満足度★★★★★
【恋人達が壊れて行く過程をリアルに描いたビターチョコレートのような物語】
ラブロマンスか~。。。
硬質で上質な紙にバッチリ印刷された、軽々に撒けないであろう招待カードのようなフライヤーを見た際の第一印象です。結婚式のオプションサービスみたいにフライヤーにコラージュされた写真群のような他人の馴れ初め画像集を見せられても、食べ物も含めてスイーツが苦手な私にとっては困るものがある。
しかし、気になるタイトル。『長いお別れ』ってどういう事? 別れは特定時点の出来事では?
そこで、企画・構成・演出として筆頭に名前の挙がっている方のツイッターを見ると、シニカルな画像のみリツィートしており、スイーツ感ゼロ。間違ってもSNOWで加工した自撮り画像をUPしたりしないタイプである。その彼の本作紹介文を見ると、何やら人類史レベルの話をしている。「これは何かあるのではないか?」という期待を胸に劇場へ足を運ぶ。
劇場に入ると、ジェンガ(積み木)が舞台中央にポツンと置かれ、ライトアップされている。そのピースの一つ一つが二人の想い出・出来事の積み重なりを表わし、脆くも崩れ去るものとして象徴的に表現されていると感じさせる。
そして、おそらく冷たいであろう雨と二人の想い出や関係を浸蝕するかのように打ち寄せては返す外洋の荒い波の音が聴こえてくる中、劇が始まる。
ネタバレBOX
主演男性のつっけんどんで投げやりな演技が素晴らしかった。誤解の無い様に付言すると、演技が投げやりではなく、投げやりな演技がです。彼女の方を一瞥もせず上の空で返事をする。そして、もう一方の主演女性の側は男に未練があって、何とか関係を修復しようと涙ぐましい努力をしているのが見て取れます。このカップルが破局待ったなしの状況である事が手に取る様に分かります。
そして次の瞬間、場面は一転して二人が熱情の渦中にあった時期の話に。演じる側も一気にハイテンションになり、役者の力量が問われる斬新な構成だと思いました。このような「冷」と「熱」、「静」と「動」が時間軸をシャッフルする形で交互に演じられていきます。この間に挟まれた熱(動)のシーンが、冷めてしまったシーンの切なさをより一層際立たせ、冷のシーンが(静的でもあるので)間延びするのを抑えていました。
このようなダイナミックな構成は、演じる側には負荷が掛かると思われます。しかし反面、俳優の日常を知らない私たち観客に対しては、眼前の所作が地キャラからの自然な延長線上にあるのではなく、そこからは意識的に隔離された修練によって獲得された技芸の賜物である事を知らしめる役割もあると感じました。
そして、劇中に男がゲームをしながら上の空で彼女に生返事をするシーンがありますが、私の学生時代の同期の男がまさにコレで完全に一致しており、思わず苦笑いをしてしまう程の演技であり描写でした。
その彼は私の家に来て(キャンパス近くにシェアハウスをしていた為、たまり場になっていた)ゲームしている際に、彼女から泣き声交じりのクレームのような呼び出し電話が架かって来たのですが、その電話に「うん、うん、そうだね」と生返事をしながらプレイをし、その明らかに彼女からのSOSである電話をうまくなだめて切った際に「何言ってんだか、分かんねーや」と一言言い残しゲームを平然と続けたのでした。(ちなみに彼は、彼女とのデートにも財布を「忘れて」行くという荒技を繰り出していました)
また、新歓コンパでの趣味による意気投合を馴れ初めとする(その同期カップルも馴れ初めはそうでした)、女友達が失恋相談を前段階として男を取って行くなども実際に繰り広げられてきた光景で、「良く描写できるな~」と感心しながら見ていました。
さらに、男が外で楽しく遊んでいる時に一人取り残されている女性が倒れている描写が何度かありますが、これは対比として女性の孤独感を際立たせるための演出だと思うのですが、決して過剰なものではなく自然に見る事ができました。
というのも、(また実体験で恐縮なのですが)前述の同期カップルは別れ話をキャンパス最寄駅の改札口で行ったらしく、男はそのまま改札を入り電車に乗って去り、女は置き去りにされてその場に昏倒し、駅長室に保護されて、私たち友人で彼女の身元を引き受けに行った記憶があるからです。したがって、一人取り残された女性=ぶっ倒れるという図式が私の中で定式化しており、この演出についても大変リアリティをもって受け止める事ができました。
次に主人公女性の孤独や疎外感を際立たせるための女友達(あづさ役)についてですが、カマトトぶりが出ていて良かったと思います。彼女にニコ生配信をさせる事により、自意識過剰な女であるイメージを付与し、視聴者との受け答えで、カマトト由来のパロディとして薩摩揚げについて知らないと答えさせて、カマトトである事を観客にメタファー(暗喩)するのも良かったと思います。
また、狼のコスプレで犬耳?をつけて「わぉーん」の発声を何度も直された末に、「そもそも声が汚い」と全否定(だったら、始めから言えよwって話)されているのも良かったと思います。「チベットで凍える狼」という無茶ぶりなジェスチャー課題やジェスチャーゲームなのに「ほとんど声に出して言ってるやんw」というネタも良かったと思います。
なお、本筋ではないので割愛されていますが、このようなコミュニティにおける八方美人な「姫」タイプが、サークルクラッシャー化して数々の男を葬り去る!というアナザーストーリーも存在し、こちらも本編同様に悲劇を生み出しています。
その他の小ネタもウケました。男友達が『ブルータス(BRUTUS)』という恋愛指南書をバイブル視するマニュアル人間である事(当時そういう人間は多数いた。もちろん『ポパイ(POPEYE)』という単語もすぐに思い出した)や、SHAZNAをオチに持ってくる(私も見た目とのギャップでウケるのでシャズナを持ち歌にしていた)のもツボにハマりました。
ただ、男性友人役の方の「その棚にアイテムあるよ」というRPGネタですが、反復の妙を狙っての事と思いますが3度とも同じにする必要はあったのかな?と個人的には思いました。最後はオチとして「あっ、その村人に話聞いた方がいいよ」みたいな別のネタでも良かったのではないかと感じました。(笑いのツボは人それぞれなので、個人的な意見です)
その他の演出、小道具をできるだけ使わずパントマイムで見せる手法やテニスシーンの描写(スローモーションで必殺技を繰り出す等)が派手でマンガ(戯画)チックであること、その反対にキスシーンは不意にラップ越しというフレンチな感じなのも趣向を凝らしていると感じました。
さて、クライマックスの女性が体育座りでむせび泣きながら、恋人に「分かってよ!」と懇願するのに対し、男が「分かんねぇよ!」と怒鳴りつけるシーンですが、見ているこちらが思わず息をのむ迫真の演技で圧巻でした。
そして、その直後に男がテープ状の透明なラップで膝を抱えてむせび泣く女性を静かに包んでいき、心のこもっていない無機質な慰めの言葉をかけるシーンが素晴らしかった。
男は形だけの心の無い言葉で彼女の魂の慟哭を「真綿で首を絞める」が如くがんじがらめに縛って絞殺しようとしている。私には彼女を包む透明なテープが鳥の巣もしくは繭(まゆ)のような殻に見え、その中で膝を抱えてむせび泣く彼女がヒナ=幼子に見えた。心の拠り所である恋人を失い、人生の指針を失い、まるで迷子になって泣く幼い女の子のように見え、その孤立した状況で世界から断絶し自らの内に籠ってシクシク泣く姿が心に焼き付いた。しかし、この透明なテープで表現された「鎖」は実在はしない。彼女自身の心が呪縛として創り出している。彼女は心の底で自分の愛した恋人はもう居ない事を知っている。しかし、彼の慰めの言葉にすがって、自縄自縛になって身動き取れなくなっている。
本作の演出家は、これらの想念を観客に一撃でビジュアルをもって心中に去来させる事に成功している。そして、このシーンは美しかった。
また、冒頭から中央にジェンガ(積み木)を置き、恋人達の関係が壊れる際には崩れさせ、男が取り繕いの行動をする時にはイソイソと俳優に積み上げさせる。すなわち、本作の演出家は恋人達の熱情にある「動」と熱の醒めた「静」の時間軸を縦糸として交錯させるだけでなく、横糸としてミニマル・アートのような積み木によって恋人達の現状をガイド的に提示し、「抽象」と「具象」をも対比させて劇を紡いでいる。そこに、センスの良さを感じさせた。
ここからは、疑義を呈する形になります。なぜ、恋人達の熱が醒め、主人公の男がここまで冷淡になったのかの理由(その結果としての浮気はあれど)がよく分からなった。(このようなタイプの男が実在する事は知っていますが…)それに関連しますが、男友達のキャラがいい人すぎるような気がしました。もっとチャラくて、余計な事を使嗾(しそう)して、恋人達を引き裂く作用に寄与しても良いかも。というのも、実際にも恋人達の復元力を超えて、そのような外力が作用する事によって、関係が破断していく事が多々あると知っているので。そして、「覆水盆に返らず」の故事にあるように、壊れてしまった恋は不可逆(またねじゃなくて、さようなら)です。
ただし、この理由付けは製作意図として、わざと排除・後景化してある可能性があります。演出家の方の言葉の節々からは、実存主義思想との親和性や仏教哲学への傾倒が伺えるので、「全ては移ろい行く。愛も、そして憎しみさえも」や「(エントロピーの法則宜しく)熱はいつか冷めるもの」というある種の無常観から、喪失・不遇を所与の状況として不条理として描き出す意図もあったのかも知れません。シーシュポスの責苦の理由が明示されないように。
恋人達の想い出と聞くと甘美です。しかし、砂糖はそのままでは甘すぎて食べられません。ですが、ほろ苦いカカオを加える事で子供達に愛されるチョコレートというお菓子になり、さらにカカオの含有量を増せば大人にも通用するビターチョコレートという極上の嗜好品になります。本作は、ほろ苦い無常観が加わり、そのような物語であるように感じました。
最後に、富山のはるか『長いお別れ』特設ページの扉絵について言及させて頂きます。
一言で言えば、“風”を感じます。被写体女性の横に流した前髪が、まるでフローティングアンテナのような感度の高いセンサー(触覚)に見え、うつむき加減の謙虚な姿勢と相まって、時代の息吹きを風として積極的に感取して歩まんとする優れた芸術家のような気概を感じさせられます。そして、構図として派手な色の背景物を排除し、全体に黒くマスキングを掛けて色彩を落とす事により、見る者の視点が定点に囚われる事なく全体を鳥瞰でき、風を感じるようにできているとも思いました。
また、撮影場所に隅田川を選定している事(東京圏在住の人間には分かる)により、江戸下町という心象風景を見る者に生じさせ、それが「風」というキーワードと混淆する事により、あたかも主人公女性がピンク色を朱鷺(とき)色、アスパラガスを雉(キジ)隠しなどの日本古来の和名で呼ぶような風雅な女性で、そこから健気で殊勝な女性という属性(心象)を付与する事にも成功している。(少なくとも私は、そのように想像を逞しくする事ができた) これらの観点から、この扉絵は秀逸な一枚だと感じました。
本作は全体(宣伝物含む)を通して、想定よりもハイレベルな良作であった事やハイセンスな若き芸術家たちへの期待も込めて評価させていただきました。以上です。