キネマの天地
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/06/05 (土) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
井上ひさしもあれだけの作品数を書けば、全部が傑作と言うわけにはいかないのは承知だが、何でよりによってこの作品を再演するのかわからない。新国再演なら、作者も力を入れて書いた「紙屋町さくらホテル」や「夢三部作」のような、井上ひさしらしいいい作品があるではないか。今やる意味も分かりやすい。確かに「キネマの天地」は商業劇場で初演されて以来ほとんど再演されていないと思うが、それは、初演の松竹への忖度、というより、この作品の器量が小さかったからだ。個性のある女優を四人並べて、その一人が犯人に違いないと殺人事件を解明していくのがあらすじだが、推理劇にするか、ドタバタ笑劇にするか、バックステージものにするか最後まで腰が決まっていない。セリフの中身には、映画界の女優のさや当てや、舞台となった東劇の芝居への思いもあるが、通り一遍で、深くない。それではならじと、屋上に屋を重ねてどんでん返しのつるべ打ちになるが、なんぼなんでもそれはないだろうというような結末になる。役者も棒立ち芝居が多くて締まりがない。このシーズンの主演公演三作を見たが、なぜ、この公演をするのか意図不明の上演が多くて残念だった。ことに「東京ゴッドファーザーズ」とこの「キネマの天地」。客もよく知っているのか、今日が三作の内では一番よくてようやくすれすれ5分の入り。ジャニーズを動員していないところは健気だが、これは正直な客の評価である。井上作品が出たから言うのではないが、栗山民也が芸術監督の時は意図が明確だった。今はただただ訳が分からない。困ったものだ。
夜への長い旅路
Bunkamura
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/06/07 (月) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
アメリカ演劇の原点、といわれるほどの有名作品でありながら、日本ではあまり上演されることのなかった現代劇古典(1956)がコロナ禍真っ最中に幕を開けた。コクーンが始めた「世界演劇発見シリーズ」で演出はイギリスのフィリップ・ブリーン。どこかで見たつもりになっていたが、初見である。3時間半もかかるのだから見ていれば忘れない。
なるほど、アメリカ演劇が詰まったような作品で、かの国に生きる人々の個人と社会への見果てぬ夢への渇仰が切々と描かれる作者の生い立ちを映した家庭劇だ。現代のアメリカ演劇にまで続くテーマがすべて埋まっている。
過去の栄光にとらわれている父(池田成志)と母(大竹しのぶ)、父は20歳代にそこそこの成功を収めた舞台役者。いまはわずかな不動産を転がして生計を立てている。母はクリスチャンの女学校を出て舞台に惹かれて父と結婚、慣れない巡業暮らしの中で二人の男の子を育てた。薬物依存症。上の子(大倉忠義)は定職に就かずアルコールにおぼれている。作者を映すように文弱な弟(杉野遥亮)は当時不治の病と恐れられていた肺結核の宣告を受ける。一家はアメリカ的な愛に満ちた家庭を持つことを切望しているが、現実はその夢をことごとく打ち砕いていく。
舞台は終始、一家の居間で、二幕、場数はそれぞれ4場か。一幕は1時間20分。二幕は1時間50分。休憩は20分。セリフ劇でしかも70年近く前の本なのに、ダレない。
演出は多分この時世だからリモートだったのだろうが、実に細かい。この興行は時節柄ジャニーズ興行で、それが当たってか、見た回(11日夜)は満席の盛況で女性客ばかり(若い層ばかりでなく年齢幅は広かったから、年長組は大竹のファンクラブか)、男性客は二十人はいなかったと見たが、前にこの劇場で見た「ハウンド警部」のような客引きのいやらしさはない。演出はこの名作を役者人気に頼らないで誠実に舞台化している。後半にはそれぞれの登場人物がお互いのエゴをぶつけ会うシーンが続くが舞台の人間像に引き込まれる。大竹ができるのは当然としても、あまりこういう陰のある役でいいところを見たことがなかった池田もぐずぐずしただらしなさを演じ切る。大倉はかつてグローブで蜘蛛女を見たことがあって、大丈夫かと思ったが、健闘。あまり舞台経験がない杉野はその素直さが生かされていた。
舞台には舞台全体を覆うように大きな白一色の吊り幕がつられていて、それが形を変えて上下することで抽象性が加わり、見たことのない室内劇になった。舞台に置かれた古いピアノ、海が近くてかすかに聞こえる波や海鳥の声、霧笛などの音響効果、少ないが音楽も効果を上げている。
3時間半を飽きないように作られている。芝居好きは男女老若を問わず、喜んでみる舞台になっているが、果たして満場を埋めたファンクラブ客はこの芝居をどう見ただろうか。
ともあれ、この名作を、思いがけずいい座組で見られたことはよかった。「発見」である。
十一夜 あるいは星の輝く夜に
江戸糸あやつり人形 結城座
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2021/06/02 (水) ~ 2021/06/06 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
四百年近い歴史のある人形操りの劇団「結城座」の記念公演。糸操りの人形による職業劇団は見たことがないから、多分唯一の伝統芸の劇団なのだろう。
今回はシェイクスピアの「十二夜」の結城座劇化である。鄭義信の脚本演出で、軸に、藝達者な花組芝居出身の植本純米が客演していて、純粋な人形劇ではないが、こういう融通が利くところもこの劇団の特色らしく、他の普通の劇団に客演して人形の役割を演じているのは見たことがある。
人形劇で一夜芝居にするのはなかなかむつかしく、人形だけでなく浄瑠璃というもう一つの強い味方のいる文楽も苦戦している。しかし「国立」の助けを借りながらでも定期公演が可能な文楽が、かなり前にシェイクスピアの確か「テンペスト」だかをやった時にも、なんでこれを?と言う感想を持った。
「十二夜」はもともと、クリスマスの祝祭劇で、男女、身分の取り違えの面白さに徹したロマンス劇だから、人形を人間と交錯させやすい構造だ。筋がこんがらかるところは植本純米が主人公の従者の阿呆という役柄で面白おかしく芝居に入ったり、説明したりできる。他愛ない話なのだが、蜷川が歌舞伎座でもやったし、旧新劇団はよく上演する。今回は、糸操りで、一メートルに足らぬ人形たちが舞台を作っていく。鄭義信が新たに書いたのは部分は少ないが、その工夫は生きていて、糸操りの人形の動きだけでは避けられない退屈さを救っている。
しかし、この長い歴史のある糸操りの劇団が存続していくのは、厳しい道が待っていることだろう。現に、客席はほぼ満席だが、若い観客はほとんどいない。一方演者には若い女性もいるが、一夜の興行を打ち続けるのは厳しい。伝統演劇の継承存続は歌舞伎のように現状保存で「生きている」ことが望ましいが、文楽や沖縄の演劇をはじめ、時代の波に洗われている演劇も少なくない。あらためてこのよく出来てはいるが新古折衷の結城座の舞台を観て時代の非情も感じた。
外の道
イキウメ
シアタートラム(東京都)
2021/05/28 (金) ~ 2021/06/20 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
イキウメの世界も、このコロナ禍の一年余で変わってきたようだ。
以前は天体の運行とか、宇宙人の襲来とか、SFでも飛び道具のような設定で、現代社会の奥に潜む人々の不確実性を鮮やかに描いて見せてくれた作品が多かったが、今回は、SF的ではあるが、設定はだいぶ変わった。
舞台は相変わらずの北の小さな町。故郷へ帰ってきて、配送屋で生活している四十過ぎの男寺泊(安井順平)が地元の行政書士事務所で働いているかつての同級生の山鳥(池谷のぶえ)に再会して、全国からひそかに客が来るという町はずれの喫茶店で、店主(森下創)の手品を見に行く。それは個体を人間の中に埋め込んでしまうという手品で、実際に政治家がパーティの会場で、その場で割れたビール瓶のかけらを頭に埋め込まれて急死する超現実的な事件があった。
手品を見たころから寺泊の周囲に奇妙な事件が起き始める。妻〈豊田エリー〉が美しくなり始め、どうやら、山鳥の弟と浮気しているようでもある。配送する荷物は行き先が分からず、誤配で返送されてくる。配送物の中身は「無」と書かれている。中にはマックロクロスケ、闇が入っていて、そこから漏れ出した闇は時に舞台を暗黒の世界に誘っていく。
・・とイキウメらしい展開になっていく。しかし、それは、全社会に及んでいく超自然現象ではなくて、個々の人間の、個人の記憶と認識から始まり、見知らぬ子ども(大窪人衛)が家族と主張して入り込んできたりする。
SFファンタジーのような、ホラーのような、イキウメ独特の舞台の感触は変わらないが、仕掛けが壮大な宇宙から個人になった。同級生の間の人間関係や喫茶店のマスターの手品など、いままでになかった人間的な味わいやユーモアがあるし、どこか、幼いころ読んだ、小川未明の童話の街の雰囲気もあって、なかなか面白い。
休演している間にブラッシュアップする時間もあったのだろう、完成度も高い。見終わったあと、あれはどういう事だったのだろうと思い返して、はたと手を打つ楽しみも大きい。
容疑者Xの献身
ナッポス・ユナイテッド
THEATRE1010(東京都)
2021/05/28 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
初演は2009年、キャラメルボックスで、座付きの作者による作・演出だ。劇団は数年前に消滅したが、石神哲哉役の筒井俊作、天才科学者・湯川学教授役の多田直人をはじめ、
渡邊安里(女主人公)主なキャストは残っている。脇役には懐かしいキャラメルボックス風のマンガ演技なども見られる。観客も引き継いでいるらしく、二十歳前半も含め観客は若く、舞台にやさしい。しかし土曜日夜6割と言う入り。6,800円は高いのかもしれない。
原作はミステリの賞も受けている人気作家の代表作だ。専門作家だけあって、ミステリ的な企みが至る所に張り巡らされている。劇化の大きな難関になるのは多視点で展開しなければ成立しない物語構成になっているところだ。それはアリバイ崩しがメインに置かれているミステリの宿命でもあるのだが、成井豊の脚色は語りをうまく使って、入りくんだ原作の要素をすべて取り込んで、どんどん進む。話は賞を受けたくらいで面白くできているから若い観客は吞まれたように見ていて最後には温かい拍手で終わる。
原作を一気読みで見ているような感じである。その分、大学生時代の同級生が、敵味方になって謎を解きあう、とか、女主人公の人間性などは薄味になってしまった。舞台のテンポも演技も一本調子で膨らみがない。キャラメルボックスである。
ひさしぶりに舞台を観て、やはり、ここと、スタジオライフはいま多く演じられている2・5ディメンション演劇への道を開いたと思う。その功罪は一言では言えないが、どこも観客が純朴な十代から20代の若者であったことは考えていいだろう。夢の遊民社も第三舞台も最初はそこから出発した。脱皮していった彼らの後に観客だけが取り残されたような気もする。
フェイクスピア
NODA・MAP
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/05/24 (月) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
もうかれこれ四十年昔、まだ、野田秀樹が東大構内で芝居をやっていたころ、NHKの最近の若者に聞く番組(たしか「若い広場」)で、野田秀樹は昂然と、「僕の目標は日本のシェイクスピアになること」と言っていた。この記憶に残る発言(たぶんNHKのアーカイブにあると思う。)の念願かなって?、野田秀樹がシェイクスピアとその子のフェイクスピアを演じる「フェイクスピア」が幕を開けた。
劇作家の正念場である言葉の力をテーマにしたコロナ禍の新作で、今や、日本の演劇界のリーダーになった野田の、現在の状況を踏まえた作品ではある。
恐山のいたこに謎の箱に閉じ込められた言葉を再生させようとする男(高橋一生)物語を軸に、シェイクスピアの大四大悲劇の言葉をさまざまに引用しながら、言葉の持つ真実と虚偽へと物語は進んでいく。野田戯曲の例によって、幕による素早い舞台転換と、速いテンポで、今求められる言葉のクライマックスへ。森で無音のうちに倒れる大木や鳥の世界のような自然現象が、星の王子様の空の世界を引き出し、そこに絡まる人間の言葉が最後の場につながっていく。いつも以上に強引極まりない連想の世界は2時間休憩なし。
この時期に、切り札だったかもしれない、シェイクスピアの札を切ってきた野田の真意はわからないが、ここのところの世間の無責任な言葉の上滑りに、演劇人としての怒り爆発であったのだろう。
それはわかる。しかし、少し急ぎすぎていないか。
例えば、最後のクライマックスのシーンは確かに観客の息をのませる演出ではあるが、その中の、ノンフィクションの言葉にすべてを託していいものだろうか。
シェイクスピアに対して自分の役をフェイクスピアに託するのは、単なる韜晦趣味ではないだろうか。
コロナ禍で条件も悪かったのだろう。五日目の舞台を観たが、野田の公演としては不十分なところが目立った。
落ち着いたらぜひ再演をしてほしい舞台である。
アルビオン
劇団青年座
俳優座劇場(東京都)
2021/05/21 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
いかにもイギリスのウエストエンド新劇と言う感じの作品だ。2018年の初演。
イギリスの劇作家が、自らの市民生活の中に分け入っていく技術は大したもので、この作品にも若い作家なのに、その伝統が遺憾なく発揮されている。アルビオンと言うタイトルは日本でいえば、「みずほのくに」。自国の伝統庭園に託して、現代人間模様を描いて見せる。伝統を保守することの難しさをその場限りの政治アピールにしないで、自国に根強く残る階級社会、性差別、家族・親子関係、地域社会の「伝統」にも万遍なく目配りして描いていく。ようやく40歳になったばかりの作家とは思えぬ熟練の技で、こういう作家を育てて、劇作家だけでなくテレビや映画でも使って世界的作家にしてしまうところは演劇王国らしい。余談になるが今映画が評判になっている「ファーザー」の脚本もクリストファー・ハンプトンで、若いころは20歳代でデビューした演劇界の麒麟児、日本でも、三十年前、まだ彼が三十代のころ「金環食」やいくつかの作品は上演した。ファーザーの原作はフランスの劇作品だが、映画を見るとタイトルは原作よりアカデミー賞作家ハンプトンの方が大きい。ピンターはノーベル賞だ。作家の成長を社会も後押ししている。
イギリスの作家のうまいところは、ドラマを一筋縄ではくくらいないところだ。それでいて、さまざまな観客を自分の世界に取り込んでしまう。
青年座は十年ほど前から、翻訳劇も手掛けるようになった。劇団員はプロデュース公演にもよく起用されるから劇団外で翻訳劇の経験はあるのだろうだが、そういう場では演技が型通りになりがちだ。主人公の夫、隣家の主人、庭師、召使、など、よくわかるけどもう一工夫できるところだ。
津田真澄も小林さやかも那須凛も過不足なくうまいのだが、舞台には華がほしい。
青年座は、日本の創作劇を目指してきたが小劇場全盛時代になって、椎名麟三、矢代静一の流れの新劇からは作家も出てこなかった。しかし、海外作家に突破口を見つけようとした時に、サルトル、とかベケット、あるいは手っ取り早い社会問題劇ではなくて、いまの大衆が見る演劇を選んだのはなかなかの慧眼だった。日本でも若い作家は小劇場離れで、古川健、横山拓也、桑原裕子、加藤拓也、注目の新人はみな小劇場の限定された観客ではなくて、普通の日常の中で演劇を見ている。青年座もいち早く彼らの作品を取り上げているが、そこで、このような海外作品に触れる経験が一層の成熟をもたらすことを期待したい。
家族のはなしPART1 2021
(株)モボ・モガ
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2021/05/14 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
草彅剛を軸にしたコント集。大阪のCMクリエーターの二人の作・演出で、東京の観客は見慣れていない面白さだ。東京にもナンセンスやコメディはあるが、ケラとも違うし、三谷とは異質だ。今までの演劇の約束ごとを無視しているような、うまく使っているような異色の舞台になった。
「わからない言葉」は生活規律のだらしのない夫(羽場)と几帳面な妻(小西)の中年夫婦に飼われている犬・ハッピーを草薙が演じる。犬や外国人を含めた現代の市民生活で、言葉のコミュニケーションの可能性をめぐるコントである。
約束をすっかり忘れていた夫の中央アジアの友人(畠中)がガールフレンド(小林)とともにやってくる。かつてその国で働いていたのに、夫はすっかりその国の言葉を忘れている。
犬と人間の間に、また人間と人間同士の間に、どちらが言葉が通じるか、音楽なら通じるのか、といった下世話でもあり、広げられる話題でもある素材をもとにナンセンスなドタバタが展開する。
犬にわかる言葉はゴハンとサンポ。中央アジアの国の言葉はもう完全に分からない。友人が連れてきたガールフレンドの衣装は異国風で、言葉も中央アジアの言葉を話すのだが、やがて、実は日本人で通訳だということが分かる。こういう仕掛けが効果を上げている。
これだけよく出来たコントにはなかなかお目にかからない。
それは二話の「笑って忘れて」も同じで、こちらはリモートで働いている夫〈草薙〉と妻(小西)の物語である。記憶喪失症にかかった妻の取り違え劇(であることがなかなかわからないように舞台が進行する)が、結局は夫婦愛の物語になっていく。一話とは違うテイストのコントで、夫々1時間。間に休憩がある。
どちらのコントも、笑劇らしい無理な設定をしているのだが、本がよく出来ていて、素直に楽しめてしまう。俳優も、関西にありがちはオーバーな演技が臭くなる一歩前で寸止めしていて、そのへんの呼吸が揃っているのもうまい。草薙の犬は犬らしいところを形では全く見せていないのに、犬の役になっている。ほかのベテランの配役もハマっていて、特筆するとすれば小林きな子。二話の会社のドジな同僚もうまいものだ。あまり東京では見ないがはじけている。初演は二年目に京都で上演していて、その時の羽場の役は池田成志だった由だが、羽場は池田とは別の面白さを出していると思う。
作・演出の演劇経験はサラリーマン劇団と紹介されているので、ふと気が付いたのは、80年代後半に旗揚げした喇叭屋である。主宰した鈴木聰も確か電通の腕利きの宣伝マンで、旗揚げしたときは確か「サラリーマン新劇」といっていた。作風も内容も違うが、今の生活者にエンタテイメントとしての芝居を、広告という無名の場所から発言してきたことでは通底するものを感じる。その精神が、舞台に生きている。
神奈川なので、土曜の夜の満席の客席の劇場は東京のぎすぎすした自粛劇場とは違う和やかさがあった。さらに言えば、、コロナ禍でジャニーズタレントのファンクラブのリピーターに頼った大劇場の公演を数多く見たが、この公演は唯一そういう勘定ずくをバランスシートの片側に置かないでも見られた愉快な公演でもあった。
「母 MATKA」【5/17公演中止】
オフィスコットーネ
吉祥寺シアター(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/20 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
ほぼ85年前に書かれた不思議な後味を残す作品だ。
SFの創始者として知られるチェコのカレル・チャペックの晩年の作。ナチの影がチェコに迫っている。
五人の男の子がいる軍人一家、父(大谷亮介)は植民地の原住民との戦いで17年前に戦死、今はこの家の居間の額に収まっている。長男は医者で公熱病の研究中に死亡、次兄は右翼の軍人、三男はテストパイロット、四男は自由主義者、最も若い五男は病弱である。一家だんらんのシーンから始まるが、どうやら、登場する彼らはみな死者らしいことが次第にわかってくる、この辺は百年前の本とは思えぬほど技巧的なのだが、男たちはみな、社会の要請によって、病原菌の実験中、試験飛行中、軍務遂行中に、それぞれの務めの要請に殉じているのだ。今生きている母(増子倭文江)が登場する。愛する息子たちが社会の要請のために次々と失われていったことが納得できない。社会の論理と母の論理は別のものだという事だ。今ここでは内戦がおこり、最後の今生きている息子も戦いに出ようとしている。死んだ男たちは五男を戦場に誘い、母は反対する。ラジオ(当時のマスコミ)は戦場へ参加せよと煽り立てる。母はそのすべてに抵抗する。
戦闘が進み一家の広間にその戦況が伝わってくる中で、男たちと、母との激論が繰り広げられる。
さて、面白いのは、その議論は耳新しくもなく、家族か、社会か、とか、男と女の役割とか、戦争の是非はもう何度も繰り返された論争で、しかも、よくある場面設定と人物設定、事件の進捗なのだが、観客の心をつかんでしまうというところだ。
それは大きくは、百年前の現代戦争が始まった頃の社会構造の問題がいまも形を変えながら根づよく残っている事が根底にあるからなのだろうが、テーマと素材から論点を浮き上がらせずに現代人にも見せてしまうことに成功している。たぶん、それはギリシャ演劇以来演劇が持っている特質、いや演劇のみが、と言ってもいいかもしれないが、生者と死者を同時に登場させ、現代の生者が演じるという独特の演劇リアリティのなせる業によっているからだろう。チャペックのSFの不思議な味はそこを原点としている。
演出は文学座の稲葉賀恵。小劇場のうまい若手を起用し、大谷亮介とか鈴木一功と言うくせ球も調教して一つの演劇世界を創り上げている。
それは、近代劇から現代劇に流れるリアリズムではないもう一つのSF作家らしい企みもあっただろうが、それは当時、本人も気が付いていなかったことだろう。ひょっとすると今舞台にいる人たちも気づいていないかもしれない。そこがこの不思議な芝居の成功の大きな要因だと思う。俳優は全員ところを得て、好演。2時間。休憩なし。
東京ゴッドファーザーズ【5月2日~5月11日公演中止】
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/05/02 (日) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★
今この芝居をなぜ30公演も打とうとするのか理解できない。最初の十公演ばかりは突然のコロナ宣言延期で止めたようだが、それにしても、大劇場で30公演は東宝松竹でも逡巡するだろう。中身はアニメの劇化で2・5ディメンションの企画の発想と似ている。クリスマスストーリーのような物語でその時期に家族で見るにはいいかもしれないが、梅雨時に見るのはいかにも時節外れ。アニメでは面白そうな話でも芝居に良いとは言えない。それに物語の進展もアニメなら物語の偶然や飛躍、感情のアップがいいだろうが、芝居では無理やりクライマックスの連続で賑やかなばかりで落ち着かない。俳優はジャニーズの松岡昌宏が女形でつとめ、相手役はマキタスポーツに夏子。キャスティングの狙いも見えず、演劇的には詰まっていかないし、何か新しい趣向があるかと言えば、何もない。
去年の年末企画だったのかとも思うが、アニメの成功作を舞台に移すのは簡単ではない。来年「千と千尋」をミュージカルにするという東宝などはものすごく慎重だ。新国の企画は人気のあるアニメとジャニーズタレントに乗ろうというだけではないか。早い話、この上演には、「斬られの仙太」(これはなかなか良かったが)とこの作品、それにこの後の井上ひさしの推理劇「キネマの天地」の三作を並べて、今年の柱として「人を思う力」というシリーズタイトルがついているが、どこに共通点があると思っているのか聞かせてほしい。全く別の作品ではないか。きっと今の政府に倣って、「しっかり適切に考慮した結果」などと言いそうだが、そういういい加減さは同じ国立でも学ばないでほしいものだ。
客は正直、入りは二割そこそこ(18日夜)、久しぶりに見るガラガラの入りは客の正直な反響である。なんだかどこまでも無駄な税金興業と言った感じだが、新国は誰もその責任を取ることもない不思議な文化庁興行部なのだ。
夜から夜まで
劇団競泳水着
駅前劇場(東京都)
2021/05/12 (水) ~ 2021/05/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
客席半分の冷え込んだ劇場に入ると、電子ピアノでメロディを作ったいい感じの客入れの音楽がかかっている。春らしい日和の午後。久しぶりに30歳前後の大人前期の観客が60人ほど。舞台は5年ぶりの公演と言う初見の劇団競泳水着である
劇の中身は30歳前の世代の世間への出発の風俗劇で、約十人の同年代の男女が性と職業をめぐってこの難しい年代を暮らしていくドラマである
漫画家、ライター、セラピスト、トレーナー、デリヘル嬢などといかにも現代風を身にまとった男女の登場だが話の中身はお泊りと結婚の意外によくある古いお馴染の話だ。物語を貫く大きな話が弱いのでつなぐエピソードで運んでいく。シュニツラー「輪舞」の趣向。一つ一つは、笑いながら楽しんでいられるが、ではどうだ、と言うところがない。
そのどこにでも転がっている身の上相談のようなところがいいという人も多いだろうが三浦大輔風でも平田オリザ的でもない作風でパンチに欠ける。俳優も十人も出ていれば、一人くらいは目につく人がいるものだが、皆収まるところに収まっていて個性に欠ける。演出も、役者も少し羽目を外したら面白かったかもしれない。
2時間。休憩なし。
パンドラの鐘【4月25日~5月4日の東京公演中止】
東京芸術劇場
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/04/14 (水) ~ 2021/05/04 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
野田秀樹の旧作を、今の新しい演出家が手がける。クリエのKERACROSSと同じような試みだ。この二人、方向は全く違うが、間違いなく現代の日本演劇をリードする劇作家である。共通するのは、彼らが登場するまで、日本演劇を蔽っていたリアリズム演劇からは遠い演劇世界を作って成功したことだ(ほんとにすごいと思う)。その野田も、65歳、ケラも間もなく60歳。両者とも多作という事もあって、ひょっとして、自分の戯曲、後世に残るのかな?と気になったのか、いや、そんな下世話な勘繰りでなくとも、疾走してきた足跡を若い世代の舞台で再見したい気分にはなる年齢だ。
初演の時、野田・蜷川の二人の演出競演になった旧作を、コロナで世間がお休みになっているような時期に世代も作風も違う熊林がどうするか見てみようというのは、なかなかいい企画だ。クリエも満席だったがこちらも満席。熊林演出は、どこかでふざけなければ気が済まない野田とは違うクールな舞台作りだった。
野田作品は、東西の古典から現代の流行や政治まで、さまざまな人間事象の引用に次ぐ引用で独特の世界を作っていく。「パンドラの鐘」はタイトルにも、ギリシャ神話のパンドラの箱を開くと、善悪さまざまの人間の業が飛び出してくるという物語に、出てくるものは鐘で、それが長崎型の原爆だ、と言う寓意を重ねている。熊林演出は、この作品の寓意性を生かして、何かときな臭い世界情勢を映す時事性の強い舞台になった。具体的には、事実の背景としては先の戦争と原爆投下我描かれているだけなのに、時代をこえて観客に訴える力が戯曲にあることを証明して見せたのだ。
Kera Crossに続いて、この上演も日本演劇の里程標になった。
カメレオンズ・リップ【5月2日~4日大阪公演中止】
KERA CROSS
シアタークリエ(東京都)
2021/04/14 (水) ~ 2021/04/26 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
幕が開くと、アメリカの田舎の山中の一軒家、謎の死を遂げた妹そっくりの使用人(生駒里奈)と暮らす主人公ルーファス(松下洸平)が、亡き妹は嘘が大好き、真実の中に嘘を交えてこそ、嘘の名人なのだと話しはじめる、生のピアノとレコードを使った嘘とホントのギャグ、観客はたちまち、ケラの世界に引き込まれる。
ジャニーズ客がいなくても、かつてのようにさまざまな世代で埋まり満席(コロナ席なし)になった客席が、筋もよく掴めないナンセンス劇に笑っている。何だか懐かしい舞台を観ているような感じ。思い起こせば、コロナ騒ぎのこの一年、舞台の上も、観客も一体になって芝居に心を開く安らぎのある舞台には出会わなかったような気がする。
ケラリーノ・サンドロヴィッチの初期の作品をいま現役の若い演出者が再演するKera Crossシリーズの第三弾。今回の演出者は河原雅彦である。
今回の上演はケラの舞台の経験のほとんどない俳優たちが演じながら、まるで、ナイロン100℃の公演のドッペルゲンガーのようにケラの乾いたナンセンスの世界が作れたという発見が最大の見どころだろう。初参加で快演した岡本健一がパンフレットで言っているように「登場人物がそれぞれの事情を抱え自分を偽りながら現実に対して必死にあがく哀歓漂うドラマ」(まとめ方、うまい!!)を、この家に集まってくる様々な人々、亡き姉の夫(岡本健一)、元使用人(ファーストサマーウイカ)、近所に住む眼科医師(森準人)、姉の友人(野口かおる)、なくしたハンドバッグを取りに来る女社長(シルビアグラフ)近所の退役軍人(坪倉由幸)、がそれぞれに嘘をつき、騙し合い、演じていき、不条理な世界が笑いに包まれていく。
嘘が事態を混乱させ、破綻してゆくクライムストーリーの筋を追うことはほとんど意味がない。しかし観終わってみれば、ドッペルゲンガーみたいだったこのドラマはやはり、バブル後のケラ本人の作った二十年前のナイロンの世界とは違う。いまの演出家、河原雅彦は不条理なドラマを、俳優にはナイロンの演技を踏襲させているように見えて、どこかすっきり整理している。貼り絵のようなタッチの美術(石原敬)も、井澤一葉の音楽も舞台にマッチしている。
ケラリーノ・サンドロヴィッチと言う日本演劇界に突然現れた特殊な才能がこれからも長く生き続けられる証明にもなった上演だが、何よりも、この一年とげとげしく冷たかった劇場の空気が、ここでは温かく弾んでいたことを高く評価したい。
ゴヤ-GOYA-【4月25日~29日公演中止】
松竹
日生劇場(東京都)
2021/04/08 (木) ~ 2021/04/29 (木)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
スペインの画家・ゴヤの生涯を素材にした国産・新作ミュージカルである。
言葉では説明されていない絵画を言葉で、と、画家は演劇のみならず、小説や、映画の素材によく取り上げられる。共通点は、このミュージカルがテーマ曲にしているように、絵画は「一瞬の時を残す」、演劇は、上演したその時しか生きられない。ともに現在では複製化はできるが、根元は一瞬のものという事か。
日本演劇では、フランスの画家ゴッホを主人公にした「炎の人」が近代古典化している。
画家の生涯と作品から、芸術家の創造の原点を解き明かし、演劇と言うローカルな場で再生させたということになる。「炎の人」のラストには日本人への呼びかけの言葉が延々とある。
ゴッホは日本では人気の高い作家だが、ゴヤは名前こそ知られていても、評伝も堀田善衛の大作「ゴヤ」が売れたくらいで、長く生きた波乱万丈の生涯も、スペインと言う国の特殊性もあって、あまり知られていない。
そこを危惧したためか、この作品はゴヤの生涯をかなり丁寧に追う。上昇志向の強い才気のあるサラゴサの地方青年が、マドリードの宮廷政治に巻き込まれ、聴力を失い,フランスへ逃れ、その間に画風も次々と変わっていく。スペインの自主性のない日和見王制がフランス革命に揺れるくだりなどは知らないこともあって、面白い。ミュージカルだからスペイン風俗のフラメンコや、宮廷のシーン、ゴヤの絵画が活人画になる(王の家族、裸のマハと着衣のマハなど)サービスもあって、一幕90分、休憩20分を挟んんで二幕80分、堂々たる国産ミュージカルである。
コロナ禍の不自由な環境の中で大作をまとめたのはさすが、松竹と思わないでもないが、やはり、折角の大作だから幾つかの注文は出てくる。
G2の脚本は生涯を分かりやすく描いていてなじみのない国の政情はよくわかるがそこに巻き込まれたゴヤと言う芸術家の転向点の心情に迫るところが弱い。「一瞬の時を残す」という一点に絞っても、もっと深く作ることもできただろう。ことに二幕の、プロローグにもあるラストの「異様な風刺」につながるところが弱い。一幕はもっと整理してもいいと思う。ミュージカルらしいシーンにしても、時代や場所のエキゾチックに見える説明シーンが多く、ゴヤの内面を歌や踊りに昇華させたシーンがない。音楽も無難に走って曲は意外に平凡、歌詞としては生硬な言葉を選んでいて乗りにくい。
主演の今井翼はスペインの親善大使でもあるそうで、フラメンコを踊って見せるくだりなどサービスもあり、ジャニーズ時代からのファン向けには久々の復帰公演でよかったかもしれないが、この大作を背負う芸術家のゴヤの生涯には遠い。初歩的なことを言えば、年齢の経過がほとんど表現されていない。そんなものは必要ないと考えるのはジャニーズ時代を引きずっているからで、これから松竹に移籍して舞台で主演を張っていくためには舞台の細やかな配慮が必要である。今回は助演に妻役の清水くるみ、ポルトガル国王になるゴドイ(塩田康平)の期待できそうな新星が目立った。脇も、山路和弘や天宮良のベテランが固め、仙名彩世(モデルの伯爵夫人)キムラ緑子(スペイン王妃)がしっかり笑いをとっている。
折角これだけ仕込んだのだから再演することもあるだろうが、大幅に手を加えてもっと切実な締まったドラマとして見せてほしいものだ。
斬られの仙太【4月25日公演中止】
新国立劇場
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/04/06 (火) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
かつては、よく上演されていたが、忘れられていた大作戯曲の上演である。
初演(1934)は知らないが、戦後の時代背景がやりやすい環境だったからか、たしか商業劇場でも上演されていたし映画にもなったやくざモノなのだが、最近はお目にかからなくなっていた。三好十郎存命中も、著作権保護期間中は、著作権継承遺族が戯曲の改変にうるさかった事情もあったのだろう、戦後の上演もみどりの上演だったように思う。何しろ八時間はかかろうという大作である。
その保護期間も終わって、今回は、四時間半に全編をテキストレジしているがそれでも十分に長い。この上演は新国の「人を思う力」(なんのこっちゃ?最近のこの劇場の柱にはいつもこの種の大入叶の札が貼ってあるが、わけがわからない)というシリーズの第一回の上演である。
戯曲のことは後段に回して、上演は、フルオーディションらしい顔ぶれで、上村演出も原戯曲を生かしながらの舞台になった。
八百屋飾りにしたノーセットの舞台に若干の大小の道具を持ち出して、休憩二回を挟んで、時世に左右された農民上がりの仙太(ばくち打ち・伊達暁)が政治に巻き込まれていく生涯が描かれる。改革派とも、保守派とも、権威主義なのか民衆派なのかも、集団としてはよくわからぬ武士階級を母体にした水戸の天狗党の乱が背景になっていて、ここが、お客には維新期を背景にしていても、新選組のようにけじめがつきにくい。そこを農民出身の仙太の村社会と農業への信念で乗り切る。周囲の人物もよく描かれていて農民仲間の段六(瀬口博行)や利根の甚五左(青山勝)、農村の孤児を預かるお妙(浅野令子)など、普段の舞台でよく見る助演者たちが生き生きと好演である。ほかにもタカラヅカの陽月華とか武士では加多源次郎の小泉将臣など、全部で八十役あるという舞台をボロを出さずに十六人で演じ切ったのは演出も、俳優もお見事だが、少し引いてみると、やはり、農民も武士も「らしく」はない。生活感がない、とよく言うが、ほぼ二百年前のこういう舞台を観ると、それは必要なのか、と逆に思ってしまう。何しろ、舞台は板一枚のノーセットだし、非常に効果的に使われている過不足ない音楽(国広和毅)は西洋のオケである。上村もギリシャ劇やシェイクスピアの体験からその種のリアリティよりもドラマだ、と取り組んだのだろう。
それなら、とないものねだりになってくるが、もっと大胆に戯曲に手を入れてもよかったのではないか。農民と武士層の齟齬や、江戸幕府との関係をふくめ、もっと切ってもよかったと思う(そうすれば歴史的な水戸天狗党の評価に反するというのは歴史学者の言で、二百年もたてば芝居見物の客は、この中身ならせいぜい二時間半で見たい)し、お蔦などはもっと生かすところがある。
演劇は常に時代とともにあるものだからそうなれば、今の観客にもわかりよく楽しめたのではないか。折角の熱演の舞台も残念ながらガラガラ、三分の一がやっとという入りである。
新国の上の中劇場では横内謙介の「モダンボーイズ」をフジテレビの仕込みで上演している。紀伊国屋で劇団上演した時は苦しかった舞台も、ジャニーズ出演で客はぞろぞろ入っている。役者買いも演劇の大事な側面ではあるが、これもコロナ疲れかもしれない。客が楽なものしか見なくなっている。ここからの回復はかなり長くなりそうだ。全興連は、責任も取らない無定見な政府のいう事などべんべんと聞いていては我が身を滅ぼすぞ。
聖なる日
劇団俳小
d-倉庫(東京都)
2021/03/19 (金) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
一昨年、小劇場翻訳劇「殺し屋ジョー」でクリーンヒットを飛ばした俳小の新作翻訳劇公演。開拓時代の原住民と侵略者の対立はいままでも様々なケースで舞台化されてきたが、これは19世紀半ば、入植時代のオーストラリアの先住民アポロジニと白人開拓者の対立である。
白人側にも、その地がイギリスからの犯罪人流刑地であった背景や、自国移民層のアイルランドとスコットランドの対立、老朽化しているキリスト教会の宣憮然活動システムなど複雑な事情がある。
舞台は、奥地の砂漠地帯で中年女のノーラ(月船さらら)が営んでいる売春宿を兼ねた貧しい木賃宿。彼女はアボリジニ(オーストラリア先住民)との混血の少女・オビーディエンス(小池のぞみ)を従順な使用人として使っている。そこへ荒くれ者、ガウンドリー(いわいのふ健)が僻地で仕事を求める三人の白人流浪者達(遊佐明史・北郷良)を率いて現れる。彼らはオビーディエンスを一晩の慰み者にしようとするが、ノーラは激しく拒否する。彼らの滞在中に白人の宣教師と赤ん坊が行方不明になり、教会も焼け落ちるという事件が起こり、既に開拓者として地域で生きている白人農民(斎藤真)を巻き込んで、先住民と移民白人の戦いが始まる……。
戯曲は、それぞれの人物の立場、生きるこだわりやキャラクターについても細かく触れる。それは確かにオーストラリアのなじみのない辺境を知らせてはくれるが、舞台の上の人間像やエピソードは暴力的で荒々しいばかりで観客に身近になっていかない。
それは俳優の演技にも及んでいて、客演のいわいのふ健も月船さららも柄はいいのだが、演技がパターン化している。たとえば、いわいのふと、彼が連れ歩いている舌を切られた少年との関係、月船と宣教師の妻(新井晃恵)と生き方をめぐって対峙するシーン、いずれも類型的な演技に逃げ込んで独自の真実が見えてこない。ベテランの斎藤真以外の劇団員も、それに引きずられている。一面に水面のような青く反射するガラス面を張り巡らしそこに枯れ木を数本立てた舞台ですべてのシーンが展開する。この美術は美しいし、照明もよく舞台を追っている。この新大陸の民族音楽らしい管楽器を軸にした音響も効果的だが、この舞台の抽象性が戯曲の生々しい現実感とそぐわない。
演出の真鍋卓嗣は、昨年、僻地を舞台にした人間崩壊劇「心の嘘」を既に本拠の俳優座で演出している。西部の荒廃した辺境社会の人間模様が、現代人の心にも響くいい舞台だった。一昨年の「殺し屋ジョー」も観客の生活体験と重ならないトレーラーハウスの殺伐な殺し合いの世界だったが、共感できた。だが、この一種混沌とした舞台からは、舞台の全ての人が願ったようなであろう「聖なるもの」は出現していなかった。
俳優座の衛星劇団から出発した俳優小劇場は、かつては、新劇の範疇に収まらない都会的な洒落た作品を個性的な俳優でつぎつぎにみせてくれた懐かしい劇団だが、これからも自劇団に閉じこもらず、作品を軸に新しい世界を見せてくれることを期待している。
林檎の軌道
とくお組
駅前劇場(東京都)
2021/03/12 (金) ~ 2021/03/21 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
しばらく、公演を休んでいたという小劇場劇団「とくお組」の6年ぶりの新作だが、この間にこの作品の舞台となっている宇宙と我々との距離はずいぶん変わったのではないか。
このコメディの舞台は火星で、ほぼ半世紀ほど未来。人間の居住可能性を確かめるために派遣された第一次隊が行方不明になって、その捜査のために送られた第二次隊の捜査が主筋になっている。
約一時間40分の舞台は細かいネタをうまく拾って話をつなげていって笑いながら見てしまうが、作も演出も俳優も、そこまで、と言う感じがする。こういう失礼なことを言うのは最近は宇宙も随分リアルに身近になっていて(本当は相次ぐロケット失敗のようにそれほど容易なことではないのだが)こういう作りだと、どうしてもファンタジーと思わざるを得ない。そうすると、結構多い日常的なギャグや、人物設定がリアルにもファンタジーにもなり切れず、宙に浮いてしまう。そこがSFコメディとしても残念だった。
6年前までのこの劇団を見ていないので、今後の方向もつかめないが、グループのアンサンブルはいい。続く活動を見てみたいと思う。約40の席は満席。
「シャケと軍手」〜秋田児童連続殺害事件〜
椿組
ザ・スズナリ(東京都)
2021/03/17 (水) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
犯罪は時代を反映する。80年代に転位21を主宰した山崎哲は、世間の注目を集めた猟奇犯罪事件を素材に犯罪に埋め込められた時代の声を次々とドラマにした。久しぶりの椿組での登場である。
この舞台の素材は十五年前の秋田の地方都市で実際にあった児童連続殺害事件である。
舞台では、家族内の無関心、家庭の貧困、地域社会のいじめやネグレクト、など具体的に事件の詳細が明らかにされていくが、さらに、犯罪の中に潜む日本社会に通底する病癖を抉り出そうと試みる。その手法がいわゆる社会科学的事実のドキュメンタリーではなく、演劇的、文学的(詩的と言ってもいいか)表現であるのが、山崎哲の犯罪シリーズのユニークなところである。
例えば、被害者の少女(長峰安奈)が周囲から与えられるわずかな玩具は、母(井上カオリ)がたまたま金を持っていた時に与えられた二百円のテレビキャラクターと、年上の男の子からもらった魚の飾り物なのだが、秋田の象徴である白神から流れ出る川に捨てられた少女は自身が体の中に飼っていると信じている魚となって旅立っていく。そこに彼女の知る唯一の絵本「海のトリトン」が絡んでくる。
客観的な裁判や捜査を枠取りに進む犯罪物語の中に挟まれるこういう現実と少女の間の大きな乖離を示す乾いた短いエピソードが、事件の深層へ繋がっていく。
事件を囲む現実は、すべて男、女と番号でしめされる二十名近い俳優で演じられる。
演出は西沢栄治、多分椿組では初めてであろう。初日を見たが、多くの多様な俳優たちを巧みにさばくだけでなく、暗黒の中から突然フットライトと音響ともに事件の核心人物を登場させるかつての転位21の手法を踏襲する余裕もある。
新旧の作家と演出の顔合わせが成功して、80年代小劇場の空気を今に生かすことになった。休憩なしの二時間。飽きずに見たが、遂にタイトルの「軍手」の意味が分からなかった。
日本人のへそ
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
井上ひさしの戯作者ぶりがよく出ている処女作を、きれいにまとめた。栗山民也としても会心の舞台で、お見事!と言うしかない出来だ。この作者の後半生の作品は次第に「庶民の倫理正義感」が強く前面に出て、それはそれでいいのだが、この処女作が書かれたときのような世間の全てを笑い飛ばす活力はなくなっていた。
作品が時代を経ていく過程では仕方がないともいえるだろうが、このきれいにまとまった舞台からはこの作品が書かれた時代(1969年)の猥雑さは影を潜めている。逆に、この作品が素材にしている差別や性表現や障碍、ジェンダーの話題は現代では「自粛」の対象となるものが多く、それを思うと、何かこの無意味な自粛劇場でこの芝居を観るのも、歴史の皮肉のような思いだった。69年、エコーの芝居が面白いという風の噂で、見てみようと何度も試みたがとうとう見ることはできなかった。その時に「二階の照明席のわきに一人入れるんですが、いつ落ちるかわからないので、お客様を入れるわけにはいかないんです」という劇団の答えはいまも覚えている。その舞台は、素朴、未熟ながら時代に密着していたに違いない。それは芝居というものの宿命のような気がして、粛然とした。
ほんとうのハウンド警部
シス・カンパニー
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2021/03/05 (金) ~ 2021/03/31 (水)公演終了
満足度★★
上演時間はわずか75分。しかも、中身が理解不能。いくらジャニーズファン向けとはいえ、コクーンの一月公演で、これはいかがか。まだ空いたばかりだから、前売り客でコロナ客席は埋まっている。
この戯曲は演劇を問うメタシアターのドラマとして、演劇好きには知られている五十年ほど前に書かれた戯曲で、翻訳も本になって出ている。しかし、それは米英の演劇都市の演劇事情をもとに書かれた一種のバレ本で、ミステリ劇がお国の看板観光資源になっている国や、初演の翌日に大新聞に演劇批評がでかでかと出る(日本の新聞のように終演間際になって決まった枠で申し訳のような批評が出るのとはわけが違う)国情があって成立する。9割八分がジャニーズ客だった「オスロ」と違って、コクーンとなるとジャニーズ客は8割くらいにとどまり、幅広い年齢の男女の顔もちらほら見えるが、この芝居、大方の客にはどこが面白いか解らなかったに違いない。幸い本を読んでいたから、俗悪ミステリ劇や、批評家へのほとんど嫌がらせのような悪態や、舞台で繰り広げられる演劇の構造への批評も意図は読みとれたが、多分、英米では爆笑・大受けのところがクスとも笑えない、笑わない。それは演劇のバックグラウンドが違うからである。幕内は散々読み合わせをして万端尽くしたとパンフレットで言っているが、それは幕内だけのことで、演劇には観客がいる。仲間内でいいことにしましょう、と言うのはまるで今の政治だ。
コロナ騒ぎの中で、さっそく、身近でやりやすそうなこの本を見つけてきたのはさすがシスカンパニーだが、今回は読み違えた。この本は時々小劇場で上演していて、日本初演は、パルコの確かパート3で見た記憶がある。そこらあたりで好き者が集まって喜ぶ才人の若書きの本だろう。海外で、「日本人のへそ」をやろうという興業者がいないのと同じである。