コクーン歌舞伎第十二弾 盟三五大切 公演情報 松竹/Bunkamura「コクーン歌舞伎第十二弾 盟三五大切」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    初体験で感じたこと
    コクーンにはずっと距離を置いてきて今回が初体験。

    観終わってのまず最初の感想は、勝手な想像で距離を置いてきたのだが、それは自分にとってはよかったということ。

    しじゅう同じ座組みで、名作を繰り返し演じていてたまに刺激を求めたい歌舞伎役者と、何か新しいことやってみたいが、古典で冒険するって楽しそう、という演出家、敷居が高そうと敬遠してきた歌舞伎を身近に感じられそうだという現代の観客の三者の思惑が合致したのがコクーン歌舞伎なのだろう。

    SUSHIのカリフォルニア巻きを美味いと思うかどうかというと、私はアイディアとしては面白いし、好きな人は食べたらよいと思うが、自分はあえて食したいとは思わないということだ。

    昭和のある時期から、歌舞伎の劇評も近代の純文学的難解な解釈をする劇評家が現れて、人気を得たりしたが、私などはそういう解釈はとんと不得手で、字も読めない町人が観て楽しんでいたのが歌舞伎なんだ、という思いが強く、七面倒くさい心理解釈は、現代劇だけでじゅうぶんという気がしてしまう。

    もちろん上演意義は感じる。

    本編を観てる人が、へぇー、こういう演出もあるのかと思うぶんにはいいが、これしか観なかったとしたら、ちょっと残念な気もする。

    もともと、この作品は、南北自身が書いた「東海道四谷怪談」や上方芝居の「五大力物」のパロディーとして当たったのだが、そういう意味では、串田歌舞伎も一種のパロディーと捉えられなくもない。

    先日の花組芝居の「番町皿屋敷」のときにも書いたが、ぜひ、純歌舞伎の「盟三五大切」、さらには、この元となった「五大力恋緘」のほうも観ていただくと、よりこの物語の解釈が深まると思う。
    ついでに「今様薩摩歌」も観ると一層混乱していって楽しいと思う(笑)。

    ネタバレBOX

    小万の腕の彫り物の「五大力」を「三五大切」と書き換える趣向は、「五大力恋緘」を映しており、元が上方の話だから、住吉大社の五大力信仰や手紙の封じ目にかけた願いが遊女の心中立てに転用されたとか、そういう「遊び」がわからないとこの芝居は面白くないのだが、プログラムにもそういう解説がほとんどされていないのは残念だった。

    三五郎が死ぬ間際に女房の名前の「お六」と写実に呼ばないのも、あくまで「五大力」といえば「小万」を意識しているからだと思う。


    小万の菊之助はふとしたところにお父さんの若い頃やおじいさんの芸風をも思わせるが、意外に2人よりもこってりとした味があり、それが南北物には合っていて、玉三郎が南北物で見せる江戸前の伝法さとも違う個性を感じた。

    三五郎の勘太郎は、父の勘三郎によく似ていて、こういう南北物に必ず登場する小悪党の愛嬌がよく出ている一方、忠義者の側面もきちんと出しているのがさすが。そうでないとただのお調子者のチンピラになってしまう。
    小万を惚れ抜かせる色気もあり、この若さでこれだけ演じられるのは努力もあろうが、やはり名優の血筋だと痛感する。

    源五兵衛の橋之助は、辛抱立ち役から殺人鬼へと変化する難しい役を丁寧に見せた。いい人でも豹変するということだが、他方で、これは「東海道四谷怪談」の世界とも微妙につながっていて、そういう不気味さを橋之助は体現できていた。

    源五兵衛の忠義な若党八右衛門を橋之助の息子で丸い体つきの国生がけなげに演じている。彼のゆっくりとしたしゃべりかたは古典歌舞伎の子役の口調が多分に残っていて、この芝居の中では少し浮いた印象に感じてしまう。
    年齢的にも、古典歌舞伎の修行が精いっぱいという時期だと思うし、コクーン歌舞伎に出すのは技量的に酷な気がした。
    橋之助は子役の頃から達者で、10歳くらいで法界坊の丁稚を器用自在に演じて拍手をさらった人だが、国生はおっとりしたお母さん(三田寛子)似なのかもしれない。


    坂東彌十郎は家主と富森助右衛門の2役だが、若手の頃に多く観たせいか、この人もそういう年になったかと感慨深い。
    助右衛門が忠臣蔵の人物らしく見え、よかった。

    伊之助の片岡亀蔵も名脇役だった父の片市っぁんこと片岡市蔵を彷彿とさせる。

    笹野高史は三五郎の父、了心と道化役ますます坊主の2役だが、了心がなかなか良かった。
    ますます坊主は、「メルトダウン」だの、「シーベルト」を「シーボルト」と言っておどけていたが、なぜこんな深刻な話題を時事ネタとして笑いにしなくてはいけないのかわからない。かえって冷やっとさせられた。

    新聞の劇評ではチェロ演奏が効果的と褒めていたが違和感もあった。
    コクーン歌舞伎は初めてだっただけに、幕開きは印象派の絵のような舞台美術とともに「ほぅー」と思っていたのだが。
    ツケ打ちも使うところと使わないで音楽伴奏のところがあり、本来「バッタリ」で見栄を切るところが、ホワーンとなってしまう。

    また、源五兵衛が二軒茶屋で五人切りに及ぶこの惨劇が人生の契機となることを強調するあまり、走馬灯のようにグルグル回り舞台で追想にも持っていくのが、女の首の前で据え膳を食って仇討に出立するという歌舞伎特有の異様な光景をぼかしてしまっている印象。
    現に「源五兵衛の殺人は夢想の世界」などと解説してる劇評もあり、新演出の難しいところだと思った。

    本水の雨を降らせるが、あまり本水である必要を感じなかった。

    忠義のために悪事を働いたら、かえって主の仇となるというよくある歌舞伎のパターンだが、違う名前を名乗っているから気づかなかったり、案外、似たような因縁話は現代にもあるのかもしれないと、ネット社会に思いを馳せたりもした。

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    2011/06/24 22:19

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  • KAE様

    いえいえ、私も素人で、詳しいことはわからず、記憶も薄れて、昔、勉強したこともだいぶ忘れてしまいお恥ずかしい限りです。

    お父様のように、本当に演劇研究をされていた劇評家がいまは皆無に近いですね。しかも、お父上は常に謙虚に勉強され、「自分はよく知っているから」という態度では書かれなかったですからね。根っから、演劇を愛しておられたから、謙虚でいられたのだと思います。

    以前、私が別の欄で「お社の先生」について書いたことが、ちょっと誤解を招くような表現をしてしまいまして演劇評論家のご家族であるかたには、大変失礼になり、申し訳なかったのですが、この場を借りてお詫びいたします。

    もちろん、KAEさんのお父様は、いわゆる「お社の先生の特権」に甘んじていた人とは対極におられ、矜持の固い、距離を置かれた劇評家でした。

    そのことを実際に私は歌舞伎座で目撃しておりますので。

    2011/06/28 07:21

    きゃる様

    きゃるさんへの返信でも、自分のページででも、書き忘れましたので、追記しますが、三五郎が、今際の際に、「小万」と叫ぶのは、原作通りなんですね?

    きゃるさんの丁寧なご感想にどうもそうではないかと受け取れるご記述があって、大変勉強になりました。

    私の父は、劇評家であり、演劇研究者でもあった最後のグループに属していましたが、私は、とにかく、大学も演劇科ではありませんでしたし、ただ好きで観ているだけで、あまり演劇の学識はないので、いつも、きゃるさんの博識あるご解説には勉強になることがたくさんあって、ありがたく感じています。

    今回も、不勉強で、変な」指摘をしてしまったようで、大変お恥ずかしい限りです。

    重ね重ね、ありがとうございました。

    2011/06/27 21:36

    きゃる様

    コクーン歌舞伎のご感想、興味深く拝読させて頂きました。

    やはり、そう感じられましたか?

    私も、あえて書かない部分もありましたが、心の内面では、大方ご意見に賛同する点が多いです。

    でも、以前のコクーン歌舞伎の「三五大切」はもっと、原作に忠実だったような記憶がありました。

    「桜姫」あたりからか、どんどん、おっしゃるような、現代不条理系の演出になって来たような気もしますね。
    たぶん、平成中村座も始められてから、コクーンの方は、串田さんのご意見主導になったのかなと思ったりもするのですが…。

    あまり、原作歌舞伎の味わいから逸脱したものを、若い方が、「歌舞伎を観た」ような認識で、流布されて行くのだとしたら、私もかなり異論があるなと感じてしまいますね。

    両方を見比べて、楽しんでいただきたいなと感じてしまいました。

    2011/06/27 01:21

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