物理学者たち
ワタナベエンターテインメント
本多劇場(東京都)
2021/09/19 (日) ~ 2021/09/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
舞台が明るくなると、看護婦が殺された病院のサロンの現場検証のストップモーション。
その病院は草刈民代の院長が仕切る精神病院で,そこには、アインシュタイン(中山祐一郎)やニュートン(温水洋一)を名乗る狂人、太古の王の宣言を信じる狂人(入江雅人)が収容されている。彼らは次々と善良な担当看護婦たちを殺していくが狂人とあって、罪には問われず、病院に収容されている。まるで、ミステリ劇のような出だしだが、舞台はそこから二転三転、ミステリ劇はやがて、陰謀劇になり、さらには国際スパイ劇になり、時には社会劇にも喜劇にも変貌する。登場人物は同じながら、ストーリーの進行に従ってさまざまな様式で劇が進む。登場人物たちも時に叡智溢れる物理学者だったり、時には狂人だったり、スパイだったり、忙しい。訳が分からないと、言うことはないのだが、観客がストーリーを追うのも容易ではない。
ヨーロッパのほかの国・ある意味、馴染みのあるロシア、イギリスやフランス、とは全く違った手つきのドイツの舞台劇だ。見ていれば、一つ一つのシーンはその飛び方が面白い、という事はあるのだが、その芯がつかめないもどかしさが残る。
ドイツの現代劇はわが国ではブレヒト以外は、ほとんど系統的に上演されないが、この作者デュレンマットは、ミステリの翻訳もある。戦後まもなく上演された「貴婦人の帰郷」が、数年前クリエでも再演された。ドイツでは大当たりの人気作家の代表作、と言われても、なぜ?、どこが?、当たるのか腑に落ちない。そこが国境を渡る「演劇」の難しさである。
まぁ、蜷川や野田の芝居をアチラへもっていっても、ホントに分かっているのかどうか、もどかしいところがあるから似たようなものか。習うより、慣れろ。とせいぜい見てみるしかない。そのうちに、フッとあ、なるほどと分かるのがこれまた演劇の面白いところなのである。
草刈民代はじめ俳優たちは、ノゾエの多分原作・戯曲に沿った演出でみなこのいそがしい喜劇を熱演しているが、客席の反応はいま一つ。ほぼ、1時間づつの二幕。休憩15分。
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夏の砂の上
ハツビロコウ
「劇」小劇場(東京都)
2021/09/21 (火) ~ 2021/09/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
松田正隆の初期の九州を舞台にした戯曲の中でも、「夏の砂の上」(1998は読売文学賞)は好きな作品だ。ドラマを人間の性がしっかり支えていて、表面は市井劇だが、風俗劇の域を超えている。90年代の代表的な戯曲である。小さな劇団が上演しやすい配役なのでよく、小劇団が上演するが、なかなか、初演を抜けない。
確か、初演は青山円形で平田オリザの演出.意外にオリザ風でなくしっかりと緊迫感のある演出をしていて、何よりも優子を演じたデビューしたばかりの占部房子がよかった。あれから四半世紀!
今回はハツビロコウの公演。客演も加わって、ガラ的言えば無理のない配役だが、初日のせいもあってか、ドラマが浮足立っている。それは仕方がないが、この小さな劇場でセリフが通らないのは困った。それは舞台美術のせいもあって、間口の広い舞台に長方形の大きな和机を中央に横に置き、両端で向き合うセリフが多い。せめて、机を小さく丸くするとか、置き方を考えるかしないとセリフのほとんどが客席に向かわず、壁に向かってしまう。セリフの経験の足りない声の逃がし方を知らない若い俳優は苦しい。優子を演じた金原爽佳は、現代的な体躯で役にはハマっているのだが、セリフが出来ていない。その相手役の小野涼平も柄はいいがセリフが弱い。この二人を取り巻く大人たちは職を失うとか、夫婦関係がこじれるとか、交通事故にあうとか、この一見平穏に見える社会で不安とともに生きざるを得ない人たちで、今のご時世では受け入れられやすいが、この芝居のキモは、それでも、人間は生きていく、と言うところだ。戯曲では情緒的には納得できるように書いてあるのだから、あとはそういう日常性の奥にある生命力の表現が出来るかどうかだ。そこは細かい日常的な表現から、抽象的な表現まで、人間の本音を舞台にあげる技術の修練がいる。そこが流れてしまっている。
さらに言えば、音響効果が雑。例えば、カゲの出入りの玄関の開閉のタイミングがずれる。蝉の声もアブラゼミから法師ゼミに移るという季節の説明だけになっている。折角長崎のはなしなのに、ローカリティが安手な船の汽笛の音だけと言うのはいかがなものか。
近松心中物語【愛知公演中止】
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)
2021/09/04 (土) ~ 2021/09/20 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
帝劇で見、明治座で見、新国立劇場で見、今回この芝居を観るのは四度目か。
芝居は今生きている人間がやるものだから、時とともに変わる、その時代にしか生きられない観客の定めも感じる。秋元本は一九七九年初演以来、四十年。さらに原作の近松の「冥途の飛脚」や「跡追心中」にさかのぼれば、三百年。連綿と演じ続けられてきた日本の演劇の世界である。論じれば、切りがない芳醇な世界ではあるが、ここは、今日の「見てきた」観客の感想である。
蜷川演出による東宝の「近松心中物語」は戦後日本演劇史を飾る屈指の作品だった。今回も見ながらいくつものシーンを思い出した。観客の心をつかむ世界が、舞台の上で演じられる。
それが時代を超えて大きくて完成度が高かった。個人の恋愛から、社会のしがらみまで世俗的な世界を題材にしながら、日本人の心情に深く刺さっていく。原作が浄瑠璃という事もあって、歌が効果的に使われている。蜷川が亡くなった後のいのうえひでのり演出は、伝統日本のモダナイズの蜷川をなぞらずに、戯曲を立てた近代劇の愛のドラマにした。こちらも新鮮ないい舞台だった。ともに狙いがはっきりしていて、舞台の立体化が成功した。今の言葉にすれば、「ビジュアル」で成功した。
今回の演出は長塚圭史。今の時代の近松心中物語を、と目ざしたのはわかるが、ここぞ、と言うところがない。
それが影響して配役も落ち着かない。俳優が役の日本人の情感を運んでいない。戯曲は、登場人物の生活背景も書き込んでいて、いずれも商いに精を出さねば食えない二番手の小商売の家に田舎の家から追い出されるように店に入り込んだ男たち、遊郭の顔見世女郎、見栄は張りたいが張り切れない商家の家付き娘、と言うあたりがよく書き込まれているが、今回の上演ではそこがあまり見えない。だから、封印切りに至る経緯もことの流れで・・という風に見えてしまう。人物の性格や、それぞれの劇的対立はよく説明されるが、血が通っていかない。前例を言えば、太地喜和子も宮沢りえも柄として梅川が似合っていたとは言えないだろう。そこを役にしたのは俳優と演出の力だった。田中哲司も笹本玲奈も有力な新人ではあるだろうが、ここはもう一つ、演技に節目をつけて細かく役を膨らませる工夫が欲しかった。松田龍平と石橋静河は、演技も達者だし、役をよく呑み込んでいるが、舞台全体から見ると浮いている。シーンは演じられるのだが、演劇として詰まっていかない。
蜷川もいのうえも大劇場演出にたけていたから、群集シーンで見せ場を作っていたが、それがなかったのも寂しい。
今回の音楽は、日本の囃子をリズムに取ったようなスチャダラパーの曲を使っている。ここで大衆の声を代弁させる意図だったのかもしれないが。大劇場ではパンチが足りなかった。
最も問題なのは美術(石原敬)。奥が狭くなっていく八百屋に組んだ梯形の板の裸舞台に、次々に小道具が持ち込まれて場面を作っていくのだが、様式に統一感がなくちんまりして大きな舞台で映えない。
奥が狭くなっていくのも閉塞感を出す意図かもしれないが、奥の空間も生かされないし、見ているとうっとおしくなる。幕切れ、劇場いっぱいに歌舞伎の紙の雪を降らせた蜷川の大芝居の前例があるからやりにくいのはわかるが、西洋の童話劇のようなきらきら光る雪はないだろう。
日本演劇の粋の詰まった戯曲を、蜷川は歌舞伎で、いのうえは新劇で、長塚は小劇場でその時代に合わせてやってみたという事だろうが、前二者の大成功は重荷だったに違いない、しかしやってみる甲斐はあった。次は本多で,歌舞伎座で歌舞伎役者でと見物の勝手な夢は広がる。それまでこちらが生きているかどうかもわからない。しかし芝居は続く。
二時間二〇分で休憩なし。休憩は入れてもよかったのではないかと思う。客席は懐かしいもの見たさの老人客が多くほぼ満席であった。何かと乗りにくい公演ではあったが自分もまた、一つの歴史のなかに織り込まれた、という、芝居見物ではなかなか味わえない感覚が味わえた舞台でもあった。
ズベズダー荒野より宙へ‐
劇団青年座
シアタートラム(東京都)
2021/09/10 (金) ~ 2021/09/20 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
野木萌葱の作。いつもながら、面白い素材を見つけてくるものだ。
今はなきソ連が、表看板の社会主義の優勢を立証するために対アメリカの宇宙競争にまい進する。1060年前後20年の覇権争いに巻き込まれたロシアの科学者の物語である。
第二次大戦の戦利品として、米ソはドイツから原子物理学者をやロケット技術者をそれぞれに拉致して、平和の宇宙開発と侵略のための長距離弾道弾の開発に拍車をかける。もちろん政府の本音は軍事優先なのだが、宇宙開発の宣伝力は大きいし人類の普遍的な夢もある。
ナチスドイツにも、ソ連にも夢に賭けようという人物は出てくるわけで、ソ連の夢の中軸を担った人物を主人公(横堀悦夫)にしたのは秀逸な着想である。ことにソ連は、(本当の理由は明らかではないが)その人物をの正体をを明らかにしなかったために様々な憶測を呼んだ。
青年座公演では「プラウダ」(今は注がないとわからない人も多いだろう。「真実」と言う意味のロシア語で、共産党の党機関紙の名前。いまの北朝鮮の「労働新聞」のソ連版である)という席置きのパンフレットを用意していて、米ソ冷戦のよくわかる年表がついている。その時代を大人として生きた者には懐かしい事件の数々である。
こうしてみると、国民こぞって。未来に熱狂した時代でもあったなぁ、と妙な感慨にとらわれる。作者の野木も知らない時代のはずなのに、その時代の雰囲気が感じられるところはうまいものだ。そのなかで、夢(宇宙開発)と現実(兵器開発)にゆれる研究者たち、と言うのはなかなかドラマチックな題材で、科学者のドラマにはよく置かれるテーマでもある。
米ソ冷戦の行方には世界の破滅か?と言う命題もかかっていた。
大仕掛けな話だけに時代背景と事実の説明シーンはかなり多く、数えれば百くらいはあるのではないかと思うが、状況説明を面白く見せる。フルシチョフ(平尾仁)の出し方などうまいものだ。劇中衛星が何度か発射されるシーンがあるが、音響効果もよく、違和感がない。
演出のテンポもいい。
この公演の成功の要因の一つは舞台美術(安部一郎)だ。円の回廊を三段、傾斜をつけてらせん状に組み、中央に机を二つ、その上の電話機が数台。その上に半円の楕円の作りモノが二つ、まるで衛星の軌道を示すようにかかっている。シュールだが使いやすい。
芝居は面白くできていて一幕70分、休憩15分、二幕95分、三時間を見せ切ってしまうが、見終わると、米ソの宇宙競争の話に呑まれて肝心の人間ドラマは少し薄手になっていたのではと思う。折角登場させているドイツから連行されてソ連での研究に殉じてしまうドイツ人科学者(須田祐介)とソ連科学者のドラマや、研究所の中の科学者たちの「社会主義」と「科学」の葛藤のドラマなど、今のドラマとして面白くなるおいしいところが、話の大きさで飛んでしまったように感じる。野木萌葱らしい面白さはそこにあるのに、と見る観客もいるだろう。
たまたま今、ソ連の研究所を舞台にした長編(十時間)の映画が公開されている。第一部しか見ていないが、当事国にとってもこれは取り上げるべき素材のようだ。
悪魔をやっつけろ~COVIDモノローグ~
燐光群
座・高円寺2(東京都)
2021/09/13 (月) ~ 2021/09/14 (火)公演終了
実演鑑賞
イギリスの代表的劇作家・デヴィッド・ヘアのコロナ罹病記。体験をモノローグとして書いているのを、同じ劇作家の坂手洋二がリーディングに近い形で読む。
体験記だが、劇作家だけあって、罹病の経緯など生々しく実感でき、さらにこの病(悪魔)に打ち勝つための周囲の人間の取り組みまで冷静に見ているところがいい。政治家(保守系首相ジョンソン)に辛らつだが、それも客観性を失っていない。
ロンドンでは、昨年の秋このモノローグドラマを九百人規模の劇場を三分の一の席にして上演。今もレパートリーにしているとウイキには出ているから、ロングランになっているらしい。ヘアは俳優もやるいわば演劇界有名人だが、本人がやっているわけではない。知名度のある俳優が演じ演出家もついている。
こちらは坂手洋二の演出,出演。坂手もたまには芝居にも出ている。小劇場での実績も承知しているからリアリティはある。しかし、日本の劇作家でも、もしくは俳優でも、一人くらいはこう舞台でこういう手の実感モノローグを聞かせてくれてもいいのではないか(。かって、谷賢一の同工異曲を見て相当がっかりしたことがある)。社会の、差別と偏見へのモノ言わぬ深さがやはりこの国は深いと実感させる公演だった。55分。
友達
シス・カンパニー
新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)
2021/09/03 (金) ~ 2021/09/26 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久しぶりに観客がワクワクする演劇界の対決上演である。
この一月の間に安部公房の代表作、「砂の女」と「友達」の意欲的な再演を見ることができた。「砂の女」(1962)は今や、日本演劇界の顔となったケラリーノ・サンドロヴィッチの台本・演出。片や「友達」(1967)の台本・演出は弱冠まだ二十代の俊英・加藤拓也。この公演のネット動画広告では、出てもいない人気俳優が次々に登場して、稽古場で「友達!」と叫ぶ。フェイスブックをもじった駄洒落だ。出演者の自己紹介の最後には童顔の加藤拓也が登場して「加藤拓也でーす、演出やりまーす」という。30年前のケラならやりそうな秀逸なプロモーション(CMグランプリ!!)で舞台への期待も高まる。シスカンパニーの制作。劇場は新国立のピット。トラムに負けない満席である。
結果は、随分肌合いの違う安部公房が出来上がったが、演出者がそれぞれの視点から原作を現代に引き寄せた再演にしていて、ともに当年屈指の舞台になった。大家に挑んだ加藤拓也も負けていない。
甲乙つけるのは野暮と言うものだから、感想を列記する。
安部公房と言う作家について。現代社会の不条理を抽象的に把握していく戦後作家の世界が、今や、現実化してしまったことが、今回の新しい上演でよくわかった。これで、安部公房は現代に生命をもって再臨することになった.もちろん、砂の女の家も、闖入してくる家族も、抽象的な存在ではあるが、観客は現実社会と同じ水平でみて共感している。安部公房は、古典の位置を確かにしたとでもいおうか。
「友達」の上演台本は、スマホも登場するし、生活環境も現代にしているが全く違和感がない。その点では、慎重に昭和三十年代の時代設定にこだわったケラの「砂の女」よりも軽やかに現代のドラマになっている。「民主主義」の空洞化は書かれた時代よりも進んでいるのでリアリティもある。
「砂の女」の上演時間はほぼ3時間。映画よりも長い。「友達」はもともと二幕13場の舞台を数回の暗転で休憩なしの1時間半にまとめている。テンポも速い。時代に合わせたアダプテーションが成功している。(勝手な感想になるが)しかし、この台本だと、原作のラストを踏襲していいのだろうか。それはケラの時にも感じたが、その辺に安部公房の時代性があるのかもしれない。
演出。この演出家は若いのにステージングがやたらにうまい!平面の板の中央に上下に出入りを作って効果的に使うのは以前も見た記憶があるが、この舞台でも孤独でガランとした主人公(鈴木浩介)の部屋に闖入者が地面から湧き出すように板の中央に作られたドアからドカドカと現れる。ここで芝居の構造がはっきりわかる。ほとんどの時間舞台の上には十人の登場人物がいる。一人一人芝居がついていてその集団が息をするように膨らんだり、締まったりする。セリフのあるところはほぼ、舞台中央で処理される。舞台演出の基本と言えば基本なのだが、このリズム感がいい。
俳優。キャステキングがうまい。家族の山崎一(父)キムラ緑子(母)男女三人づつの兄弟姉妹たちもバランスがいい。客寄せも考えて(有村架純(次女)あるし、浅野和之(祖母)鷲尾真知子(管理人)大窪人衛(三男)の、普段は飛び道具の人たちもうまくはまっている。もっと面白くなりそうなのは、西尾まり(婚約者)内藤裕志(弁護士)。皆好演である。
スタッフでは美術(伊藤雅子)。後半、遠見に街のシルエットが出てくるが、これが観客を和ませる。この奇妙な寓話劇に巧みに情感を残している。音響効果は電子音のノイズを軸として、ここは、昔の阿部公房風だ。
この新国立の劇場へ来たから言うのではないが、こういう演劇界の刺激になる企画は新国立劇場が試みるべきではないか。普段、この劇場で見る日本の演劇は毒にも薬にもならないものがほとんどで、意味のある企画は、ここのところほとんどシスカンパニーの手で行われている。今の時代に「友達」を上演するという企画力、加藤拓也と言う若い演出者を起用して、地方も含めて長期の公演を成功させる(前売りは完売していた)興行力、演劇界を知り尽くした広範な分野からの的確な配役力、スタフィング。どれをとっても、この芝居をどう作るかと言う意図がはっきりわかる。流行の言葉で言えば「説明責任を果たしている」。そこが素晴らしい。
音楽朗読劇「シャーロック・ホームズ#1」
ノサカラボ
サントリーホール ブルーローズ(小ホール)(東京都)
2021/08/28 (土) ~ 2021/08/29 (日)公演終了
実演鑑賞
古典の活かし方もいろいろあって、古典ミステリの人気キャラクターは、最近流行の2・5ディメンション系の舞台では重用される。8月には最強キャラのホームズにタカラヅカ宙組と、この舞台が用意された。こちらは音楽朗読劇と銘打って、名作ミステリを次々と舞台に上げようという企画の第一弾。劇場もサントリーホールのブルーローズと小洒落ている。
俳優に人気の声優を配し、劇伴を生演奏で、朗読劇として上演する。内容は初期の「冒険」から三話。入り口ではイギリス公認の輸入グッズも販売している。客は日ごろ顔を出さない建前の声優の演技が見られるというのでファンが多い。これが、ミステリの中身で客が来るようになれば、新しい展開があるのかもしれないが、時代をくだるにつれて、ホームズ=ワトソンのような朗読劇には使いやすい人物関係が少なくなる。仕掛けも複雑になってこういうリサイタル形式ではできなくなるだろう。
宝塚宙組はコロナ拡大でかなり公演中止することになった。こちらは前途多難である。
『砂の女』
キューブ
シアタートラム(東京都)
2021/08/22 (日) ~ 2021/09/05 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
かって親しんだ世界をいま、目前に見て、それに勝る興奮を感じられるか、そこが、古典を再演する肝だろう。「砂の女」(1962)は日本の戦後文学の里程標となった作品、作者自身の脚本による映画(1964・勅使河原宏監督)もまた、世界的な評価を得た。その後、芝居にもなったようだが、草月ホールで見たような、見なかったような。それから六十年。
今回はケラリーノサンドロヴィッチによる舞台化である。
『鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。』というのは安部公房自身の言葉だ。このシンプルな構造の中で、作者は戦後日本の課題を二人の男女に託して描いたわけだが、それを世紀を超えた今、舞台で見るとどうか。
コロナ禍で、全国に「非常事態」が拡がろうかという酷暑のなかのでトラムの公演は、観客の肌にも砂がこびりついてくるような迫力のある舞台だった。古典を今に生かしたケラの力量は大したものだ。それは、丁寧に追われる原作のストーリーの功績よりも、脚本・演出家の舞台あらではの工夫がこの成功につながっている。この欄で言えば、筋は原作で周知なのだから、いまさら「ネタばれ」でもあるまい。舞台に積み上げられたその細かい演劇ならではのネタが見事な舞台だった。
観客は老若男女取り混ぜた芝居好きで満席だった。舞台の上も下も芝居好きが集まった一夜の愉しみがここにあった。コロナの憂さも晴れようというものである。..少し長くて十五分の休憩をはさんで二時間五十分。..
4
ティーファクトリー
あうるすぽっと(東京都)
2021/08/18 (水) ~ 2021/08/24 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
何もない舞台にホリゾントが立てられていてそこにマッピングで様々の模様が現れる。そこへ机やいすをもって次々に男たちが現れる。彼らは、そこで、客観も主観も交えて、死の前の人間をみようというのだ。
死の前の状況を人工的に作り出すには死刑執行と言う格好のが素材がある。その死にかかわる人たちと言えば、死刑を命じる法務大臣、判決に関わる裁判員、裁判官、具体的には死刑執行人の首に縄をかける役をつとめる刑務官。刑を受ける無差別殺人を行った罪人、その父親、などの役割を五人の俳優がそれぞれの人物となって、死刑を行う経緯とそれにかかわる人間の心境を語る。ドラマがかみ合う場面は少なく、証言ドラマのような形だが、どうやらこれは結論を求めてまとめようというわけでもない。話の流れが死から離れそうになると、男たちの一人司会者(今井朋彦)役の手でもとへ、戻されたりする。
こう書くと、なんだか、取り留めなさそうなのだが、これが結構緊張感をもって2時間10分の舞台になっている。
それは一つには、死は人間誰も避けられないが日常はあまり見ようとしないで過ごしている大きなテーマだという事もあるが、このコロナ禍で突然その死が身近になったという事があるかもしれない。舞台としてはあまりなじみのない形式なのだがバラバラの人物や場をつなげる作劇術もうまい。話題も、死刑反対派の議員が大臣の職につくと刑を実行せざるを得なくなるとか、死刑囚を前にした刑務官の精神的圧迫とか、シーンとしての若干の説明もあるが、独白の方が物語のテンポも速く舞台の引き寄せられる。極め付きは死刑執行時に誤って失敗する執行官のエピソードで、このことで刑務官は神経を病み離職する。
だが、俳優たちはそれぞれの役から発言するが、それがどこへ向かうかはわからない。死の実態は経験できないのだから、そこまで、と言う感じ。そのさまざまな距離感を、ロールプレイイングゲームのように描いて見せた死をめぐるアラベスクと言った感じのユニークな舞台で、作者は十年前のワークショップからリーディングや上演を重ねて今回作者自身の演出による上演となった由。そういう練り上げられた、と言う感じはよく出ている。いつもながら小劇場にしては洒落た舞台づくりに、小劇場のベテランの俳優たちに素敵な新人(池岡亮介)が加わったを俳優陣もよく演じ切って小劇場ならではのいい舞台になった。
ジェイミー
ホリプロ
東京建物 Brillia HALL(東京都)
2021/08/08 (日) ~ 2021/08/29 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
17年初演のロンドン ウエスと・エンド ミュージカル。イギリスモノだけあって、16歳のゲイの男の子ジェイミー(私が見たのは高橋楓の回)が根強く残っている家族、学校、社会のゲイ差別の中でドラッグ・クイーンを目指すというサクセスストーリだ。
もともとは、テレビのドキュメンタリーから発想された作品という事で「社会派」である。ミュージカルには古くは「マイフェアレディ」の階級、言語差別、「ウエストサイド」や最近の「インザハイツ」に至る移民差別、など差別をテーマにした名作があるが、これは性差別がテーマである。イギリスは同性愛を犯罪としていた時期もあって、それだけに社会の中にある種の緊張感がある。それがこの本来は無邪気な若者の成功物語にも影を落としていて、このミュージカルはよく考えられている本なのだが弾まない。
物語は、義務教育終了まじかの教室から始まる。これから社会へ出て行って何者になるか、と言うだれしも経験する期待と不安の門出である。
ゲイの主人公は、母(安蘭けい)には理解されているが父(今井清隆)はきもいと言って家を出てしまった。居場所はそんな母子家庭とかつてのドラッグクイーン(石川禅・この俳優はホントに日本のミュージカルには欠かせない名脇役だと思う)が営んでいる貸衣装やである。卒業前のイベントが迫っていて、そこで主人公は女装を見せようとするが、それをめぐって家を出た父親との葛藤、イスラムのヒジャブを被った恋人(山口乃々華)、ゲイを理解しない男友達、理解はするが解決しようとしない教師(樋口麻美)などの学校でのドラマが展開する。
日本でも様々な場でジェンダーの問題が表面化してきた昨今、時期を得た企画にもとれるが、やはり、イギリスとは社会環境が違う。切実さが伝わってこない。ストーリーは平凡な進行だが、曲に終演後も残るような名曲がない。ダンスにも際立ったナンバーがない。一つには時節柄、イギリス人の演出家を起用しているがリモート演出だという事も影響しているのかもしれない。言葉は悪いがずるずると締まりがない。
俳優で言えば、私も見た若いカップルは残念ながら力不足。特にまずいという事はないのだがドラッグクイーンと言い、イスラムの美女と言うならやはり、ハッとするよううな地の魅力が欲しい。今回は脇に支えられたと言う感じだ。
一幕・1時間20分、15分の休憩をはさんで二幕1時間15分。
風吹く街の短篇集 第五章
グッドディスタンス
小劇場B1(東京都)
2021/07/14 (水) ~ 2021/07/19 (月)公演終了
hedge 1-2-3
serial number(風琴工房改め)
あうるすぽっと(東京都)
2021/07/08 (木) ~ 2021/07/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
「経済」をドラマの中心に置いた舞台は、なかなかその成功例が思い浮かばない。
貿易商が舞台になった「女の一生」の支那貿易についてのシーン以上に、うまく芝居にならないのだ。この作品は経済から日本を描く金融エンタティメント、とうたっているが、表面的には、今をはやりの投資ファンドや、金融規律を守るためのインサイダー取引の規制を素材にし、その英語をそのままタイトルにしているところなど、目新しい趣向ではあるものの、内容的にはよくある中小企業の古めかしい企業小説の世界以上に出ていない。
長い歴史のある工場内の物品移動の工場用クレーン専業の中小企業の企業改革に投資ファンドが力を尽くす前半、1時間50分と、その投資ファンドがインサイダー情報の取り扱いで証券取引等監視委員会の摘発を受ける後半一時間。ほぼ三時間の長丁場が今の企業社会を映すように男性のみのキャストで演じられる。
冒頭には、現在の銀行金利の低下から、投資でなければかつての金利生活者のような生活は望めない、という事や、投資が狙うのはヘッジも含め、金融の広範な領域にわたるというようなことが、解説されるがそれは、劇中でも言われるようにドラマの中身にはほとんど関係がないし、観客もそれくらいはご承知だろう。
タイトルのヘッジは前半のドラマの軸になっていないし、後半は結局は男女の人情噺に落ちていく。素材に飛びついたのはいいが、処理に困ってありきたりな世間話でまとめてしまった印象である。
今どきのドラマにするなら、現に活躍が見えてきた女性の企業社会への進出のどのほうが、ドラマチックだろう。またリズム楽器にトランペットの演奏をナマで見せる音楽も、内容にマッチしているとは思えず趣向倒れになってしまっている。
一九一一年
劇団チョコレートケーキ
シアタートラム(東京都)
2021/07/10 (土) ~ 2021/07/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
大逆事件からはすでの百年以上たっている。日本が近代国家としてようやく成立したばかりのころに起きた事件が、今なお、観客の心をうつのは事件がこの国の構造に深く根付いているからだ。その構造の上部構造にも下部構造にも触れた優れた社会劇である。
この国土に生きる観客は、現代の愚昧な政府の権力志向とちっとも変っていないなぁ、という悲しい詠嘆を超えて、心を打たれ、考えさせられる。
二十世紀初頭の社会主義思想の平民への衝撃は、近代国家ではそれぞれに受け止められていて、アメリカでは「赤狩り」が、ヨーロッパでは「ロシア革命」がしばしば芝居の素材になる。日本でも戦後大逆事件が解禁になってからは、いくつもの作品があるが、今回の作品はそれらとかなり趣を異にしている。世俗的な事件の経緯に沿ってはいるが、近代国家で生きるという事を、集団を率いる権力と、個人の生きる自由の対立に絞っている。そこがいい。
舞台は、東京地裁の予審判事、田原(西尾友樹)と潮(佐藤弘幸)が大逆事件を裁く大審院の予審判事として呼び出されるところから始まる。山縣有朋(谷仲恵輔)によって仕組まれ検察によって実行された政府転覆の事件への嫌疑で当時生まれたばかりの平民社関連の人びとがとらえられ、当時の法律でもせいぜい数年の禁固刑が最高の被疑者たちが死刑台に送られる。爆裂弾とか判決後の天皇による恩赦とか、劇場性もしっかり組み込まれたこの専制国家確立のためのドラマの一翼を担ぐことになる。ドラマは国民平等の近代法と、専制国家の政治の論理のはざまで、職として判事の務めを果たそうとする予審判事に対し、被告として唯一登場する菅野須賀子(堀奈津美)は毅然として人間の生きる自由を主張する。
2時間20分余り、休憩なしの舞台の前半は、国家が仕組んだ国家権力のドラマに巻き込まれていく平民の予審判事の苦悩が描かれ、後半は人間は自由に生きるという原点から全くブレない菅野須賀子との取り調べになる。これらの事件の素材や対立軸は現代の観客にも通じるようによく吟味されていて、全く飽きない(よくある時代物のように、メロドラマに媚びていない、ここもいい)。
ことに、菅野須賀子を演じる堀奈津美が自分の信念を鼻っ柱の強さで表現していて、今までに見たさまざまの菅野須賀子のなかでは異色の面白い出来であった。
今年のチョコレートケーキはコロナ禍でも大活躍で、今年の春の「帰還不能点」に続く日本の権力構造についての優れた舞台であった。権力をその中から見るというのは新しい視点で、そこに新しい日本観もあって、大いに評価できるが、観客としては、かつて「80’エレジー」のような、市民のなかに巣くっている権力ドラマもぜひ見てみたいと思う。
このコロナ禍でも、特に動員したとは見えない老若さまざまに入り乱れた観客でトラムは9分の入り。これからもっと混んでくるかもしれないが、芝居を見たという充足感のある舞台である。
別役実短篇集 わたしはあなたを待っていました
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/06/25 (金) ~ 2021/07/11 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
別役実戯曲の新しい発見のある公演だ。
戯曲そのものは手を入れていないというから、かつても同じような本からいくつもの別役作品を見てきたのだが、早稲田小劇場でも、文学座でも、円でも、木山事務所でも、ケラでもない、いままでになかった上演である。それが、燐光群風社会ドラマと言うのではなく、戯曲に寄った新しい舞台になっているところがいい。
今回は四作品の上演でその二作を見た。
「いかけしごむ」と「眠っちゃいけない子守唄」は登場人物が二人づつ。
「いかけしごむ」は町はずれの行き止まりの路地の奥の小さい広場。“ここに座らないで下さい”と張札を付けたスタンドの前にベンチ。上手に運命鑑定の行灯のあるテーブル。その上からいのちの電話につながる黒電話がぶら下がっている。
女性(鬼頭典子)が現れ、そのベンチに座る。何事も起きない。そこへ平凡なサラリーマン(萩野貴継)がごみ袋を手に現れ、追われているという。女に問われ、追われている理由は彼がいかけしごむを開発してその秘密を東欧の秘密結社に狙われているからだ、と答えるが、女に追及されて、実は妻に逃げられ、原料と称して持っているごみ袋の中の「いか」は実は捨て場を探している殺した子供の死体だ、という事が分かってくる。
別役作品についてよく言われる不条理演劇(と言う翻訳は適訳とは思えないが)風ではなく、原語で言えばabsurdな展開である。しかし、ヘンテコながら物語はコントのような、ホラーのような、小市民ドラマのような、論理的な筋を追って進み、別役作品ならではの世界になっていく。
、緻密に計算された本を、坂手演出は本に忠実に演出していて、いままでのように演出者があらかじめ決めた世界(多くはいかにもの不条理な世界)に作りこんでいないので戯曲の魅力がはっきり出ている。そこが新しい。面白く見られる。
「眠っちゃいけない子守唄」では眠れない男(さとうこうじ)が派遣サービスから話し相手の男(大西孝洋)を呼ぶ。男は、自分が何者かも知らず、知ろうともせず、眠ることで最後が来るのを避けるために派遣の男を呼んだのだ。解説によれば、眠らない男はナチ迫害下のユダヤ人であり、派遣の男は現代人という事になるが、そのような寓話的解釈によらずとも、
雪の降る夜に、自らも何者か知らず、理解できない他者を話相手にせざるを得ない(そのために会話は常に方向を失う)人間の孤独と滑稽は切々と伝わってくる。
ここでも、男が記憶している過去は「よっちゃん」と呼ばれていたこと、自分に寝るなと命じた人は「としこ」という名だったと日常的な言葉がポイントに使われていること、通じない言葉で会話をすることを夢想するなど、日常の中にある人間関係を言葉から効果的にドラマに仕組んでいる。別役作品ならではの面白さだ。
俳優はそれぞれ、演出の意図を心得て好演。余計なものを見事に切り落としている。
かつて、坂手洋二が「マッチ売りの少女」を新国立で再演した時、鈴木忠志演出で見ていた筆者は非常に違和感を覚えた。それから、20年たって今見る坂手演出はまた変わって、意外にしっくりした。今なら白石加代子は70年代の「時代」の舞台だったと言い切れるかもしれない。観客もまた変わっているのを実感する。
他の芸術と違って、演劇の戯曲は時代とともに様々な衣装を着けることができる。そして新しい観客に触れる。一期一会、演劇の面白さの一端に触れる公演でもあった。
黄色い叫び
TRASHMASTERS
サンモールスタジオ(東京都)
2021/06/23 (水) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
何度も再演されている中津留のディスカッション・ドラマで初演以来十年もたつのに、色あせないばかりか、コロナ禍のもとの中央政権のあやふやで頼りない無責任体制を見るにつけ、このドラマが描いた国民の怒りは地方からふつふつと中央に押し寄せているのを感じる。政治を担うものと国民との乖離は長く言われてきたがいま、それは、一層明らかになっていて、オリンピックを機会にそろそろ手が付けられない状態になっている。
この作者はそれが人間なのだ、と、図式的にならないように多くの作品を書いてきているが、ここに至れば、このドラマも、今こそ見るべきドラマ、という事になる。小さな劇場での再演だが、満席の客席の空気は重かった。
首切り王子と愚かな女
パルコ・プロデュース
PARCO劇場(東京都)
2021/06/15 (火) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
劇場新装のこけら落としがコロナ禍にぶつかったのは、不運だった。
ステージに向かって扇型に広がるスロープのある芝居を観るのは最適の700程の客席を持つパルコ劇場の自前の制作作品である。ここで新しい渋谷劇場文化を打ち出そうという意欲が作・演出・キャスティング、美術など、舞台のすみずみまで溢れている。
なかでも、意表を突いたのは物語。
タイトルだけを見ると、時代錯誤かと思うようなタイトルだが、中身はいまをはやりのコミック原作を思わせる奔放なファンタジーだ。しかし、2・5ディメンションとは全然違う。作・演出の蓬莱竜太はもともと小劇場の出身で、小さな世界を得意としていた。それがデビュー以来20年地道に経験を重ねてこの大型のファンタジーの世界で演劇を作った。時代も場所も架空の王国という現実の手掛かりが全くない世界を舞台にするのはかなり難しいが、成功すれば「スターウオーズ」のように大きく化ける。内々、そういう狙いがあるのかと思わせる器量の大きさがあるところが面白い。するとこれはエピソードXなのだろうか。
没落が忍び寄っている女王(若村麻由美)王国の跡継ぎ王子(井上芳雄)をめぐる権勢争いに揺れる王宮に庶民の若い女(伊藤沙莉)が巻き込まれる。愚かな身分の低い女と言われながら、不運な運命を背負った王子とともに王国の明日を開いていく。まぁ、なーんだと言われるような話ではあるが、変に時勢批判や時流に媚びたりしないでまっとうに現代のファンタジーを作ろうとしているところを評価したい。広いステージを生かして多くの構成デッキを組み合わせて舞台を作っていく美術も、歌える主演者を生かした印象的な音楽も、ベテランの中に一人入っている新進の女優伊藤沙莉も、なかなかいい。王子と愚かな女の違いをセリフで見せているところなど蓬莱らしい工夫である。
昼間の公演だがほぼ9割の入り。ファン客ばかりでないところも頼もしいが、こういう演劇がどのように発展していくかは、よくわからない。劇場の力量にかかっている。
目頭を押さえた
パルコ・プロデュース
東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)
2021/06/04 (金) ~ 2021/07/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
開場したころから独特のカラーで都会の芝居好きの心をくすぐる芝居を作ってきたパルコ劇場がフレッシュなキャスト・スタッフで、次世代の商業演劇を創ろうという新路線。新装なった劇場の「ショーガール」から三谷幸喜に次ぐ、柱になる路線を開発しよう、と言うわけだ。目の付け所はいい。
ジャニーズ男性タレントに代わり女性タレントを主役に広い分野からのキャスティング。芝居の書ける若い作家。収まりのいい演出家。日常生活とつながるアクチュアルな素材。まずは、外の一回り小さい劇場でのトライアウト。正攻法のトライアルがこの東芸イーストでの「目頭を押さえた」40公演だ。
コロナ禍でのスタートは不運だったかもしれない。芝居の組みはよく時勢を見ているが、舞台には狙いが行き届いていない。最初から当てようというつもりもなかったかもしれないが、座組はきちんとできているのに、どこも際立っていない。おもいきってどこか、突出するところがないと舞台は動き出さない。商業演劇なのに、Iakuの公演ほどにも盛り上がっていない。残念だった。一つ言えば、素材にもなっている「遺影」をなぜ、もっとさまざまに生かさないのか。物語りが始まるのも意外な女子高校生の受賞だし、そこに山村に生きる人々の生活や哀歓も象徴的にうつしだしていただろうに。おまけに現実に主人公は写真を「今撮っている」。人生をかけようとしている。なじみのない「喪屋」よりももっと素直に観客の心に物語の芯が入って行けただろうに。
未練の幽霊と怪物
KAAT神奈川芸術劇場
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2021/06/05 (土) ~ 2021/06/26 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
能舞台のような舞台と出入りの橋掛かりが白いマットで黒い空間に浮かんでいる。いくつかの現代演劇の秀作を上演してきた神奈川KAATの大スタジオ。
演技スペースを囲んで、中央に見慣れない伝統弦楽器を電子楽器につないだような楽器を演奏する音楽監督は内橋和久。上手に謡手の七尾旅人。意表を突く鋭い弦の音が鳴り響いて第一部の「敦賀」が始まる。チェルフィッチュ特有の体の動きとともに、さりげない口調で自分の敦賀をドライブした体験を語りだす旅人(栗原類)。旅人は敦賀のさびれた海辺で、世界の永遠の循環を夢見ながら失敗した高速増殖炉(石橋静河)に出会う。
チェルフィッチュの新作は、今までにない工夫がある。一つは、能の形式を積極的に取り入れていて、その伝統に沿って見るとドラマの世界に入りやすいということだろう。
ステージのセッティングだけでなく、物語のつくりも、ナレーションの音楽化も、第三の登場人物・聞き手の作り方(片桐はいりが狂言のアドで登場する)も、人間ならぬものに人格を与える手法も能・狂言の伝統を利用しているが俳優の演技、セリフ、衣装、舞台の内容も様式も全く現代である。それが混然一体となって、この「未練の幽霊と怪物」という非常に現代的なテーマを浮き上がらせる。
第二部「挫波」では、建設中の国立競技場の周辺を散歩している男(太田信吾)が、斬新な設計をしながら、世俗的な理由から実現しなかったオリンピック国立競技場を設計したザハ・バディッド(森山未來)に出会う。高速増殖炉も国立競技場も人間の叡智を集めて実現を願ったモノではあるが、その夢はいまも人びとの脳裏に残りながら葬られている。そして、その夢への思いは形のない「未練の幽霊」になって今の世にさまよい、廃墟や間に合わせのの「怪物」となって立ちすくんでいる。現代を表現するのに、最も象徴的な二つのモノは極めて政治的な色彩を持つが、その背後には現代に生きる名もない人びとの見果てぬ夢にも裏打ちされている。「三月の五日間」で見た世界を覆いつくすような舞台がここに出現した。
今までにないことで言えば、もう一つは既成俳優や、音楽家の登場である。それで、細部への完成度が高くなった。
演劇は、今見た時点で完結してしまうものではあるが、いつまでも見たという事がに観客の記憶に残ることは非常にまれな幸福だと思う。本年随一の傑作だと思う。一部二部共に55分。間に休憩10分
インク
劇団俳優座
俳優座スタジオ(東京都)
2021/06/11 (金) ~ 2021/06/27 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
海外の新作の翻訳上演は、世界の動きを知る上でもうれしい試みで、この舞台は17年の初演で英米で上演された舞台だ。実話ネタで、70年代に英米のメディア界を席巻したマードックの英米進出の嚆矢となった、イギリスのタブロイド紙「ザ・サン」の成功譚である。
オーストラリア出身のマードックが、イギリスの地方紙のデスクでくすぶっていたラリー・ラムと組んで、それまでになかった徹底的に大衆迎合の新聞を作ってそれまでの高級新聞や一般紙に肉薄する。英米の脚本によくある要領を得たテンポのいいホンで、真鍋演出は装置・振付の助けを得て、一気呵成に物語を展開する。さすがに俳優座だけあって、俳優たちもみな早い翻訳のセリフを見事にこなして一幕1時間25分、あれよあれよと言う間にロンドン最低の売り上げだった「ザ・サン」は、ラムがかつて働いていた競争紙、「デーリーメール」を追い上げる。二幕は、大衆迎合が幾つもの壁に突き当たるが、遂に一年でデイリーメールを凌駕する。物語も新聞と大衆をめぐる人間的な新聞人のドラマに。触れていく。
見ている間は全く飽きずに面白いが、しかし、この話は1969年のことで50年も前のことだ。このドラマの内容は既に日本のジャーナリズムも十分に咀嚼して、週刊文春は「文春砲」も撃つし、セックス記事にも余念がない。テレビのゴールデンはお笑い芸人のひな壇番組ばかりになって、健康番組ですら芸人の助けがなければ成立しない。世界に共通して起きたメディアの形態と内容の変化だから、誰でも思い当たるところはあるが、今後の処方箋は見えていない。英米でもさしてヒットしたようでもないから。時期的にいささか遅かったか、という気がしないでもないが、今の日本の忖度全盛のジャーナリズムを見ると、何年か後には面白い忖度ドラマが見られるかもしれない。休憩10分を入れて3時間。
、
六月大歌舞伎
松竹
歌舞伎座(東京都)
2021/06/03 (木) ~ 2021/06/28 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
『第二部・桜姫東文章下の巻」四月の上の巻の時は初日の前まで席があったのに、下の巻は前売り初日で完売。やっと手に入れた最悪の一等席(上手二階の四列目の端)で見た。いかにも歌舞伎劇の面白さが詰まった舞台で、当代の花も実もある名優二人の名演が見られた。渡辺保さん曰く、これは「画期的」「戦後歌舞伎の代表的な名舞台」「一代の傑作」。つまりは、観劇経験豊かな碩学・渡辺さんが生きて目にした舞台の中では一番と言っているのだ。いつも書くが、ご自身の「歌舞伎劇評」は本当にタダで読ませていただくには申し訳ないような充実した内容で教えられることばかりだが、それだけでなく、今の現代人が古典に接してどこを面白がればいいかも示唆してくださる。同じネットのメディアだから、具体的な観劇体験はすべてそちらにお任せして・・・・、「見てきた」をいうと、
歌舞伎座がまだ、律義に一席明けの観客席とは思わなかった。多くの公立劇場は既に全席売っている。全席売っていれば、もっといい席が手に入ったかもしれないのに。
どこかで話題になっていたが、コロナで掛け声が禁止になっている。これは歌舞伎を殺す。岩淵庵室の長い立ち回り。二人の型が決まるたびに客席から締まりのない「拍手」がおきる。
「松島屋!」「大和屋!」と瞬時の掛け声で次にいけるのに、間があく。次のセリフの頭にかかると聞こえない。勧進帳で飛び六法で引っ込むところ、手拍子が起きると聞いた。手拍子では六法は踏めない。役者は無視するだろうが、これでは歌舞伎と言う演劇のリズムやテンポを殺す。本人はいいつもりでも芝居を邪魔している。だれか言うべきだ。
劇場で、話すのも禁止、食べるのも禁止と言うのは演劇の歴史を無視した近代科学至上主義者の暴挙であろう。劇場では話すのも食べるのも、息をするのと同じである。昔から「かべす」と言うではないか。それも人と接する劇場の役割である。東宝は爆撃下でも劇場を開けた。松竹にこの規制は劇場の根本を揺るがす、と言う人がいないはずはない。科学者は、それは場内弁当屋の提灯持ちと言うかもしれない。だが、演劇人にも、それがダメなら、死んでもいい、と言う人がひとりくらいいてもいい(内心ではみな思っているだろうが)のではないかと思った。
孝・玉で75年に京都南座で初演した桜姫は、NHKが当時3時間番組で収録放送した。その再放送が、なんと、大みそかの紅白歌合戦の裏番組(Eテレ)で編成された。終わると大みそかの除夜の鐘。バブル以前の日本は小粋な文化国家だった。