満足度★★★★
ぱぱぱぱぱぱぱぱ、ぱぱげーの
誤解を招くことを承知の上で、あえて書くなら、ピーター・ブルックには、アマデウス・モーツァルトが全く分かっていない。
しかし、モーツァルトが皆目分からないと知っているのは、他ならぬブルック自身なのである。彼の非凡は、まさしく「無知の知」によって支えられている。
ブルックが『魔笛』の演出に当たって、確信していたのは、「理解不能でも、面白いものは面白いのだ」というこの一点にあって、だからこそ、オリジナルの『魔笛』を自由に解体し、他作品からの引用も行い、再構築することが出来たのだ。
言い換えるなら、オリジナルの持つ「強さ」を信頼しているからこそ、ちょっとやそっとの改作で、モーツァルトの面白さが損なわれるはずがないという「敬意」の表れである。
そのおかげで、今回の『魔笛』は実に軽妙である。軽妙であるがゆえに、かえって観客はそこに何かの「意味」を深読みしたがるものだろうが、そういう客をこそ、ブルックは「退廃観客」と呼んで嫌悪していた。難しく考えることはない。パパゲーノとパパゲーナが「ぱぱぱぱ」と愛の交歓をし合っているのを聞いて、そこに何かコリクツをひねくり出そうとしたところで無駄だろう。われわれはそこで大笑いしておればよいのである。