がブラックを疎遠にしたわけではない。
談志の弟子も数多く、その芸風もバラエティに富むが、ブラック師匠ほどその「毒」を受け継いだ噺家も無い。談志にしてみれば、除名は断腸の思いであったろう。「快楽亭ブラック」の名跡は明治の初代から途絶えていたが、漫画『美味しんぼ』などに取り上げられていて知名度はあった。立川を名乗れずとも、この改名で一本、商売が出来ようという師・談志の恩情であったろう。
俗に「放送禁止落語」と呼ばれる通り、ブラックの落語をテレビで観ることは殆ど叶わない。差別ネタのオンパレードで、その対象となるのは××であったり××であったり××である(だからヤバ過ぎて書けないんだってば)。ウワサではあるが、話を聞きつけた某抗議団体が寄席に押し寄せたというほどの過激さなのだ。
もちろん噺家や芸人は放送禁止ネタをいくつかは持っているもので、表と裏を使い分けるのが普通である。表で名を売り、裏で好き勝手やっているようなものだが、それでなくては寄席の存続もままならないのが現実だろうから、このような「二枚舌」も仕方がないことではある。
師・談志もまた、テレビやビデオなどの表に出回っているものは相当に“毒気を抜かれた”ものであった(だから談志を生で見たことがない者に談志は語れないと言われる)。
しかし、ブラックには表の顔がほぼ存在しない。映画評論家としての顔はあるが、本業の落語は全て皿まで喰らわされる毒に充ち満ちている。表も裏もあるか、頭のてっぺんから足の裏まで全て毒、これが俺だ、という潔さがブラック落語の真髄なのだ。ブラックの落語会に押し寄せる常連客たちは、まさにその毒気に当てられた「中毒患者」なのだ。
その過激さに眉を顰める人は確かに大勢いる。しかし、落語の笑いはそもそも差別を基調にしていたものだ、と言うか、今でもそうである。落語の主要人物の一人である与太郎は、子どもではなく明らかに頭がナニである。与太郎がなぜ落語の主人公になりうるか、明らかに与太郎をモデルにしている赤塚不二夫『天才バカボン』を読めば一目瞭然ではないか。馬鹿の価値観こそがお定まりの常識や既成概念をひっくり返し、笑いに転化できるからである。差別を描くことこそが差別から目を背けずに差別を打ち破ることのできる唯一の方法だからである。「これでいいのだ」。
上っ面だけの正義、キレイゴトばかりが横行する社会では、人間の憎悪、怨恨、侮蔑などの黒い感情は意識されなくなる。ブラック師匠の毒に鼻白む人間は、自分もまた差別者であることを自覚できない。いじめをする人間は、それがいじめだと自覚できていない場合が殆どではないか。結果的に、無意識の差別がこの社会に蔓延することになっているのである。ブラック落語が表で鑑賞できないのは、この日本にとってはどうしようもなく哀しく不幸なことなのである。
言葉狩りでは差別は絶対に解消できない。差別を笑い飛ばせる感性は、差別ギャグにどっぷり浸ることでしか培われない。それが落語の本道であるし、立川流の本領でもあった。談志の生落語を聞く機会はもうない。しかし快楽亭ブラックはまだここにいる。
落語会は何を演目とするかは当日にならないと分からないが、今回は『談志の正体』を演ることは告知されている。福岡では当然、初お披露目の新作で、今、ここでしか聞けないものになるだろう。先日、ブラック師匠は『立川談志の正体:愛憎相克的落語家師弟論』(彩流社)も上梓したが、この書籍販売及びサイン会もあるのではないかと踏んでいる。どちらも談志を肴にどんな過激な話が飛び出すのか、ミモノだ。