満足度★★★★★
エネルギーと輝きに満ちた作品
ボクラ団義vol.16「時をかける206号室」、いろいろ細かな感想は以下で述べますが、総括してとてもとても素敵な作品でした。もちろん初日から十分に完成された作品でしたが(当然のことのようで、千秋楽が終わってから振り返ると初日はまだまだだった、ということは往々あることですが、ボクラ団義さんはそれが無いというのが素晴らしいところのうちの一つだと思います)が、回を重ねるにつれてより一層深まり、勢いと輝きを増してゆくのを間近で観られて、とても充足感のある観劇でした。
本当はアンケートも記入したかったのですが、多忙かつ言葉がまとめられなかったので、ここで感想を述べます。冗長すぎる文章になってしまったので、もし万が一読もうと思われた方がいらっしゃいましたら、ざっくりかいつまんで読んでください(*_*)
ネタバレBOX
※ほんとに長いです※
ストーリーの構成がとても複雑で難解で、おそらく初見で全てを理解しきれる観客はいないでしょう。もちろん複数回観劇しないと全く楽しめない作品ではなく初見には初見の楽しさがありますが、謎解きをされてもなお理解が追いつかない部分は多々あり、もう一度観ないとすっきりしない感覚が残る点は、例えば劇団や出演者のファンでない観客にはネックなのかもしれません。
わたしは客演の役者のファンで、複数回観劇しましたが、何度観ても飽きることのない、毎回新しい感覚や発見を得られる作品というのも、なかなかそう簡単に作れるものではないでしょう。久保田さんのロジカルな物語は、リピーターを離さないなあと思います。もちろん一度きりの観劇で100%満足してすっきりと劇場を後にできる作品、というのも、これまた難しいものなのだと思います。
オムニバスとも群像劇とも、枠物語とも言えるのでしょうか。
とある空き部屋の内見に訪れた"男"に、突然現れた"女"が、この部屋で起こった出来事として六つの部屋の物語を語りだす。"男"にはいずれの物語も初耳で、時に同時進行の複雑な語り方に混乱しながらも、本当に起こったこととしてはいささかドラマチックすぎる話に驚いたり聞き入ったりしている。
観客の視点は、中盤までこの"男"と同じなのだと思います。初見ならなおさら。感じることも、疑問に思うタイミングも。彼の目線と思考がそのまま観客の目線と思考。しかし物語を全て知ってみれば、全てが乖離性同一性障害を患った"男"が過去の体験を元に小説として書いた物語であり、身に覚えがないのではなく、記憶が別人格のものとして切り離されているだけ。そこからはストーリーテラーの"男"と"女"ではなく、ある一室でやりとりを重ねる"父と娘"の物語が始まり、"男"と観客のイコールは無くなっていく。
"男"を演じる大神さんは普段とは全く異なる受信的な姿勢で、"身に覚えのない自分の衝撃的な重い過去"をひたすら浴びせられ続ける、ひどく消耗の激しい役どころで、精神剥き出しでぶつかっていく姿はとても引き込まれるものでした。
"女"を演じる今出さんは、相対する大神さんが精神剥き出しなのでそれとのバランスとして、内面的・心理的な描き込みの少なさが気になるところも若干ありましたが、まだ若くてお芝居の経験値もそう多くないのに、これだけの台詞量のストーリーテラーを担い、作品全体を牽引する役目を背負った覚悟とポテンシャル、本当に素晴らしいと思います。
各部屋の感想を。
201号室の柏木は、"妻を数ヶ月放ったらかして不倫相手の女と子どもを授かり、行く行くは妻と離婚し不倫相手と結婚しようとしている男"。あえて冷たく書き出してみると本当にひどい状況ですが、演じる竹石さんの醸し出す、なんていうんでしょう、クズ野郎感がとても魅力的で、当事者だったらまあ当然許せないのでしょうけど、観客であるわたしはついうっかり許してしまいそうになる。顔が良いって罪だなあ、と思います(笑) その妻(ミカ)・齋藤さんの強烈なヒス女、不倫中の婚約者(今日子)・明日香さんの馬鹿女、どちらも普段あまり振られないであろう役柄で、ご本人とも全く違うキャラクターなのでしょうがとてもハマっていて、女優さんってすごいなあ、と心底思いました。三者の関係はとっ散らかっているのに、お芝居はきちんと観やすかったです。齋藤さんは二十年ほど後にもミカとしての出番がありましたが、201号室時点での修羅場でとんがっていた角も取れて、年老いて丸くなった様子が、衣装やヘアメイクは少し変わっただけなのにしっかりと現れていて、声のみで芝居をして声のみに感情や情報を乗せることのプロですから、やはり当たり前のようにずば抜けて巧いなあと感嘆しました。
ミカが柏木の血を引いた今日子の息子・勘太を誘拐して姿を消したあとの今日子と柏木を描いた202号室。最愛の我が子を失い精神をおかしくした今日子・中野さんの、細く小さい身体で爆発寸前の大きな爆弾を抱えたエキセントリックさは、良く知った妻であるはずなのに恐ろしく、そんな妻と二人きりで生きることに疲れきっている、光の灯らない目をした柏木の沖野さん。状況としては悲惨なものであるはずなのに、あまりの悲惨さにむしろコメディに見えてしまう、という具合、絶妙でした。
"逃げ癖"が出てついに今日子を刺殺した柏木は出所後に小説家となり、編集者の女性と結婚。その二人が住む203号室。小説のネタのために様々な犯罪を重ねてきたことが明るみに出てしまった柏木・高田さんと、元編集の妻・平山さん。この部屋が最もダウナーだと感じました。ダウナー感はおそらく、大家さんが部屋の中に入ってこなくて、ひたすら夫婦ふたりのやりとりが続くところにあるのかなと。言い換えると高田さんと平山さんの、たった二人だけで世界を構築する力が必要だということなのでしょう。朝練などして随分と稽古を重ねたと聞いて(アフタートークで出たスタバver.の台詞合わせの話には笑いました^^)、その積み重ねの成果なのだなあと思いました。
これ以降は、ひとりになった柏木が、これまでの過去を振り返り、悔いの残る人間たちをモデルとして登場させた、フィクションの世界。
204号室は、"小説家の妻"と離別することになる最初のきっかけともなった、轢き逃げ事件の被害者の息子をモデルとした、漫才師の青年・亮太を加藤さん。その相方・カズキを図師さん。カズキは202号室の時代に今日子が誘拐してきた子供の将来がモデル。七海さん演じるカズキの恋人・幸子と、吉田さん演じる幸子の兄であるオカマ(本名は勘太)。幸子はミカの娘(柏木との娘ではない)、勘太は柏木と今日子の息子で、ミカが勘太を誘拐して二人を兄妹として育てたという設定になっている。勘太が借りたアパートの一室に、妹と妹の恋人・カズキと、その相方を住まわせている四人の暮らし。漫才コンビやオカマという個性の強いキャラクターがいることもあり、前半は暗く重くなりがちな作品を明るく賑やかな方へ引き上げていましたが、後半はそれぞれの生まれ育ちや家族のことが絡んできて、このチームの最大の見せ場、作品としても山場となる漫才の大会のシーンは、漫才という形をとりながら正直な言葉と本心のぶつかり合いで、とても良いシーンでした。
吉田さん演じるオカマの勘太は、とにかくオカマが板につきすぎていてハマり役とはこのことか、という具合でしたが、ただ単に"オカマらしい言動"をトレースしただけの、ステレオタイプのモノマネには全く見えないのがすごいなあ、と思います。実の母親ではなく誘拐犯に大人になるまで育てられてしまった、誰にも見つけてもらえない本当の自分から、見つけてくれない社会から逸脱しようとして、オカマであることを選んだのではないでしょうか。ミカが自分の知らない間に幸子に会っていたと知り半狂乱になるシーン、「アタシは言ったあの女に!今の幸子には絶対会わないでって!」と、こんなときでさえ作った言葉遣いが抜けないほど、本当の自分を奥にしまいこんで生きてきたのだなあと思うと悲しすぎる。イロモノをイロモノで終わらせない巧さが光るなあと思いました。
妹・幸子を演じた七海さん。控えめで口数は少なく、でもカズキへのフォローは欠かさない優しい恋人で、血の繋がらない兄は幸子が実の妹ではないと分かっていながら自らを犠牲にしてまで妹の幸せを願ってくれていることをきちんと知っている、聡い女の子。過去に久保田作品に出演された2本も観ていましたが、確実に進化・成長していてすごいなあと思いました。本公演に出られたことが泣くほど嬉しかった、とお話しされてたのが印象に残っています。また本公演に出演されたら、わたしもとても嬉しいです。
加藤さんと図師さんは、役柄でなく役者本人も呼吸の合った漫才コンビのようなところがあると思うので(笑)、もはやただの張り手である強烈なツッコミや、ストップモーションでの大神さんとの絡みやその他諸々、コメディリリーフの大家さんと並んで、笑いで息を抜ける、この作品の救いでもあったなあと思います。大会シーンの図師さんは、笑かそうとするのが逆に泣けて、無理して明るく努める様が痛々しく感じる、とても繊細なバランスでコミカルとシリアスを両立させ、その二つの間に段差を感じさせない巧さには驚きました。これまでコミカルな役ばかり観ていたので余計に。
このシーン、台詞で牽引していくのは主に図師さんですが、触れられたくない"抱えてきた闇"をネタにするカズキに対し本気でキレて、胸ぐらを掴み上げたり怒鳴ったりする亮太の、傷のいっぱいついた心が、シーンをよりいっそう深めていたのだと思います。図師さん/カズキの作った明るさだけでは芝居は締まらなくて、母親を轢き逃げで喪った亮太の痛ましさや、自分を失い抑圧されてきた勘太の怒りや不足感、それら噛み合わない相反するものの衝突は剥き出しの心のぶつかり合いみたいで、きっとあの芝居をするのは、心底楽しいのだろうと思います。
205号室は、"おじさん"と呼ばれる老いた柏木がモデルの男・中村さんと、"おばさん"と呼ばれる母親のロールを引き受ける女(ラストでモデルがミカだとわかる)・大音さん、204号室でも登場させた轢き逃げ被害者の息子・亮太がモデルの"若い男"・福田さんと、ミカの娘・幸子がモデルの"若い女"・大友さんの、劇団員四人による部屋。血の繋がらない者たちが、家族の温かさを求めて家族ごっこのルームシェアをしている物語。この"血の繋がらない"という言い方がちょっとズルくって、亮太はもちろん他人だし、柏木とミカは夫婦だけど夫婦という間柄には血の繋がりは無いし、ミカの娘である幸子の父親は柏木ではないことは判っているので、柏木との血の繋がりはないのですよね。ちょっとズルい気もしますが、あとで気づいてなるほどなと思ってしまいました。
それから一瞬だけ、突然脈絡もなく"家族に囲まれるような部屋がいい"という小説家志望の若い女の子(今出さん)が現れる。もちろんモデルは、離別した後に"小説家の妻"との間に生まれたであろう自分の娘。乖離性同一性障害であるということで、"男"は自分が"女"を小説に登場させていたことを色々知らされたあとで気づきますが、顔を見ることも叶わなかった実の娘を、家族の温かさを求める部屋に一瞬だけでも書き加えていたことがわかります。
明確に筋立てのある204号室とは違って205号室にはストーリーがなく、ただひたすら楽しげな"家族の団らん"として、ゲームに興じている様子だけが描かれていますが、現在の柏木(大神さん)が全てを知ったあと、自分たちの過去を見つめたり、偽りのロールではなく本当の間柄としてお互いを認めたりするラストが加筆される。大友さんの「ねえ、お母さん」と大音さんの「んん?そうね」がまさに万感交到る、といった感じで、やけに掠れた大友さんの声と、あえて気の抜けたような大音さんの柔らかいリアクションが、きゅっと胸を締めつける切なさでした。
204号室と205号室は、現実の三部屋と比べて救いがあり綺麗で、切なさはありながらもエンディングは幸せなストーリーで、だからこそ引っかかるのが、柏木という罪深い男の"エゴ"です。
この作品で語られるのは、柏木が書いたフィクションの中の住人である彼らのみであって、例えば、まだ幼い頃に母親を轢き殺された青年の実際は描かれませんし、今日子が誘拐してきた赤ん坊が実際にどんな大人になったのかも分からないし、今日子が案じた"この子が将来何を思うのか"の答えが"たった二日間だけど大切にされた記憶がある"だなんて事実もありません。
どんなに彼らが幸せになる小説を書いたところで、轢き殺した女性が生き返ることはないし、誘拐という行為で幼い子どもとその家族に落とした暗い陰が晴れることもない。自らの不逞のせいで全うな人生を与えられなかった息子に、漫才師という賑やかな友と、自分を選んでくれる妹という、心安らぐ家族を与えることもできない。想像の中の贖罪に過ぎません。
でも、そんな柏木でも嫌いになりきれない(創作上の人物を本気で嫌うのもおかしな話ですが)のは、やはり柏木を演じた4+2人の役者の持つ魅力によるものなのだろうなあと思います。
屈託のない笑顔と甘い声で常識を外れたことを言う竹石さんと、やつれて疲弊しきって生気もないのになぜか惹きつけられる引力のある沖野さんと、おおよそ常人には理解し難い理由でいくつもの犯罪を行ってきた底のない沼のような、駄目人間を極めきったようなどうしようもない存在なのになぜかどうしようもなく愛してしまいたくなる高田さんと、フラットで空っぽ、何ひとつ知らないという観客と同じ地点からスタートした、全てを被る主役の大神さん。リズムゲームのリズムは全く取れないし「流れ」なんていう若者のワードに馴染めない、老いた鈍臭さがチャーミングな中村さんと(老け役については本当に中村さんの右に出る者はそういないなと改めて思いました)、ただひたすらに娘という存在を認め頼り、なにより愛してくれる、幸せな甘さのある雄一さん。六人もの容姿も声音も芝居も違う役者が同じ作品の中で同一人物を演じることが通用する、舞台の面白さや可能性というのも、ここで強く再認識しました。
"女"が書いた206号室の"娘"と、感想の流れに組み込めなかった部屋の外の人たちについて、ここでまとめて。
"幸せそうな娘"松嶋さん。優しい父親と暮らし大学へ通い、友達ができたと嬉しそうに報告をする、ごく普通の平凡な、そして平凡だからこその幸せを当たり前と思わない聡明さが魅力の女の子。松嶋さんは笑顔が良く似合うなあと思いますが、千秋楽の三回目のカーテンコールでの涙もとても印象深いです。
"太った男"内田さん。しばしば体型をイジられますが、それだけで笑いをかっさらえるのは強みだなあと思います。痩せないでほしい。柏木の書く話ですから元カノが他の男との間に生んだ息子に金をせびるようなキャラとして描かれていますが、内田さんのどうしても悪い人間には見えない滲み出る人の良さも、これまた強みなのでしょう。でも、救いようのない悪役も観てみたいですね。
"刑事"添田さん。本人たちは至って真剣なのにはたから見ればコメディ、な沖野さんと中野さんとのやりとりの絶妙な間合いはさすがだなあと思います。"疲れた夫"を案じ、出来る限り穏便に事件を解決しようと試みる姿に人間らしさと優しさを感じました。
"編集者"春原さん。ダウナーで緊迫した203号室に高いテンションで入ってくる、その空気の読まなさ、ふたりに引きずられることのない自由なスタンスがとっても面白かったです。どうにかして本林を引き離したい気持ちでいっぱいの柏木の後ろを、そんな気持ちは御構い無しにひっついて回る、悪意のない圧迫感が秀逸だなあと思いました。
"不動産屋"糸永さん。台詞回しや動きにある独特のゆるっとした空気が大好きです。実直で誠実そうな印象なのに、ちょっと幽霊の真似事で脅されたらすぐに退散してしまうようなところも最高です。斜めに射し込んだ陽光とジリジリと鳴く蝉の声とでリアルに作られた"106号室"に、さらにもうひとつリアルさを足す存在でした。
"大家"椎名さん。全ての章を同じ世界に存在する同時進行の話であるかのように繋げる役目を持つ、影の立役者でしょう。一番多くの役者と絡む役でどの部屋でもよく馴染み、コメディリリーフとしても120%完璧で、完璧でありながらもとても親しみやすくて、なんとなく忘れてしまうんですが、ボクラ団義初客演なんですよね。椎名さんの大家さん無しではこの作品はうまくいかないのだろうと思いました。
公演期間の終盤でやっとわかったこと。
「時をかける206号室」という公演タイトル、"女"が手にしている本のタイトルも同じく「時をかける206号室」としている。ただし柏木が書いたのは第五話、205号室まで。"女"は「言ってないよ、不動産屋さんはここが206号室だとは一言も」などと言うけれど、一番最初に部屋番号について言及したのは"女"の「隣には205号室だって207号室だってある」という台詞。観客は「時をかける206号室」を観に来ているので、何の疑いもなくここが206号室だと思い込んでしまう。
物語を語り聞かせる"女"は、他でもない小説家・柏木祐介の書いた物語の続きである"206号室"で新たな小説を、そして父親・柏木祐介と、小説ではなく本当の暮らしも書き始めたかったのだろうな、と思った。「もっと重要だったのは、これから見つけるもの」だから。
本当にひどくまとまりのない感想でしたが、とにかく本当に本当に心底楽しかった作品でした。
今回で言えば盆なんかはそれこそ文字通り力を合わせなければ成立しないものですし、それだけでなく芝居も裏方も制作も、全員で協力してフル稼働の全力で創り上げた作品の、それによるポジティブなエネルギーの塊のようなもの、その熱をしっかりと感じました。劇団っていいなあ、と思いました。これからも素敵な作品を真剣に全力で作っていける劇団であるように、さらなる活躍を、飛躍を祈っています。
素晴らしい作品を、ありがとうございました(^○^)!!!!