ルネ・ポルシュ『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「ルネ・ポルシュ『無防備映画都市―ルール地方三部作・第二部』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ゲルマン魂が炸裂!!
    ダイナミックな舞台装置に、豊洲の夜景を堪能するだけでも一見の価値あり。個人的には、これは理想主義に陶酔してる田舎者たちの遠吠えなんだろうなぁっていう見方をしていたら、だんだん可笑しくなってきちゃって笑いをこらえるのにたいへんだった。日本と同じ敗戦国ってのもあるのかな。めっちゃ親近感沸いたよ、ドイツ。

    ネタバレBOX

    サーカステント、電飾が施された小さなステージ、パトカー、銀色のBMW、数台のロケバス、キャンピングカー。これが『映画撮影所』を舞台にした作品であることは知ってはいたものの、こんなにもダイナミックにあらゆる本物が配置されてるとは思いもよらなかった。

    客席は、これらのセットをまるでディレクターズチェアから作品を精査するような位置に配置されており、舞台の背景には高層マンション群、下手側にはレインボーブリッジが見渡せる格好のロケーション。
    それを、一杯飲みながら夜景を一人占めできるという贅沢なひと時に。私は運よく、高層ビル群の隙間に飲まれる夕陽を脳裏に焼き付けることができ、そんな景色をつまみにドイツビールを飲めたことに幸せを感じていた。開演前まで、アメリカンロックが適度な音量で流れていた。

    作品は『映画撮影所』を舞台にドイツ零年を現在置からリメイクしようと試みるキャスト&スタッフの創作過程が主となる。
    いかにも何かが起きそうなシチュエーションだ。
    そして、案の定(?)あらゆるトラブル、ハプニング、アクシデントが巻き起こる。

    まず、冒頭。銀色のBMWをパトカーが追いかけるという、まさかのカーチェイス。
    映画ならありがちな光景だが、演劇ではまずない。
    これは演劇の常識をくつがえす、とんだハプニングだ!と言っても過言ではない。

    このシーンの後は、人的なトラブルの連鎖が続く。
    それは、役柄に対する不満だったり、人間性に対する不満だったり、芸術への批評的なまなざしだったりもする。怒りと言ってもいいかもしれない。

    『思い通りにいかない』という鬱屈したエネルギーと異なる『思想』を持った者たちの譲り合わない現場が上手くひとつにまとまるはずもなく。

    ある者は名優になりきって映画のワンシーンの台詞を吐き、またある者は役から抜け切ることができずにいて、仕事と割り切って次へ次へとシーンを進めようとする者までいる。

    劇中には車中で誘拐された美女を青年が命掛けで追いかける…なんてアクロバティングなシーンもあったりもするのだが、それもこれも名画のパロディの一部に過ぎないと言ってのける。

    そして、オリジナルなき茶番を演じることも、それを作ることにも疲れ果てた者たちは、いつしか誰もが誰かの意見を聞くことを止め、自己主張を繰り返すことすらおざなりになっていく。
    この会話の相いれなさ、意見の対立が生む不完全な関係性がコミュニケーションとして成立しているような状態は、なんだ日本とあんまり変わらないじゃないの!なんて思ったりもして、ドイツという国にたいして妙な親近感を抱いたりもした。
    やはり、日本と同じ敗戦国だからだろうか。
    そういえば、『戦争』の語り方がとてもユニークで自虐的だったのが印象的だ。
    『ドイツ零年』をパロディ化する勇気にも恐れ入ったが、主人公・エドモンドを成人男性が演じ、監督がネオ・リアリズモの誕生だ!と言い切った場面。
    潔すぎて笑ってしまったけれど、こうやって、皮肉に笑わせる戦争の語り方って、日本じゃまだまだ許されない雰囲気あるよなぁ。その違いはやっぱり国民性なんだろうか…。

    後半は、アクロバティングな動きのあった前半とはうって変わり、それぞれの『理想』の語りが主となる。彼らは『議論』を通じてはじめて何かを語りあうことを獲得したといってもいいのではないかとおもう。相変わらず、喧嘩口調ではあるが。(笑)

    議論は、言葉そのものの意味にではなく、その言葉を語るように仕向ける現実に対して思考するように促したミシェル・フーコーの言説を素地に、言葉の居場所と身体の在り方、それらが巧みに『利用』されてきた歴史的背景、またそれを牽引した『主義』について注意深く、そしてラディカルに探っていく。その台詞のひとつひとつが知の結晶であるかのように哲学的であり、また、くだらなくもある。

    ちなみにこの議論の間、舞台はからっぽ。キャスト&スタッフがキャンピングカーのなかであーでもない、こーでもないと言ってる様子をスクリーン画面を通じてみることになる。身体が死んで、言葉だけに支配される空間。ささくれ立った言葉の群れに耳をそば立てる。なんて言ったら聞こえはいいかもしれないが、なんてシュール!なんて、残酷!!(笑)

    そして、言葉による暴力を振りかざしてみても所詮、卓上の論理にしか過ぎない彼らのやるせなさ、苦し紛れに名画の台詞を引用したり、そんな方法でしか抗うほかないという敗北感は滑稽で。それは、ともすれば見えない大きな力に対する絶対服従でもあるのかもしれないというそんな、情けなくてお粗末なリアル。

    それでも彼ら。
    望むことは違っていても、お互いが『理想主義者』であることにはそんなに違いはなくて。
    経済発展を遂げた後、産業から切り離されて時代から取り残されたような故郷(ルール)に別れを告げて、一発映画当てて地位と名誉と金を手にしてハッピーになろうぜ!ってな感じで夢みてて、たぶん。

    だから。『そこ』(撮影所)は彼らにとっては『ローマ』であったのかもしれないが、わたしにとっての『ここ』(舞台)は荒廃したルールの田舎町としかだんだん思えなくなってきて。
    ローマという名のユートピアを、ローマから遠く離れた、ルールという片田舎のどこか、閉鎖された工場地跡のようなそっけない場所(それも『都会』という金に物を言わせる摩天楼を背景にという妄想含む)で真剣にごっこ遊びをしているような。そんな気がしてきたのだ。

    そうおもうとなんだか無性にむなしさがこみあげてくる。もう笑うしかないじゃん、とすらおもえてくる。

    だのに最後は『感傷的に生きるなよ!』だもんなぁ。
    ゲルマン魂半端ない。格好よすぎるでしょ!!

    5

    2011/09/25 06:19

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  • なるほど、そういう切り口が似てたんですね、ジエン社と。
    となると、自ら(の存在)を斬りつけるような感覚もあったのでしょうね。
    ルネ・ポレシュは何歳ぐらいの人かはわかりませんが、ジエン社の若者たちと同様な意識と感覚を持ち合わせていたということなのでしょう。

    >アキラさんとは是非、この作品について語らせていただきたかったです。ほんとうに残念過ぎます!笑

    恐縮です(笑)。

    2011/09/27 09:03

    >アキラさん

    お返事ありがとうございます。
    昨日、ジエン社と通じるイズムが・・・と書かせていただいたのは、社会の隔たりのモチーフとして用いられる心理的・物理的距離感や、あらゆる力の傾きと負荷の捉え方、またそれに抗おうとする斜め目線の不屈の精神が、まさにそうだと感じたからです。
    そして、ある種の人々がユートピアのような場所を織りなし、そこから何かを語ろうとする切り口も少し似ているような気がしました。
    ただ、ルネ・ポレシュの方が幾分ファンキーではあるのですが。笑

    アキラさんとは是非、この作品について語らせていただきたかったです。ほんとうに残念過ぎます!笑

    2011/09/26 06:57

    そうかかー、ドイツのジエン社かぁ(笑)。
    壮大なのか極小なのかわからなくなってきました(笑)が、Hell-seeさんが、こんなに熱っぽく語るということは、やっぱり観ておけばよかった、ということなのでしょう。
    なにせ、私のお気に入り劇団となったジエン社を勧めてくれた張本人がHell-seeさんなので、その感覚には疑う余地さえありませんので。
    台風来なかったらなあ、と思いますが、それもまた野外の醍醐味なんで、「残念」という気持ちを大事にします。

    2011/09/25 22:21

    >アキラさん

    コメントありがとうございます。
    そうです、チネチッタの再現でした。
    名画のパロディはいくつか出てきたので、これから該当する映画をみて、ニヤつこうとおもいます(笑)

    >台風のせいで観られなかったので、悔しいです。
    そうでしたか・・・。
    この作品はジエン社に通じるイズムがあると感じたので、是非アキラさんに観ていただきたかったのですが・・・。残念です。

    2011/09/25 07:06

    台風のせいで観られなかったので、悔しいです。

    『ドイツ零年』は、イタリア映画だというところもミソですね。
    撮影所の再現は、チネチッタなのでしょう。

    2011/09/25 06:52

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