満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
演出家の姿がちらついてしまった。深刻ぶってみせることでなにごとか表現しているような気になっている、終始そのようにしか感じられなかった。別の言い方をすると、キャラクターがコマでしかなかった。たとえば、要領の得ないセリフのやりとり(思い違いや取違え)は、単に不自然なだけで、作為しか感じられなかった。そのような表現は、それこそ演出の不自然さを回避するために発明されたのではなかったか?
満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
開演前の挨拶にかこつけたひとを食ったような出だし。三つの時空が交差する構成も、バランスがとれていて、飽きさせない。いや、退屈な時間も含まれているのだが、それも後述の理由から非常に巧みであったと思う。観客であるこちらの関心は「芸術家」(not「芸術」)の価値が、劇中でどう見積もられるか、という部分にあったように思う。主人公の冒頭での言動や、彼の振る舞い、その俗物ぶりや、それに対応する人々の紋切り型な「芸術家像」などから察すると、冒頭では「芸術家」の価値はかなり低い。だが、そもそもそれはもともと高く見積もるべきなのか?という問いがなされる。ラストに吹く風は、芸術家など存在せずただ芸術(という現象)がある、という宣言のようでもあった。
テーマに対してまっすぐにアプローチをし、そこからぶれず、観客にそのことについて集中して考える退屈な時間を与える、という点で非常に演劇的だと感じられた
満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
子どもたちに見せたいと思った。筋書きは途中からどうでもよくなり、ただ目の前で起きていることを楽しむ、旅行先で偶然遭遇したお祭りを眺めているような感じ。そのお祭りに至るまで、参加する町の(村の)人々の稽古の日々、それはきっと楽しい充実した時間だったのだろう、と想像できる。あるいは、都市で流行した演し物が、口伝で地方まで届くうちに、だんだんと姿を変えていった感じ、というか。その「解釈」には「正しい」も「誤り」もない。正統なテキスト、ではなく、口伝の中で自然と変容した結果としてのテキスト。高揚感。しかし終幕の頃には黄昏のようなしんみりとしたエモーションがあった。
満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
前説の制作が、劇中にも登場するところなど、小ネタは面白かった。が、人にオススメするかというと難しい。観ているあいだ飽きはしない。ラスト、奇妙な義足をつけていた男がどうやらパラリンピックに向けて再生する、というくだりにはエモーションを感じたので、それなりにキャラクターの積み重ねは自分の中にあったのだろう。しかし基本的には他人事感が否めなかった。
満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
現代口語でやりとりする松尾芭蕉と曽良。しかし、それがパロディとして漫画的に描かれるのではなく、リアルな人として立ち現れていた。書かれた言葉からはこぼれ落ちてしまう、ノイズまみれの歴史上の出来事。仮に芭蕉の生きた時代にカメラがあったら、こんな風に芭蕉は喋ったのではないか、という感触があった。あるいは江戸時代がその後終わっていなかったとしたら、21世紀はこんな風景だったのかもしれない。可能世界は単なる思考実験ではなく実在することが、演劇であるからこそ証明されたと思った。
母親を探す息子、なぜ父親を探さないのだろう、というところに個人的には強く興味がひかれた。名もなき母親と、著名な科学者。おそらくふたりが行方不明になったとき、世間には父親の行方に関する情報・噂などは多く流通するだろう。が、名もなき母親は煙のようにあとを残さず、その行方を追うことは困難だろう。だからこそ、子の母を思う気持ちの強さが感じられる。そして逆説的に、父親の存在が煙のような軽さに転換してしまう。それゆえ、父は母のような格好をしていたのではないか? あまりに軽い父は、髪を伸ばして母のような外観を纏うことでようやく息子のことを語れたのではないか?
満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
一人暮らしの女の元に、女の殺し屋がやってきて、延々とおしゃべりをする。という一本目と、エレベーターの中で再会した高校時代のクラスメイトふたりのおしゃべり。いずれのおしゃべりも、それを通して彼らの人生模様がやがて浮かび上がってくる。のだが、そこに観客としてなんの感慨も持つことはなかった。ほぼ完全に他人事だった。殺し屋はいずれこの女を殺すことはなくきっと仲良くなるのだろう、男同士は生まれたその日からの因縁が語られはするもののやはり決定的な決裂や悲劇は起きないのだろう、と予測できてしまう。予測不可能な関係性、という定型が予測可能な展開しか生まない。いつこのおしゃべりは終わるのだろう、ということしか頭になかった。
満足度★★★★★
観た(※Team 獣)。
ネタバレBOX
ずっとふたりの俳優に目を惹きつけられていた。ひとりは湯浅春枝。もうひとりは高安智美。群舞が場面の大半を占めるが、その中でひときわ存在感を放っていた。このふたりのどちらかが出てくると、視線が惹きつけられ、じっと見入ってしまう。
改めて演劇というのが、生身の本物の肉体によって表現される、ということを感じた。得物を本当に相手に当ててはいけない。当てないための努力、稽古、チームワーク、呼吸、それが求められる。そのことで痛み(死)を表現する、ということの困難。目の前で本当に起きていることなのに、ここで起きている出来事は本当ではない、演じられている、という意識がつきまとう。そこに観客がのれるかどうか、ということが賭けられている。
60分、セリフがなく、アクションのみで物語が語られるので、人物造形は極めてシンプルであるし、テンションの高い音楽が鳴り続けるので、段々刺激に麻痺してきて単調に感じてきた。
観客に愛されているのは非常に伝わってきた。それだけの実績と期待があるのだろう。単調とは言ったが、短さゆえの緊張感もあり、無事に終えた瞬間に観客は演者とともに完走した、という開放感もあるだろう。そこを共有できなかったのは残念(観客として自分が未熟であった)。
満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
空虚さしか感じなかった。ただ構造のみがあるだけで、一切内実がない。設定としての対立がある、ということの変奏だけでいつまで経ってもドラマが起きず、進展がない。途中の、ふた部屋が同時に進行する場面も、場面転換のアクセントをつけなければ内容的にもたせられないがための窮余の策でしかなく、やはり展開には寄与しない。笑いのネタについても特に面白いとも言えず、自分が観た回について言えば、内輪ウケすら起きていないのは訴求力の欠如ではないだろうか。
満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
子どもたちと一緒にもう一度観たい! 脳の中で身体が動いて仕方なかった。子どもたちと一緒だったら、自分も踊れるかも。
冒頭、ローアングルからのライトによって浮かび上がる上半身・頭が大きくなった影。それが「子どもの身体」のようで、全体の主題のように見えた。その場面でのボールを投げるような仕草、ごっこ遊びをしているような仕草、ここが小さな近所の公園であるような感触。そして黄昏どき。もしかしたら他の子どもは帰ってしまったのだろうか? もしかしたら帰る家がない? 待っている家族がいない? ときとして、夜、ビルの前や高架下でダンスの練習をしている10代の少年の姿のようにも見える。客席が中央の舞台を挟んで見下ろすような形が、時折、観客であるこちらがAokidさんの(動かぬ)バックダンサーであるようにも感じた。短い休憩後、観客は今度は階段席から降りるのだが、そのことでことさら中央で踊る「こども」の孤独が際立つ。みんな帰ってしまった後の公園。どこまで彼はひとりきりで「地球ごっこ」を続けられるか。クシャクシャになった紙が宙に吊り上げられたとき、ふと「あれ? 地球って丸くないのかもしれないな」と思った。丸いと思い込んでいたこちらの抽象思考が不意に揺さぶられる。親密な空間であると同時に、孤独な舞台。ダンスが空間を活性化して親密にすると同時に、ただひとりだけの「ごっこ遊び」にも見えてくる。親密さを感じるからこそ、その孤独に健気さも感じる。
驚くような動きに魅了されつつ、そんなことを感じた。
高橋源一郎の『悪とたたかう』をふと思い出したことも付け加えておく。
満足度★★★★★
観た。
ネタバレBOX
誰かにオススメしたい、と素直に思った。
人物紹介、場面展開、ポップな演出、いずれも観客の生理を心地よく高揚させてくれる。キャラクターたちが「隣人」としてリアルに存在しつつ(彼らの言動に素直に共感・反発できる)、物語の通奏低音としての不穏さに最後まで「どうなるんだろう」という観客の興味を持続させていた。無二の親友であったふたりが、実はイマジナリーフレンドであった、というオチは予想不可能というわけではなかったが、そのオチそのものよりも、それまでのふたりのキャラクターのあり方や、友情の強さ、パートナー感がきちんと描かれているが故に、「別れの辛さ」を主人公に寄り添って感じることができた。「仕掛け」だけがあるのではなく、実質としてのキャラクターの存在感を描けていた。期待としてはもっと残酷なラスト、カタストロフが訪れるのかと思っていたので、そこの物足りなさは感じた。
是非また劇場で再会したい。