期待度♪♪♪♪♪
あゆみ、反復。かつ連続
柴幸男の演劇をみたのは、こまばアゴラの「あゆみ(長編版)」が最初。ひとりの人を、ひとりがずっと演じるというような、演劇の暗黙のルールを軽やかに乗り越えてしまう手法に、目の前がぱっと晴れたような気がした。ちょっと長くてくどい、とも感じたけれど、その明るさと軽やかさ、若さ、そして物語にこめられた、ほんの幽かな重さ、それらの要素の比重は、いま(といっても三年前だけど)を生きる僕らが物語に求める理想のバランスなのかもしれない、とも思った。
よくできている、と思った。でも、当時の僕は同時に、この演劇を、こわい、と思った。
いちど見たら忘れない、「あゆみ」の鮮やかな演劇形式は、目に映る通りの自然空間を描かない。かわりに、いま僕らの感じている体感世界を、視覚的にデザインされた仮想空間として一から構築しつづける。抽象的な手法で上演される演劇なのである。
またこの演劇は、ごく当たり前の、ひとりの人間の人生、といったものを扱う。ちょっとしたことで苦しんだり、喜んだり。きっと自分もこういう人生を過ごすんだろうな。そう思わせるのは、描かれるのが、一般化された、具体的というより、記号っぽさを残す抽象的な人間像、人生像だからだ。
つまり「あゆみ」は、抽象的な演劇形式によって、これも抽象的な、おおきく一般化された、漠然とした人生のひな形を、洗練されたデザインとして見せる演劇、と言える。
デザイン化された抽象的な枠組みは、それが現実をそのまま映さないがために、そこに描かれるものを普遍化する。はじめから記号っぽさを持たされた、抽象的にデザインされた人生のひな形が、演劇の抽象的な枠組みによって、よりいっそう強く、普遍化させられることになる。普遍化が強まれば強まるほどに、描かれた以外の人生が、存在しないかのように映るようになる。実際には、そんなことはないにもかかわらず。
だから僕は、この演劇を、よくできているからこそ、こわい、と感じた。描かれなかった、演劇の外側を、この劇は見えにくくする、そう思った。「あゆみ」の外にも人はいるのだ。でもこの劇は、彼らの居場所を奪いかねない、そう思った。
そんな「あゆみ」が、新作として上演される。色々なことがあった。三年前とは違う世界の風景を通過して、「あゆみ」がどう生まれ変わったのか。僕は期待している。だって、「あゆみ」を、レパートリーとして繰り返し上演して深めていくと決めた柴幸男は、もう一時期のように、新奇の演劇形式を探すことに血道をあげるのをやめて、物語を深めていくと決めたということなのだろうから。そしてそれは、小さな小さな世界のなかに、みんなの居場所をみつけようとする、僕が大好きな柴作品「反復かつ連続」と同じ作り方なのだから。
みんなの居場所や、居場所をみつけようとする想いの、新しいかたち。もしかしたら今度の「あゆみ」には、そういうなにかが見つけられるかもしれない。そんなことを思いながら、新しい気持ちで見にいきます。