期待度♪
メロスは最後にまっぱになるのか
ちょっとした義理があって観劇することになった(と言っても、制作者に知り合いはいません)。
正直なことを言えば(正直なことしか言えないが)、「福岡オリジナルの舞台芸術環境・人材の育成」が目的で、なぜ原作が太宰治なのか、脚本が宮崎・こふく劇場の永山智行なのか、そこから既によく分からない。
『走れメロス』は太宰作品の中では最も人口に膾炙した小説ではあるが、太宰が日銭を稼ぐために、シラーの詩に取材してちゃちゃっと書いた手抜き作である。太宰の個性が最も発揮されたと言ってよいブラックユーモアの傑作『お伽草紙』を脚色したあとに、永山が、太宰らしさの全くない『メロス』に挑戦するという意味がどうにも掴めないのだ。
言ってみれば、その「謎」の意味を知りたいがために観に行くようなもので、期待値は低い。でも期待が薄い分、プラス方向に裏切られたいなあと思ってはいるのである。そうでなきゃ、いくら義理があったって、観に行ったりするものではないのである。映画『奇巌城の冒険』なみのアレンジ(と言うかほぼ別物)にしてしまうくらいの度胸があれば面白いのだが。
でも本当にどうして今さら太宰なんだろうね。言っちゃなんだが、岸田國士やら宮澤賢治やら太宰やらがやたら舞台化されているのは、単に著作権が切れていて、何をどう脚色しようがどこからも文句が出ないからなんじゃないかという気がしてくるのである。それならいっそ、地元作家で夢野久作とか火野葦平とか著作権切れてるから舞台化したらどうかと思うんだがやらんのかなあ(久作はやってるとこあるけど)。
「子どもからおとなまでが楽しめる舞台芸術」というのも、得てして「子供騙し」になりがちだが、そこに何か「演劇としての戦略」はあるのだろうか。