林檎の軌道
とくお組
駅前劇場(東京都)
2021/03/12 (金) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
しばらく、公演を休んでいたという小劇場劇団「とくお組」の6年ぶりの新作だが、この間にこの作品の舞台となっている宇宙と我々との距離はずいぶん変わったのではないか。
このコメディの舞台は火星で、ほぼ半世紀ほど未来。人間の居住可能性を確かめるために派遣された第一次隊が行方不明になって、その捜査のために送られた第二次隊の捜査が主筋になっている。
約一時間40分の舞台は細かいネタをうまく拾って話をつなげていって笑いながら見てしまうが、作も演出も俳優も、そこまで、と言う感じがする。こういう失礼なことを言うのは最近は宇宙も随分リアルに身近になっていて(本当は相次ぐロケット失敗のようにそれほど容易なことではないのだが)こういう作りだと、どうしてもファンタジーと思わざるを得ない。そうすると、結構多い日常的なギャグや、人物設定がリアルにもファンタジーにもなり切れず、宙に浮いてしまう。そこがSFコメディとしても残念だった。
6年前までのこの劇団を見ていないので、今後の方向もつかめないが、グループのアンサンブルはいい。続く活動を見てみたいと思う。約40の席は満席。
「シャケと軍手」〜秋田児童連続殺害事件〜
椿組
ザ・スズナリ(東京都)
2021/03/17 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
犯罪は時代を反映する。80年代に転位21を主宰した山崎哲は、世間の注目を集めた猟奇犯罪事件を素材に犯罪に埋め込められた時代の声を次々とドラマにした。久しぶりの椿組での登場である。
この舞台の素材は十五年前の秋田の地方都市で実際にあった児童連続殺害事件である。
舞台では、家族内の無関心、家庭の貧困、地域社会のいじめやネグレクト、など具体的に事件の詳細が明らかにされていくが、さらに、犯罪の中に潜む日本社会に通底する病癖を抉り出そうと試みる。その手法がいわゆる社会科学的事実のドキュメンタリーではなく、演劇的、文学的(詩的と言ってもいいか)表現であるのが、山崎哲の犯罪シリーズのユニークなところである。
例えば、被害者の少女(長峰安奈)が周囲から与えられるわずかな玩具は、母(井上カオリ)がたまたま金を持っていた時に与えられた二百円のテレビキャラクターと、年上の男の子からもらった魚の飾り物なのだが、秋田の象徴である白神から流れ出る川に捨てられた少女は自身が体の中に飼っていると信じている魚となって旅立っていく。そこに彼女の知る唯一の絵本「海のトリトン」が絡んでくる。
客観的な裁判や捜査を枠取りに進む犯罪物語の中に挟まれるこういう現実と少女の間の大きな乖離を示す乾いた短いエピソードが、事件の深層へ繋がっていく。
事件を囲む現実は、すべて男、女と番号でしめされる二十名近い俳優で演じられる。
演出は西沢栄治、多分椿組では初めてであろう。初日を見たが、多くの多様な俳優たちを巧みにさばくだけでなく、暗黒の中から突然フットライトと音響ともに事件の核心人物を登場させるかつての転位21の手法を踏襲する余裕もある。
新旧の作家と演出の顔合わせが成功して、80年代小劇場の空気を今に生かすことになった。休憩なしの二時間。飽きずに見たが、遂にタイトルの「軍手」の意味が分からなかった。
日本人のへそ
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
井上ひさしの戯作者ぶりがよく出ている処女作を、きれいにまとめた。栗山民也としても会心の舞台で、お見事!と言うしかない出来だ。この作者の後半生の作品は次第に「庶民の倫理正義感」が強く前面に出て、それはそれでいいのだが、この処女作が書かれたときのような世間の全てを笑い飛ばす活力はなくなっていた。
作品が時代を経ていく過程では仕方がないともいえるだろうが、このきれいにまとまった舞台からはこの作品が書かれた時代(1969年)の猥雑さは影を潜めている。逆に、この作品が素材にしている差別や性表現や障碍、ジェンダーの話題は現代では「自粛」の対象となるものが多く、それを思うと、何かこの無意味な自粛劇場でこの芝居を観るのも、歴史の皮肉のような思いだった。69年、エコーの芝居が面白いという風の噂で、見てみようと何度も試みたがとうとう見ることはできなかった。その時に「二階の照明席のわきに一人入れるんですが、いつ落ちるかわからないので、お客様を入れるわけにはいかないんです」という劇団の答えはいまも覚えている。その舞台は、素朴、未熟ながら時代に密着していたに違いない。それは芝居というものの宿命のような気がして、粛然とした。
ほんとうのハウンド警部
シス・カンパニー
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/03/05 (金) ~ 2021/03/31 (水)公演終了
満足度★★
上演時間はわずか75分。しかも、中身が理解不能。いくらジャニーズファン向けとはいえ、コクーンの一月公演で、これはいかがか。まだ空いたばかりだから、前売り客でコロナ客席は埋まっている。
この戯曲は演劇を問うメタシアターのドラマとして、演劇好きには知られている五十年ほど前に書かれた戯曲で、翻訳も本になって出ている。しかし、それは米英の演劇都市の演劇事情をもとに書かれた一種のバレ本で、ミステリ劇がお国の看板観光資源になっている国や、初演の翌日に大新聞に演劇批評がでかでかと出る(日本の新聞のように終演間際になって決まった枠で申し訳のような批評が出るのとはわけが違う)国情があって成立する。9割八分がジャニーズ客だった「オスロ」と違って、コクーンとなるとジャニーズ客は8割くらいにとどまり、幅広い年齢の男女の顔もちらほら見えるが、この芝居、大方の客にはどこが面白いか解らなかったに違いない。幸い本を読んでいたから、俗悪ミステリ劇や、批評家へのほとんど嫌がらせのような悪態や、舞台で繰り広げられる演劇の構造への批評も意図は読みとれたが、多分、英米では爆笑・大受けのところがクスとも笑えない、笑わない。それは演劇のバックグラウンドが違うからである。幕内は散々読み合わせをして万端尽くしたとパンフレットで言っているが、それは幕内だけのことで、演劇には観客がいる。仲間内でいいことにしましょう、と言うのはまるで今の政治だ。
コロナ騒ぎの中で、さっそく、身近でやりやすそうなこの本を見つけてきたのはさすがシスカンパニーだが、今回は読み違えた。この本は時々小劇場で上演していて、日本初演は、パルコの確かパート3で見た記憶がある。そこらあたりで好き者が集まって喜ぶ才人の若書きの本だろう。海外で、「日本人のへそ」をやろうという興業者がいないのと同じである。
岸辺の亀とクラゲ-jellyfish-
ウォーキング・スタッフ
シアター711(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
満足度★★★★
いかにも今どきありそうな話だが、面白く見ていてもどこか物足りない現代世相劇である。
物語の主人公は多摩川河口の下町あたりの中学校の女教師(南沢奈央)、ア・ラ・サーティで結婚前提でお泊りを重ねている男性(岡田地平)もいる。その一DKのアパートが舞台である。
物足りなさをひとつ上げて見ると、この物語、77年のテレビドラマ「岸辺のアルバム」を意識して作っている。前の年に起きた多摩川岸辺の洪水で、あこがれのマイホームを流された家族の物語である。この戯曲は2011年の初演。今回は手を入れての再演だが、五十年も前の世相劇を背景に持っていることが足かせになっている。
岸辺のアルバムの時代はテレビドラマが最も社会的な影響力もあった時代で、この作者の山田太一をはじめ、向田邦子、橋田寿賀子、倉本聰などのテレビ世相シリーズは家族の生活モラルも支配していた。そのモラルが崩れてしまって、変わりうる新しいモラルも見いだせていない現代では、モラル談義は一言で言うとウザイ、上から目線がうっとおしい。
現代は、この女教師のように一人生きる社会で、そこでは家族やパートナーですら縛られたくない。この主人公は、ちょっと面白い人物像なのだが、その物語を囲む人間たちが古い。考えて見れば、このカンパニーの主宰、演出の和田憲明も60歳を過ぎている。この演出家はかつて新宿にあったトップスで新鮮な小劇場社会劇を作っていて経験も豊富、演出は手堅い。今回もそこは遺憾なく発揮されているのだが、若い世代を扱うと、上から目線が見えてしまう。
人物では、一階上に住む年の離れた男女。主人公への絡みは面白いのだが次第にありきたりになっていく。大学時代のサークルの友達、ユニークな万引き女として登場する(この登場の部分はよく出来ていてリアリティがある)がこの折角の人物も今風に生かし切れていない。
2時間、飽きないで十分面白いのだが、どこか通俗に流れている、そこが丁寧な仕事の割には残念なところである。このカンパニーの再演戯曲の選択はなかなかのもので次回を大いに期待したい。
義経千本桜―渡海屋・大物浦―【伊丹・北九州公演中止】
木ノ下歌舞伎
シアタートラム(東京都)
2021/02/26 (金) ~ 2021/03/08 (月)公演終了
満足度★★★★
義経千本櫻は、歌舞伎の代表作と言われているが、「仮名手本忠臣蔵」や「四谷怪談」のように、全編を通してこういう芝居、と言えない複雑な物語である。乱暴に言えば、源氏平家の争いを「義経」という人物のエピソードに沿って見ていく、と言うあらすじで、この二段目の「渡海屋―大物浦」と四段目の「河連館」とは内容のつながりもほとんどない。そこが歌舞伎の面白いところでもあるのだが、この木ノ下歌舞伎では、最初にこの粗筋を二十分くらいで一気に見せてしまう。なにか見たような気がした(それは各段を切れ切れに見たことがあるからでもあるが)一昨年だか、花組芝居が全段を一気に見せてくれた公演があったからだ。正直に言うと、全段見たから演劇として満足か、と問われれば、そうでもないのだが、終始一貫の近代劇を見慣れた若者がそこで躓くといけないという配慮らしい。
現代語と現代音楽をバックにしたスタイリッシュなこの冒頭の「時代背景とこの後のあらすじ」部分がよく出来ていて、当時の天皇権力をめぐる争いがよくわかる。音楽と、装置の面白さにつられてここを見てしまうと、そのあとは、古典に従った場面でもついていきやすい。古典の名セリフや見せ場は全部入っている。
「渡海屋―大物浦」は、天皇家に振り回された平家、源氏の二大勢力の激突を、瀬戸内海の港町の船宿を舞台に、見せる、と言う趣向で、両者の策略を歌舞伎お得意の「実ハ」を使って二転三転、見せ場を作っていくので、細かい筋はとても書ききれない。しかし、見ていればそのいきさつが分かるのだから、確かのこのアダプテーションはよく出来ている。
ことに今回は人の世の争いがテーマになっていて、安徳帝入水の説得「争いのない海の底には平和な世界がある」を柱に使っている。
「碇知盛」のような歌舞伎の見せ場も多く取り入れている。知盛はあらすじと本編と二度もバック転をやらなければならないのだからさぞ大変だろう。ほかもほとんどうまくいっているが、魚づくしのセリフで笑いをとるところはうまくいかなかった。語呂合わせが突然出てくると、芸人時代の若者もついてこれないか。ここは歌舞伎役者に敵わないのは仕方がない。
16年の上演の演出多田淳之介の続投。押せ押せの演出で力強い。いつもは凝った小道具が面白い木ノ下歌舞伎だが、今回はほぼ正方形の板の角を上下に八百屋に組んだ舞台がよかった。板には七か所長方形の窓がありそこからの照明を効果的に使っている。音楽は標記がないから既成曲のアレンジだろうが、うまくはまっている。「戦場のメリークリスマス」をおもわせるメロディは少し耳につく。休憩なしの2時間15分。トラムを半分の客でやるのだから劇団は苦しいだろう。ご苦労さま、と言うしかないが次の作品も楽しみにしている。早い機会に昨年上演予定だった「三人吉三」を見せてほしい。
アユタヤ
MONO
あうるすぽっと(東京都)
2021/03/02 (火) ~ 2021/03/07 (日)公演終了
満足度★★★★
久しぶりのMONO新作。舞台は十七世紀のタイ。アユタヤの日本人町である。当時山田長政などのリーダーのもと、南方へ進出していた日本人が、次第に追われる立場になっていたころ、アユタヤの商人兄弟を中心に、流れてきた武士、商人、労働者、現地妻などの人間模様である。この京都の劇団はかつて、ゲイの若者たちが共同生活するアパートの日常を描いた作品で、鮮烈な印象を残した。それからもう30年もたつという。確か男性だけの劇団であったがそのメンバーが今も残っていて、今回の舞台にも出ている。みな、結構おっさんになっていて、時日は残酷だなとも思う。しかし、このちょっと小味な劇団が、関西と東京で劇団のカラーのある上演を続けてきたのは、同じ京都のヨーロッパ企画と並んで、演劇界に快いアクセントをつけてくれたと思う。
今回の作品は、作者も書いているが、落ち着かない世相に足をとられてしまった。この作者で、この素材なら、もっと面白い設定や展開があるだろうが、極めておとなしい。細かさと言うならほんの一月前に秋元松代の「マニラ瑞穂記」を見ているので、どうしても比べてしまう。もちろん秋元とは別の線を狙っているのだが、うまく成功していない。もう東京での活動が多くなってしまった作者、俳優を擁する要するMONOだが、自分たちの年齢(初老の曲がり角)に見合った小劇場作品を考えてみたらどうだろうか
帰還不能点【3/13・14@AI・HALL】
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/02/19 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★
太平洋戦争にあれだけ不利が明白だったのになぜ日本が参戦したか。戦後さまざまなところでその理由は論じられてきたが、これは当時の若手エリートを官、軍、民間から集め、内閣のブレーンとなるべく設立された総力戦研究所の記録を素材に、国が開戦の決意をする帰還不能地点を探る歴史探索のドラマである。
のっぴきならなくなる帰還不能点が、仏領ベトナム南部の油田占拠のための進駐の時点(アメリカの強硬姿勢の引き金となった)と言うのは、おおむね現代史では認められているところで、この作品はその不能点を確定するよりも、既に明らかになっている多くの資料の上に立って、科学的に検討すれば、だれもが日米戦回避となる結論が、なぜ内閣をはじめ、国民の総意にならなかったか、を描いていく。
この作品を特徴づけるのは、それを明らかにするユニークな手法である。
戦後五年、総力戦研究所のメンバーはそれぞれの持ち場で市民に戻っている。その仲間の一人、日銀から出向していた一人が亡くなって、その人が戦後にむかえた後妻が経営している居酒屋で開かれるしのぶ会に当時の会員が集まってくるところからドラマは始まる。すでに数人の故人もいるが、生き残った彼らは、自分たちの研究が戦争を止められなかった理由に改めて向き合うことになる。集まった九人のメンバーはかつての開戦前の自分たちの意見がどのように当時の施政者、政府や軍によって退けられていったかを演じてみるのだ。ここも普通は一人一役になるところだが、夫々がいろいろな役を演じる。つまり、東条も松岡も近衛もいろいろな研究員がやる。その趣向は、意外に利いていて、誰もが行き当たりばったり時世に流された判断しかできなかったという事を如実に表すことになった。反面、研究員ひとりひとりは、それぞれの専門分野で事実と科学に基づいて開戦反対を唱えるのだが、その背景となる個人の信条はえがかれていない。
それが描かれるのはドラマの枠になっている戦後のシーンだが、ここは、亡くなった研究員の後妻(黒沢あすか)のドラマが、圧倒的でほかの研究員のエピソードはかすんでしまう。
戦争を止められなかったことを深く恥じた故人は、戦後闇市の仕切りや担っていたのだが、たまたま、戦後の混乱の中で自殺しようとして見も知らぬ女を助け、生活のためになるならと後妻にまでしていたのだ。おおきな社会の悲劇を救えなかったからといって、ひとりの悲劇を見過ごしていいという事にはならない、と言うのが彼の戦後の信条である。ドラマの全体の軸として舞台となる居酒屋の女将でもある女性の運命が、前半の国の運命の裏打ちとなって効果を上げている。惜しむらくは黒沢あすかはガラはいいのだが演技がストレートで、戦後を生き抜いてきた女には見えないところだが、それはないものねだりだろう。
全体は、メタシアター作りの歴史ドラマと言ってしまえば、その通りなのだが、責任を押し付けあう倫理感の乏しさが当たり前になっている今の世の中では上演する意味は大いにあった。それは、単に芝居のスタイルとしてメタシアターであるなし、などという事を超えて、
歴史を俳優という肉体を使って立ち上げてみるという演劇の効用だろう。
少年のころ見た東条の演説が(まったく形は違うが)いまの総理大臣の論理構成と全く同じであることにも気づかされた。これもまた演劇の効用で、権威的な政府が演劇を弾圧したがる意味もよくわかった。
マニラ瑞穂記
新国立劇場演劇研修所
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/02/19 (金) ~ 2021/02/24 (水)公演終了
満足度★★★★
戯曲には運・不運があるとつくづく思う。あまり上演されない、いい作品を見た。
秋元松代の「マニラ瑞穂記」は、64年の「ぶどうのの会」の初演。「村岡伊平次伝」の続編のような作品だが、ほとんど再演されていない。前の芸術監督の栗山民也演出でここで再演(2014)されたときも珍しいものをやると思った記憶があるが、結局見なかった。今回はこの劇場の研修生の卒業公演で、研修所長を務めた宮田慶子の演出である。
感想をいくつか。
改めて、秋元松代の戯曲のち密さにおそれいった。この作者の場合は、演出を兼ねる事がなかったために戯曲に全力投入されている、内容はもちろんだが、場割の構成から、登場人物のキャラ、セリフ、俳優の出ハケ、まで考え抜かれている。
日本帝国主義の拡大期を舞台にしているが、南方を舞台にした作品は珍しい。時は20世紀にはいる直前、アメリカの統治時代になろうとするころのマニラ日本領事館が舞台である。スペインからアメリカへ、その争いの中で独立運動や割って入ろうとする日本の思惑など、歴史的にもなじみのない背景が、あまり説明セリフがないのによくわかる。登場人物は日本領事館の領事や駐在武官と、内乱を畏れて逃げ込んできた南方進出の女衒と女たち。上部構造と下部構造。約二十人の登場人物が巧みにかき分けられて、研修のテキストにはもってこいの本である。だが、それだけではない、今見ると、南洋に売られた日本の女性たちが、男どもの小賢しい政治を乗り越えていく逞しさが心に残る。さすが、日本の女性劇作家の先陣を率いた作家である。向こう気の強い作家だったから、当時、ぶどうの会のみならず、日本演劇界の精神的支柱であった劇作家木下順二への対抗心が内心あったかもしれない(ただの個人的推測だが)。劇がしなやかで強い。
演出の宮田慶子にとっては自分の生徒たちの門出の公演なのだが、昔の宮田演出らしい、優しいタッチだ。生徒たちもそれぞれ持ち味を引き出されてのびのびとやっている。この研修所は全国から俊英集う演劇の東大みたいなところ、と聞いているが、なるほど、皆うまい。普通、こういう卒業公演だと、幾人かの力不足があからさまに出てしまうのは、やむを得ない、となるのだが、一人もいない。これも恐れ入ったところで、もう、どこでも使えそうだ。俳優は経験が大事で、研修所は囲い込む必要もないのだから、これから、積極的にいろいろな舞台で見てきたいものだ。
舞台は、卒業公演と言えないような本格的な舞台作りで、装置、音響、それぞれお金もかかっていて、観客もこの料金では贅沢に芝居を見物できた。
Oslo(オスロ)【宮城公演中止】
フジテレビジョン/産経新聞社/サンライズプロモーション東京
新国立劇場 中劇場(東京都)
2021/02/06 (土) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
満足度★★★★
2016年にオフブロードウエイで初演された20年ほど前のイスラエルとPLOの電撃的なオスロ平和合意の舞台裏のドラマである。なぜ、ヨーロッパの中でも影の薄いノルウエイの外交官夫婦の手で、米ロが散々てこずった中東平和が一時的でも実現したか。
イスラエル問題は、日本では、実際にその地を踏んだ人も少なく、ヨーロッパと中東の間に位置する文化的複雑さもあって核心がなかなかつかめない。長年の課題解決を、舞台では、夫婦の粘り強い交渉術(多分事実なのであろう)を実在人物を織り交ぜながら見せていく。
いはば、歴史ドキュメンタリー実話ものだが、英米で、たちまちオフから大劇場公演に移ってトニー賞はじめ多くの賞を受賞したのは、距離的にも、文化的にも事件への身近さが大いに影響したのだと思う。この公演はジャニーズの主演興行でいつもなら、グローブ座だろう。今回は新国立の中劇場で1階だけでも千人を超える客席の大劇場である。2階は締めているが、客席を埋めたのはほとんどが三十歳以下の、久しぶりの芝居見物と気合がはいるファンクラブの女性観劇客で、男性客は合わせて二十人もいなかった。オスロ合意のころは生まれたばかりだった観客でこの内容、大丈夫か、と思ったが、結構ダレない。
内容は政治劇で、パレスチナ問題の難しさにももちろん触れるのだが、ドラマの軸を、無理難題の中での目的達成のためにめげないで七転八倒するノルウエイの若い外交官夫婦に絞ったので、中東問題を見過ごしても夫婦の成功劇としても楽しめる。この芝居のつくりでは主役は妻役(安蘭けい)の方のようにも見えるがこの舞台は夫(坂本昌行)が主役である。
演出(上村総)はすっかり大舞台にも慣れていて、多くの場面を照明を変え、プロジェクションマッピングも多用して現実感も見せながらテンポよく運んでいく。俳優の動かし方など見事である。しかし、事件の大きさからすると、やはり、全体が上滑りしているような感じがぬぐえない。俳優は短い時間でなじみのない実人物の性格を見せなければならない。一番大変だったのは、坂本昌行で、対立する勢力を人間的な魅力でまとめ上げて「リスクをとって世界を変えていく」役柄だがその核心がない。妻の安蘭けいの方が、腹をくくったような性格をよく表現していて好演だが、それは脚本のせいかもしれない。
1時間40分の一幕と20分の休憩をはさんで二幕1時間。コロナで自粛と言っても、配役表くらいは置いてほしい。那須佐代子が出ているのに気が付かなかった。
草の家
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/02/05 (金) ~ 2021/02/18 (木)公演終了
満足度★★★★
トラッシュマスターズに続いて、戦後、産業構造が変わる中で、農業社会から過疎化へと大きく変貌した地方の家族の姿を描いた舞台である。こちらは四国の地方の戯曲賞の受賞作品。選考委員だった坂手洋二が自らの劇団で、演出もして、異色の舞台になった。
かつては農村社会で欠かせなかった計量器を小売りする店の一家が舞台だが、今はほとんど客もなく一家はそれぞれ村外に働きに出るか、村の中でも別の仕事についている。現代の農村を描くのに、この意外な「計量器を売る家」の設定が成功した。昭和の時代までの農村社会は何事も律義に計量することで生活を立ててきた。この家がそのたくまざる暗喩になっている。
一人残った老年の母(鴨川てんし)の面倒を見ていた早世した長男の嫁(舞台には出てこない)が血液がんで入院したところから幕が開く。東京から駆け付けた次男夫婦、独り暮らしを気ままに送ってきた大学教員の三男、家に残ったが家業を継ぐ気はない四男が、一人残されることになった母の生活問題をきっかけに、一族の運命の中でそれぞれの自分の人生と折り合いをつけざるを得ない事態に向き合うことになる。
日本の農村の過疎問題必ずしも新しい問題ではないのだが、この新人作家の筆は、一人ひとりの息遣いを丁寧に拾っていて、好感が持てる。病いに倒れた長男の嫁が、地元の短歌の同人になっているとか、時節になると庭に蛍が現れるとか、大学の教員をしていた放浪の三男がいつの間にか仕事を辞めていたとか、昔も今も訪問販売の富山の置き薬屋はやってくるとか、舞台の外の細かいエピソードが誠実に生かされている。
坂手洋二の演出も、今までの社会劇とはかなり違うタッチで、この新人女流作家の世界に寄り添っていく。それは昔で言えば、中野実や真船豊の新派劇とあまり距離がないスジガキなのだが(もちろん芝居運びのテンポは全然違う)、それが意外に今の時代に至る農村の道程を新鮮に映し出している。前に見た「天神さまのほそみち」(別役実・作)とおなじような燐光群の新境地である。声高に、スローガンを叫ばれなくても、観客に共感が広がる。
俳優では何と言っても、ジェンダーを超えて老婆を演じた鴨川てんしだろう。今回の配役はカンパニーの中だけのメンバーだが、この劇団の長い歴史が演技に反映している。
1時間40分。ちょうどいい長さだ。
堕ち潮
TRASHMASTERS
座・高円寺1(東京都)
2021/02/04 (木) ~ 2021/02/14 (日)公演終了
満足度★★★★
昭和の末期、バブルもさほど届かない西日本の海辺の田舎町。土地の素封家の女主人(みやなおこ)は、南京大虐殺で活躍した亡夫を誇りに五人の子どもたち夫婦を保守の論理で支配している。その弟(渡辺哲)は土地の土建会社を経営して、その利権のために市会議員出馬を狙っている。一家のためにと哀願されて一家(登場人物一家15人)を集めた女主人は金銭的な助力を約束する。それが一家のため、という論理だが、一家の生活の実情には今までの保守の論理にはみ出すことが続出している。近隣にいる在日二世の選挙権、土建会社の談合、家族の職業選択、子供の教育方針、などなど、時代の動きをここでは、女主人は抑え込んでしまう。そして選挙で弟は当選。一家はその利権で潤って第一幕は終わる。第二幕は10年後、とそのさらに10年後。この間に昭和の「保守」のほころびは顕在化して、家族の中の軋みは大きくなり、市会議員の弟は死に、女主人は記憶も怪しく病床に伏している。
潮には満ち潮と引き潮があるように、引き潮にさらされ堕ちていった地方の一族モノである。
昭和のころまでは、高度成長で都会に出てきた一家が故郷へ帰る機会も多かった。多くは一族の冠婚葬祭。一族の数もおおかったし、叔父叔母も、従弟とも親しく付き合った時代だ。だれにでも経験のある家族設定で、これほどの大家族でない自分にも一つ一つの設定や人物にも「あるある」の実感がある。だが、ストーリーとして見ると、確かに「あるある」なのだが、どれもよくある話で、ラストに現代人が、昭和、もしくはそれ以前からの悪しき日本の保守体質を克服するのは心の問題だ、と説かれても、あまり心では納得していない。現代はさすがにこの段階は終えていると思うからである。(そうでもないのかな?)
舞台は、一幕から一族が意見対立の大声でやりあうシーンが長く、舞台慣れしていない俳優さんも少なくなく、見ている方もつかれる。わかりやすく安心して見ていられるのは型通りながら渡辺哲、清水直子、と言った他の劇団のベテランで役がよくわかる。女主人役のみやなおこはちょっと荷が重すぎた。15分の休憩をはさんで3時間半は長いが一族のクロニクルをやるとすればこれくらいの時間は仕方がない。しかし、もっとストーリーにも登場人物にもアクセントのつけ方はあるだろうと感じた。
横に長い座高円寺野間口一ぱいに広がった舞台は狭い劇場でシネスコを見ているような感じでこれが、意外に若い役者には舞台に立ちきれない原因になったのかもしれない。見えない仏壇を中央に配した設計はなかなか洒落ていたが。
ローズのジレンマ
東宝
シアタークリエ(東京都)
2021/02/06 (土) ~ 2021/02/25 (木)公演終了
満足度★★★★
ニールサイモンの晩年の喜劇、十数年ぶりの再演とのことだが初演は見ていない。演出者は変わったのかもしれないが、いかにも晩年の小品である。
夫がなくなって失意の中で経済的にピンチに陥った大物作家ローズ(大地真央)が、締め切りに追われている。作品のヒントにと夫(別所哲也)の遺作を手に取るが、自分ではとても手が付けられず、娘の秘書(神田沙也加)や、たまたま手に取ったミステリのワンブックライター(村井良太)が近所にいるというので助手に呼ぶ。四人だけの登場人物で、作品を仕上げるまで。舞台の仕掛けとしては、忘れられない亡夫が終始ローザには見え(現実に舞台に出てくる)、ほかの人には見えないという約束事で、そこでの登場人物たちのすれ違いが笑いを作っていくが、ここはそれほど新味もなく、夫婦の愛情物語も型通りのベタで、折角の母娘関係の葛藤にもニールサイモンらしい切れ味がない。
出演者はミュージカルもこなせるメンバーなので、最後に短いミュージカル風なシーンもあるが、まずは収まりのいい幕切れにはなっている。しかし、いかにものブロードウエイ喜劇で、太地も神田もいつもは、キャラクターを膨らませるのにおとなしい。男優陣も伸びやかさに欠ける。観客席もまだ始まったばかりなのに三分の二くらいしか入っていないので喜劇らしく盛り上がらないのが残念。
こういう芝居は日本の商業演劇に欠けているところで、この劇場(芸術座)を始めた菊田一夫が目指したのは首都市民が一夕楽しめる東京現代演劇を作ろうという事だった。社会劇の新劇とも、伝統を引いた新派、新国劇とも違う独自ので大衆現代劇で、芸術座は三益愛子の「がめつい奴」や森光子の「放浪記」で現代商業演劇の新境地を確立したわけだが、この手の喜劇はできなかった。いまなら、三谷幸喜だろうが、続く作者が出てこない。ケラとなると、もう、このレベルは超えている。時代に合った喜劇はつくづく難しいものだと思う。
今回よかったのはホリゾントのマッピングで、こういう技術の発展も芝居を変える。
我が友 ドラキュラ
劇団NLT
劇場MOMO(東京都)
2021/02/03 (水) ~ 2021/02/07 (日)公演終了
満足度★★★★
喜劇では既存のキャラクターの使い方が難しい。登場させるのは簡単だし、著名なキャラクターだと下手な説明をしなくて済む。便利だが、知られているキャラに振り回されるという事にもなる。
ドラキュラと言うと、森の奥の古城に生きる不死の生命、処女の生き血を吸う、殺すには心臓を杭打ちしなければならない、などなどのキャラクターが知られている。架空の悪役キャラクターでは、ルパンに並ぶ人気者である。
今回の作品では、不死に飽きて早く死にたいと悩むドラキュラをめぐる話で、そこはあまり新味はないが、二幕では、そのために芝居を組むというところが新しい工夫である。しかし、その新しい部分がこなれていなくて、人物も、話も、笑いも渋滞する。新人賞と言うが、作者は既に上演作品もあって、一幕などは手慣れた感じがするが、そこからうまく広げていくところがスムースに進まない。役者も、川端慎二はドラキュラ役を楽しそうにやっているが、ほかの役には役者がなじんでいない。そこが舞台では浮いてしまう。
喜劇は難しいもので、喜劇が旗印のNLTやテアトルエコーはまず本で苦労している。どちらの劇団も喜劇の新人脚本賞を出しているところからもそれはうかがえる。劇としての喜劇は演出、俳優に負うところも大きくすぐれた作品を創り上げるのは時間もかかる。わが国には、三谷、ケラ、宮藤と言う優れた喜劇作家がいるが後続は心細い。いい作品を待望している
墓場なき死者
オフィスコットーネ
駅前劇場(東京都)
2021/01/31 (日) ~ 2021/02/11 (木)公演終了
満足度★★★★
先月はカミュ。今月はサルトルと昔懐かしい実存主義作家の代表作の上演が続く。
なんで急にブームになったのか、多分、今のコロナ騒ぎが「極限状況」とダブらせやすいからだろうが、それはずいぶん早合点の牽引付会であまり乗れない。
サルトルの「墓場なき死者」はノルマンディ上陸作戦からパリ陥落までの間のフランスで、ナチ協力政府とレジスタンスに引き裂かれた民兵の悲劇を素材にしている。政府側に捕虜となった民兵五人が民兵側の秘密(隊長の所在)を自白するように拷問される。その先は虐殺が待っているが、彼らは「自尊心」のために自白を拒む。
自白しそうな弟を殺してしまう姉、とか、拷問のシーンとか、自殺したり、殺されたりするシーンも多く、芝居と分かっていても理不尽な死は重苦しい。「正義の人びと」のように抽象的な議論にならない反面、肉体的な痛みも観客は味合う。議論は死を賭けた自尊心という事で再三繰り返されるが、ここが当時の戦争の状況を背景にしていて、解りにくい。それはそうだろう、よく事情が分かっている翻訳者は、どこか奇妙なおかしみがあると書いているが日本人にはわからない。日本の事なら「日本の一番長い日」だって、どこか奇妙なおかしみを感じることができるが、フランス事情までは響かない。演出者もそこまでは狙っていないらしく、どんどん話を進めるが、もっと、一つ一つのエピソードを腑に落ちるように描いてくれないと外国人には共感しにくい。(そこはカミュの本のせいも大きいが俳優座の方が分かりやすい)コロナ騒ぎで、上演時間を短くせざるを得なかったのであれば大いに同情するが、全体に舞台の肉体的な痛みを吸収するゆとりがない。
俳優では、隊長の女であり、弟を殺さざるを得なくなる姉を演じた土井ケイトがなかなか良かった。少し席を間引いているが満席だったのは何より。俳優座の圧倒的に老年に比べるとここは半分は30歳代以下の若い人が入っている。15分の通気交換休憩を挟んで2時間半。
正義の人びと
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
戦後社会に生きる若者に大きな課題を突き付けた政治劇(1949)だが、すっかり忘れていた。民藝が上演して(1969年)安保世代には忘れられない影響を及ぼした作品を、俳優座が上演する。劇場(民藝は都市センターだったか?)はかつては青年の熱気であふれていたが今はコロナの一席沖の客席を埋めるのは老年の観客だ。若者は演劇勉強中の青年が売れなかった空席にパラパラといる。革命に自らの命を懸けて挺身しなければ、と若者が社会変革への運動への参加の意味を痛切に求めた時代はわが国では遠くなっている。
この作品は鈴木、つか、佐藤に始まる小劇場運動にも、清水、斎藤以下の劇作家にも、蜷川、渡辺、などの演出家にも大きな影響を与えた。坂手、鐘下はもちろん、現代の古川、長田、中津留らも、戯曲は読んでいるに違いない。現代演劇のメインストリームの一つである。だが、大劇団公演で舞台を観たのはずいぶん久しぶりだ。
サルトルもカミユも芝居はうまい。これはロシアの専制政治の主の大公を爆弾で暗殺すると決めた社会主義政党の暗殺実行グループの暗殺前と、暗殺後の二幕である。暗殺グループのメンバーも色分けがよく出来ていて、その中で、暗殺をめぐってさまざまな立場が論じられる。社会の不正をただすための殺人は正義か、という事がメインになるが、中国全体主義や、イスラム至上主義からトランプのQアノンまで、今も解が得られていない問題を社会正義とその実行をめぐって、議論が沸騰する。対比されているのは人間の愛で、二幕では捕らえられ死刑宣告を受けた爆弾投擲者(斎藤隆介)のまえに殺された大公の妃(若井なおみ)が現れ、自分の大公への愛はどうなるのだと、迫る。投擲者の恋人で運動家でもあるドーラ(荒木真有美)は、絞首刑になる恋人と同化して民衆への愛が達成できるという。議論は原理的ですっきりはしているが、実用的ではない。
今見れば、サスペンス・ロマンのような作りで、よく出来ているので飽きないで見られる。ことに一幕二場あたりまでは流れもよく緊張が持続する。
一日二公演の夜の部を見たので、さすがに二幕も後半になると俳優陣に疲れが見えたが、議論が主になる大量のセリフをこなしたのはさすが俳優座である。この劇団の俳優は立ち姿がいいのも自慢してもいいところで、あまり見たことがない主演女優の荒木真由美ももう四十歳近いベテランだろうが、セリフも動きも実に無駄がなくきれいだ。斎藤隆介も役をよく受け止めている。
五十年ぶりに見た舞台には感無量とでも言うところだが、考えさせられるところは多かった。とても「見てきた感想」では書ききれない。そこはお預けにするが、今の時代、お預けできるだけまだ、社会の状況は切迫していないともいえるし、もうこの段階は過ぎているともいえる。いや、単にこちらが老いたのであろう。
ミュージカル『パレード』【1月15日~17日昼まで公演中止】
ホリプロ
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/01/15 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
百年前のアメリカの南部のアトランタで起きた冤罪事件を素材にしたミュージカル。南北戦争がまだ後を引いていて、黒人差別や白人同士の貧富の差別が社会に根強く残っている。戦没者追悼記念日のパレードはそういう地域に生きる人々をひとつにするお祭りだ。
事件は、北部からきたユダヤ人経営者(石丸幹二)のマッチ工場でそこで働く貧しい白人家庭の少女の死体が発見されとことに始まる。犯行の確証がないまま、市民のいわれない反感から経営者が裁判に掛けられ犯人とされる。経営者の妻(堀内敬子)の奔走や良心的な知事そうとする夫婦の愛の物語は、復讐に熱狂する人々のパレードに呑みこまれていく。
当時の南部を思わせる音楽。大木一本の裸舞台を照明でホリゾントの色を変え、さまざまな場に変化させ、ここに五色の紙ふぶきを降らせる美術が効果的、斜に入れた照明もいい。これで舞台転換に時間がかからず、テンポもリズムも出て音楽が生きた。衣裳も少女の衣装で一本勝負。オケも台詞との絡みが多いのに、見事なものだ。ことに裁判の場面をだれずに変化を持たせながら面白くまとめたところがいい。コーラスの振り付けも無理していない。チームをまとめきった新劇団出身の森新太郎に拍手。
「パレード」がトニー賞を得たのも、二十余年前、今なんで日本で上演?と思うが、差別と偏見を抱いて冤罪を許した人々の姿は、メディアで増幅される不寛容な日本の現実にも重なってくる。
「パレード」で夫を殺された妻は、ラストで、「でも私はこの地で生きていく」と高らかに言う。風と共に去りぬに似たアメリカ魂には冤罪や差別の悲劇を越えて、人間を信じる力がある。演劇ならではの見事なラストであった。
最近のロックミュージカルと違って、セリフに曲を付けられる(笑)正当なミュージカルスタッフの座組みがよく、ここの所、瞠目するミュージカルがなかった中では出色の出来だ。ホリプロも既成の東宝、四季、松竹、梅コマと並んで、新しいミュージカルの舞台を作る実力を備えてきた。企画としては大衆迎合の最近の世相への時宜を得たもの、と言いたいところだが、それは少し買い被りで、今はアメリカでもやっていない旧作をよく掘り出して夫婦愛のミュージカルにして面白く仕上げたことを評価すべきだろう。
2017年のメインキャストスタッフを残した再演。
ザ・空気 ver. 3
ニ兎社
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/01/08 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
当たりシリーズだけあって、見ている間は、展開も面白く楽しめるが、現代世間批判としては新劇版ニュースペーパーみたいで、作者が永井愛なら、もっと演劇的に深く突っ込めるのにと、「時の物置」や「パパのデモクラシー」を懐かしく思い出してしまう。
テレビのニュース番組の裏話で、このレベルのメディア批判劇は既に幾つもある。若い作家も書いている。永井愛ならもっと、ユニークな視角でドラマを作ってほしい。というのはこちらの勝手な願いで、この方が分かりやすい。劇場の観客はテレビしか見ない善男善女だからこれでいい、現に拍手喝采してくれるではないか、といわれると二言はないのだが。
現実社会の実働人間はニュースが必要なら、新聞も週刊誌もSNSも利用する。この舞台で見られるようなテレビ番組だけを頼りにしてはいない。トランプは半分も支持者があるから侮れないという識者もいるが、あれだけテレビで宣伝し、SNSで発信しまくっても半分に届かないのである。別の評者(かず氏)も言っているように、これで自らの主張とするならかなり寂しい。
しかし、この優れたおとなしい劇作家をこのレベルまで駆り立てたのは、新国立劇場での官僚との対立や現政権のでたらめ政策が蓮日繰り広げられ腹に据えかねたからであろう。無学・無神経な政治家・官僚の権力を嵩にきた文化いじりは本人たちが気付いていない一国の文化水準を貶める罪深い所業だ。
スルース~探偵~
ホリプロ
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/01/08 (金) ~ 2021/01/24 (日)公演終了
満足度★★★★
登場人物が二人だけ、というのはミステリにとって、究極の状況設定だろう。どちらかが加害者、もう一人が被害者。それが犯罪の進行に伴って、目まぐるしく攻守所を変えるところが見所である。初老のミステリ作家(吉田剛太郎)の妻を寝取った若い男(柿澤勇人)への復讐計画が物語を進める軸である。
事件はミステリ作家らしい、古典的なトリッキーな犯罪計画で、幕を開ける。作家が若い男を孤立した豪邸に呼び出し、計画にそって復讐を遂げるのが一幕。若い男が反撃に転ずるのが二幕。今までの上演は、計画犯罪の経緯を主にしたサスペンス・ミステリ劇と言う感じだったが、今回は舞台の遊戯性(とでもいおうか)を立て、役者も適役を得て、よく出来た戯曲「スルース」を今に生かす上演になった。かつての公演ではホラー風の効果を出すために置かれていた異様な笑い声を出す人形の小道具も、今回は喜劇的な役割を果たす。上演台本で、歌える柿澤を生かし、派手な衣装や小道具で動きを重視しゲーム性を生かしたテンポのいい演出である。反面、古典的ミステリ批判や、男女の機微などは後退して喜劇性が強い。そこは今風で、吉田剛太郎は自らも主演しながら柿澤との老若対立のドラマにうまくまとめている。柿澤の裸体を見せるところも今回の工夫だろう。ドラマを動かす女二人が全く出てこないのに、最後まで気になるというのも戯曲の洒落た仕掛けだ。
大きく戯曲を変えることなく「スル―ス」現代版としてよく出来ているが、コロナの緊急事態宣言下に見る芝居としては時期が悪かった。三分の二という入りは残念だったが、それは珍しく日曜の夜公演だったせいかもしれない。
光射ス森
演劇集団円
シアターX(東京都)
2020/12/19 (土) ~ 2020/12/27 (日)公演終了
満足度★★★
小劇場が盛んになる前は、しきりに「新劇」が素材にしていた第一次産業の、それも珍しく林業の話である。時代が変われば、産業構造が変わるのは当然の話なのだが、新劇時代以来、第一次産業は被害者側、お上からも社会からも迫害され、それでも自然の美しさや、生活の原点に携わる喜びを見出して生業に励む、と言う手のドラマが量産されてきた。
最近は少なくなったと思っていたが、この作品を見ると、その基本的な取り組みは少しも変わっていない。林業はあまり取り上げられていないが、現代風俗的な登場人物は出てきはするが、俳優たちも、老人組はともかく、若い層は実感もないのだろうが、書き割りの人物のようでこれでは基本的構造を改革しようという次世代への力はない。ただの体制順応である。例えば、林業の実務を10年もやったという女性の役(馬渡亜樹)の衣装や体つきに山歩きの実感が全然ない。せめて腰回りに肉布団を巻くくらいの知恵はあってもよさそうなのに、現代は、山など歩かないというので都会に住む人物と同じスリムな体形で作業着もファッション風。これでは、山を歩いて世紀を超える喜びがあるというのも嘘っぽい。昭和20年代の新劇の農業改革の芝居と同じで、さんざん説明はされるが、リアリティがない。この作者が以前書いた、確か、深川の染物屋の話のような地に着いたところがない、おまけに二家族の話だが、その関係がよくわからない。時代が十年ずらしてあることなど、帰り道にパンフレットを読んで初めて分かった。そしてこう言う話になると、必ず出てくる宮沢賢治。またかの安宅関。
折角珍しい素材だったのに、残念な出来だった。