tottoryの観てきた!クチコミ一覧

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YSee

YSee

BATIK(黒田育世)

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2023/11/09 (木) ~ 2023/11/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

つい先日観たイデビアン・井手茂太氏もゲストの一人で出演との由(他に奥山ばらば等)、そして舞踊家・黒田育世は一度再演(若手にレパを踊らせる企画)を目にし、もっと観てみたいと思った人。
ただ事前に紹介を読んで調べた上でなら行かなかったかも?・・ というのは、本公演のタイトルはジョアンナ・ニューサムという女性シンガーのアルバム・タイトルから取ったもので、全編にこの少し幼げな響きのあるハスキーボイスが鳴り渡る。舞踊はその伴走者となる音楽が大きな要素であるが、この歌手の世界が「自分に合わないな」と感じながら観る事になった。中盤から民族音楽的アレンジの長尺曲が流れたりと、好みに重なる部分も出てきたし、眼目となる後半の出し物は集中して観れた。ただし音楽に酔う舞踊鑑賞とはならなかった。

厳密に言えば、音楽だけが理由という事でもなかったかも知れない。舞踊家それぞれ振付の傾向があり、今回は黒田女史の傾向を知ったが、冒頭の演目では感情的な衝動、「床叩き」や「自分叩き、ないしは動作の突然の中断」が挟まり、怒りや自傷の衝動が表出して見えた。苦悩が表現されている。
だがそうしたネガティブな感情は文脈を要すると思う所である。恐らく曲の歌詞の中にそれはあるんだろうと想像されたが、歌詞を知らない者にも届く舞踊表現としては、年輩の踊り手の機敏な身体性、技術を感心して眺める事にはなったが、作品としては「分からなさ」の中へ沈んで行った感じだ。他に覚えているものでは井手氏と奥山氏二人の「熊と猿」という曲で実際に前者が猿、後者が熊を演じ、ユーモラス。その井手氏と黒田氏のデュオも男女カップルの恋模様といった風で微笑ましい。大勢の若手も含めた群舞は見応えあったが、具象的な動きが混じるその示す所を掴み切れず、これも歌詞を見ないと分からないものかな、と。
バリエーションの幅があり楽しめる公演であったが、終わってみてもやはり音楽の要素は大きかったかな。

君は即ち春を吸ひこんだのだ

君は即ち春を吸ひこんだのだ

新国立劇場演劇研修所

新国立劇場 小劇場 THE PIT(東京都)

2023/11/07 (火) ~ 2023/11/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新国立主催公演以上の成果が視られる事のある研修所公演。今作は卒業生の補助無し、18期生のみの舞台だったが、出色。老齢の役があるが、年齢差のハンディはむしろ「にも関わらず」の域。主役の正八(新美南吉)、幼馴染のちゑ、教え子の初枝の風情がいい。「日本の劇」戯曲賞受賞記念の公演よりも作風に迫っていた。(私がしばしば不評を言う田中麻衣子が演出。見直した。)
童話作家として評価されて行く新美南吉の評伝劇というより、内的世界の軌跡を眺める趣きがあり、そこにスポットを当てたくなる人生であったりもする。彼を通り過ぎた「事実」は衝撃であったりするが、周囲ほどには彼は騒がず、飲み込む。だが観客はその心模様を想像する。それは舞台上の風景やちょっとした彼の仕種や数少ない台詞の中に痕跡を残し、彼が文字を書いた実績によるのでない、彼の内的世界が「存在した」事の中に、意味がある、と感じられてくる。
そしてその事を確かめるために、彼の童話をこれから、開く事があるのかも知れない。

イサク殺し

イサク殺し

公益社団法人 国際演劇協会 日本センター

シアター風姿花伝(東京都)

2023/10/13 (金) ~ 2023/10/15 (日)公演終了

映像鑑賞

満足度★★★★

同団体主催で2020年コロナ禍下で観たリーディングの演目だが、今回はどういう経緯か同演目を同演出、大部分同じキャストにより再演。配信で鑑賞しながら、ある施設で劇を演じる、というメタ構造が次第に混沌としてくる中、彼らの背景である「戦争/紛争」、それが個々人に及ぼした影、それぞれの立場が吐かせる論理が表出する。
井上加奈子女史の声に宿る迫力、今回配役されたモダン・西條氏の喋り、他の熱量ある俳優が長尺のリーディングを躍動的に作り上げていた。
イスラエル作家による自(国)省的と言える戯曲だが、今の戦禍がこの戯曲の続きに書き込まれざるを得ない事を感じる。

尺には尺を / 終わりよければすべてよし

尺には尺を / 終わりよければすべてよし

新国立劇場

新国立劇場 中劇場(東京都)

2023/10/18 (水) ~ 2023/11/19 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

新国立研修所公演で観ていた演目。とは気づかず、悪コンディションで20分遅れて辿り着いた後、寝落ちしながら観た。初見の向きには冒頭の「仕掛け」を見逃すと筋を追うのは厳しいだろう。朦朧として一幕を終え、休憩中「あらすじ」を検索、「あーあれか」と後半は面白く観た。
研修所の上演はシェイクスピアの隠れた名作と思わせた。ウイーンの王が旅に出ると言ってその間の統治をある有能な臣下に委ね、自分は僧侶に扮して国内に留まる。王の「気まぐれ」により、治世が変り矛盾が極まるのだが、騒動を収めるために後半は僧侶(王)が奔走し、最後は己の地位と僧侶に扮していた事実を明らかにして事を収める。喜劇なのではあるが、ある意味で社会実験とも言え、法とは何か統治はどうあるべきかの問いがある。法は絶対ではなく人々のためにある、という当然の前提が転倒し、庶民に厳しい割に上層が治外法権のように守られてるかの局面を目にする現代、治世はかくありたいと願う心には響く。
今作は喜劇性を追求し、手練れの役者を配して素に戻る系、客いじり系、熱烈演技系その他縦横無尽に美味しく場面を展開させる。(「ローゼンクランツとギルデンスターン」や「モジョ・ミキボー」での鵜山演出を想起。

『ガラスの動物園』『消えなさいローラ』

『ガラスの動物園』『消えなさいローラ』

Bunkamura

紀伊國屋ホール(東京都)

2023/11/04 (土) ~ 2023/11/21 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

渡辺えり「死ぬまでにやりたい事やる企画」第二弾(勝手な命名。「ぼくらが非情の大河をわたる時」を上演した時のトークだったかでそういう意味の事を語っていた)。値が張ったが早めに予約、行ってみると特等席のような良席であった。
「ガラスの動物園」の実演は昨年のフランス語上演が初めてだったが、今回の上演(渡辺氏のアレンジが加わっていそう)はひどく納得させられた。昨年のイザベル・ユペールの母役と舞台セットでは、社会の底辺感、隔絶感が些か乏しかった。渡辺バージョンはローラ(吉岡里帆)をやや精神病みも入った痛々しい娘にし、母役の自分は一家に君臨する女王(自分では献身的だと思っている)、これが見事であった。語り手のトム(ローラの弟、尾上松也)は、父親のいないこの家庭での生活に倦んでいるが、回想シーンとして全編が演じられる戯曲の構造を反映して松也を各所で見守り、黒子的に手を貸す役目に付かせている。コントラバス、バンドネオン、ヴァイオリンの生演奏も、演奏者と絡ませる演出もスタイリッシュでユーモラスで救いのない悲劇の物語を包み込んでいる。
別役実作の方は「ローラ」とあるからこの作品に寄せた翻案された作品だろうとは読めるが内容は知らず。果たしてバランスが取れるのか、同時上演が成り立つのか、不安ながらに期待して観た。笑いでコントラストを付けるのも手だ、、とそちらの予想は外れ、思索に誘う抽象度の高い作品、これを演出がどう締め括ったか。ネタバレしないでおく事にする。

ハムレット

ハムレット

明治大学シェイクスピアプロジェクト

アカデミーホール(明治大学駿河台キャンパス)(東京都)

2023/11/04 (土) ~ 2023/11/06 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

明大シェイクスピア二度目の観劇。月曜の千秋楽を観せてもらった。四大悲劇で最も有名なハムレットはやりではあるが男役が殆ど(女性はガートルード、オフィーリアのみ)。それでも女性の男役はホレイシオくらいか。男手の多さは目を引く。芝居的には性別よりは年齢的ハードルが大きい。クローディアス等中年男のいやらしさ、もとい風格を醸すには。
大ホールと言える劇場には宮殿内部が横広、中央がやや高程度の二階立て、踊り場的スペースが上手に。中央は階段。その上が王座にもなるが幽霊の出る森にも。
ハムレットの初登場は新王が妻を侍らせ演説する中、平場の端っこに腐った様子で立つ。父が亡くなって喪が明けぬ内に母は叔父とくっ付いた、と独白(毒吐く)。
新王曰く、先王逝去の悲しみが癒えぬ時ながら我がデンマークも内憂外患、我々は先へと進まねばならぬ、ガートルードを我が妻に迎える事にした(拍手)云々の(原作を知る者には)憎らしい台詞、そして唯ならぬ亡霊の出没に慄く家来達がこれを王ではなくハムレット(直属の家来かつ友人でもある)に聴かせる事で「疑惑」がこちら側だけの了解事項となる見事なお膳立て。旅一座を使ってその確証を得るまではサスペンスであり、復讐への道が開かれると思うや敵も去るもの、迂回を余儀なくされ、出し抜かれるも生還した、さあいよいよと最終段階に差し掛かって不吉な予感、先手を打たれ敵を倒すも非業の死。誠実に辿って描いた明大シェイクスピア。
管弦楽器での生演奏、途中の遊びのシーン(ローゼンクランツとギルデンスターンなる今作中最も哀れな登場人物の浮薄な描写、墓掘り人のシーン等)もしっかり作り込み、全体には学生演劇らしい背伸び感はあるものの役に迫ろうとする直線的エネルギーは若者のイノセンス。
今回は番外編的企画も多々あり、そのバイタリティに敬服する。

皇国のダンサー

皇国のダンサー

劇団黒テント

ザ・スズナリ(東京都)

2023/11/01 (水) ~ 2023/11/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「亡国のダンサー」(2017.3)から6年半。この年は年末に坂口氏作「浮かれるペリクァン」と劇団公演が二つもあり、春にはハット企画「シェフェレ」、年明けには滝本女史による「4.48PSYCHOSIS」と陰なる黒テント応援団にとっては嬉しい一年だった。
ファンとは言っても創立者佐藤信作品との縁は薄く、最初が「メサスヒカリノサキニアルモノ、若しくはパラダイス」(松本大洋作・斎藤晴彦演出)初演と再演で幸運な出逢いと言えた。次に観たのが佐藤氏作演出「絶対飛行機」。「亡国」はそれ以来だから15年。座高円寺では演出作品を2本程観たが、何気に抽象度は高い。今回も覚悟して臨む。
「亡国」はその空気感、絵面が魅力であった。物語の解らなさは渡辺えり子作品並みだがこちらは大きな波長での演劇的ドラマ性がある。佐藤作品は印象的な断片が連なるが詩のような構成で頭脳を刺激するが骨太さ(身体的躍動?)は感じない。読み取り力の問題だろうか。
「絵面」と言えば服部吉次氏の存在は記念物指定ものである。(演出も間違いなくこれをどう活かすかを考えたろう。)外見からの観測だが齢八十になりなむとする小身が軽やかにステップを踏む。コールでの礼の絶妙な間合い(希代の一座が鳴り物入りで芝居を打ったような、団員の面映い顔も仄々として来る送り出しであった。)

ネタバレBOX

アングラの教科書に載る状況劇場(唐)、天井桟敷(寺山)、転形劇場(太田省吾)そして黒テント、前者二つはテキストの上演が多く、テキストに劇的世界が書き込まれている(唐作品はその演出形態を縛りそうだが)が、後者の太田省吾は舞台上演の思想を体現するためのテキストを書いた人だ、と見て取れるのに対して黒テントは捉え所がなく定義付けが難しい。流転の劇団であり様々な試みを行いその時々のムーブメントに関わった者は多様に存在する。だが劇団本体はイワトでの試みから撤退して雌伏の時を経てしぶとく芝居を続けている。独特の舞台世界を今後も生み出してほしいが流浪の芝居屋の本姓は「完成」を期する事は無いものと踏んで今後も動静を見せて頂こうと思う。
(今回は劇団総出という事だったが平田三奈子、内沢両氏が体調で降板、久々の立ち姿は観たかった。)
アメリカの怒れる父

アメリカの怒れる父

ワンツーワークス

駅前劇場(東京都)

2023/10/26 (木) ~ 2023/11/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

いつもの赤坂REDに行きそうになっていけねえいけねえ、今回は下北・駅前であった。(劇場を間違えた事は流石にないが、、いや途中で気づいて断念した事があった。開演時間を30分間違えた事は数知れず。。)
最近は二回に一度の観劇頻度となったワンツー、今回は韓国戯曲と珍しい。数年前韓国現代戯曲リーディングでやって題名を覚えていたが、舞台を観てその片鱗も思い出せなかった。アフタートーク及び後で資料をめくってみて合点。リーディングでは随分寝落ちして絵面の記憶からも内容が思い出せず、また今回は元戯曲のドキュメンタリー要素を切り「ドラマ部分のみ」の上演としたとの事。そして本作は題名通りアメリカの、アメリカ人の父の話で韓国との関係は無い(その意味でも珍しい戯曲)。奥村氏が父役を力演。9.11同時多発テロとイラク戦争が背景。正にワンツーのテリトリーであった。

(以後内容についての感想、慣れぬスマホで書いた長文が消え、二度目は途中で前画面に戻って消失。少々げんなりしたのでここまでにしてまたいつか。。)

金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima

金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima

東京芸術劇場

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2023/10/20 (金) ~ 2023/10/26 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

ギリギリまで迷って結局観てきた。フランス発のかつて世界的に話題をさらったというこの劇団が、今存在していたとて、往時のものとは変わってるだろうし「過去」のネームとは切り離して観るのが正しいのでは?とか、でもそれだと観る価値も半減するなあとか、ぐじぐじと考えていたのだが、思い切って足を運んでみて良かった。
大局的には劇団とは時代や潮流から生まれ出るもの、だがその特徴を担う演出家なり作家、スタッフまたは俳優が作るものでもある。太陽劇団は演出家が健在で、老体を鞭打って作っているのだろうが口は闊達な女性がアフタートークで「今も作り続けている」現役の喋りを繰り出していた。
舞台は休憩込みで3時間超に及び、装置、舞台機構、仕掛けや俳優の技を惜しみなくぶち込んだ趣向の数々で、日本の佐渡島(金夢島)に居る、と思い込んでいる女性(演出家)がベッドの上で夢見る風景が芝居になっている。だからジャポネスクなデザインも中途半端だったりてんこ盛りだったりカリカチュアしても成立する。中々なアイデアである。
内容をだいぶ忘れてしまったが、金夢島に利権を漁りにやってきた「おぬしも悪よのう」な悪役を出し抜いたり、佐渡島らしく能舞台をそのイベント会場としたり(そこそこ広いその舞台は可動式のピースを瞬く間に組み替えたりはけたりする)。喜劇調が基底にあり、時に辛辣な批評性高い場面を織り込んだりする。その部分は新鮮であった。例えば、あるデモか集会の様子を実際の音声で聞かせたり(その場面はそのまま暗転し観客に投げ切りとなる)、様々な言語で詩が読まれたりする。訳語を字幕で追うのみだが、魂の叫びが聞こえる。終盤、眠っている老女(金夢島に居ると思い込んでいる演出家)と夢の中の相手?と、詩的な言葉の断片を投げかけ合うゲームをやる。その断片が勿論訳語であるが鮮烈な印象の連鎖となって浮遊していく。
演劇が総合芸術であることを実感させる気合いの入った舞台で、多彩なものを織り込んだこれに該当するタイプを思いつかないが、舞踊作品の抽象性に匹敵し、かつ物語性もある。規模の大小を問わねば総花的・寄せ鍋的な舞台は日本産のを観ていそうだ。初めての感覚というのでなくある種のセオリーに則っているが、個々のアイデアは目が覚める。機構的な演出は宮城聰を思い出した。日本の伝統芸能のエッセンスが、日本人以上に(外部からアプローチするからこそのざっくりな捉え方で)デフォルメして表現されたりするのは楽しい。カタコト日本語を飛び交わさせる場面もあり、笑いを起こすような「いかにも」な場面がチョイスされてるのもセンスである。4、5回コールがあって、演出家が呼ばれて漸く収まった。

へたくそな字たち 【神奈川公演】

へたくそな字たち 【神奈川公演】

TOKYOハンバーグ

ラゾーナ川崎プラザソル(神奈川県)

2023/10/12 (木) ~ 2023/10/16 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

追記をしようと思ったら、未投稿だった。何度か推敲して送らず下書きが残っていた。
・・以前この作品を観た印象から随分変わったのが、(戯曲の若干の改変も恐らくあったのだろうが)芝居の質感と言おうか、演劇的作為にも関わらず生々しさが微妙に勝っている肌触りである。劇場も異なり、今回は俳優を間近で凝視した。勿論俳優の布陣も異なり、良い座組であった。

同じ作演出で今春、一人芝居を打った松熊つる松を、間近で見ていたにも関わらず気づかず(この人いい感じで演じてるな~、と)、観劇後にパンフを見てあっと気づいた。役を見せる優れた器であり、この人の風貌は中々視覚的に覚えられない(普通は顔より名前が覚えられないのだが逆に名前は十年以上前の初見から覚えている。まあ特徴的な名前であるからして)。
ベテラン女性教員に槌屋絵図芽。毅然とした姿が感情豊かなキャラ、これがさほど多くない台詞の合間の風情から立ち上っている。これ以上ないキャスティングだ。この役については後述。
新任教員の片平喜録との対象も、おいしい。
廃品回収のトラックを転がす兄貴(つうかオヤジ=甲津拓平)、そこに上から声が掛かるので見るとノッポの孤児出身の青年(山本啓介)が建築現場で鳶をやってる。脇からもう一人中国訛りのシュッとしたの(脇田康弘)が覗く。内装業者として入ってるのだという。学校以外のプライベート(というか仕事)の時間に、三人が揃う絵に描いたよなシーンが、演劇表現の「省略」とも、偶然の出来事のようにも見える両義性が、何気に高度である。
今時の若者(と言っても舞台は1980年代だが)を吉本穗果が演じ、ヤンキーが入ったキャラが周囲に存在を許されてるのが救いにも見える生硬さが、あるとき、動物園に親戚が居るという新任教師の手引きで彼らだけに「それ」の見学を許された日に、忘れ難い変化を刻む。吸い込まれるように「それ」を凝視する彼女は、犀(だったかな)の出産に説明不能な感覚を覚える。人ではないその存在が、嘘で覆いようのない実在を、自分もそのように生まれたという否定しがたい事実と重ね合わさるようにして、だろうか、彼女を打った事が伝わってくる。
授業中にお喋りな中国人男性が歴史についての自説を語り、韓国からのニューカマー(橘麦)もまじえて論争になるのもいい。言い合う事の醜さ、ではなく清々しさがある。
現役を引退して中学に入学した天ぷら職人のおじいさん(山本亘)が、ある意味で中心的な役柄となる。小さな工務店社長である彼の息子(飯田浩志)に連れられ学校を訪れるのが冒頭のシーン。応対する副校長(藤原啓児)の真面目でお間抜けなキャラで冒頭の笑いを掴み、彼がハケた後で現われるおじさん(宇鉄菊三)が先生に間違えられ、気を良くして暫くそこに居続けるという古典的な笑いも。中盤その背景となる回想場面では、夜間中学の先輩である鳶の兄貴の嫁さん(これも孤児出身の肝の据わった姉貴=橋本樹里)との二人の部屋を訪ねて来たのがその息子。兄貴の建築現場の現場監督で、夜間中学の相談を切り出すまでにその兄貴が字が読めなかった経緯を蒸し返して語り出すので、聞いてる内に戦闘モードに入った姉貴が彼に詰め寄るというエピソード紹介である。(これで全員出たかな?)もう一人。町屋圭祐氏演じるのが軽度の障害を持つ青年。片足が不自由で引きずって歩き、顔をゆがませて喋るが自分でやれる事を淡々とやり意思が明確で自分の意見を持つ、集団の成立が実はこういう存在に助けられている事が多い、ムードメーカー。

最も紹介したかった場面は、野外授業である。
段々とグループに分かれて、分からない漢字を書き取る。「あれは何?ええと、○○とあるから、ああで、こうで・・」と言い合うのだが、観客にすればこれは連想ゲーム。正解まで親切に言わせないのがいい。結局分からないものもあったが、ギリギリ、辛うじて「あああれか」と分かったものもあった。クイズを解くというよりは、彼らの未知の物を探る「目」に同一化して行くこれはプロセスになる重要なシーンだ。

そうした彼らの「学校」生活も終わりを迎える。その場におじいさん生徒はいない。代わりに卒業証書を受け取りに来た息子が挨拶をする。そして読み上げられるのが、彼ら一人一人に出されていたが、提出に至らず置かれていたので持って来たという「自分の手で書いた手紙」の宿題。おじいさんの言葉を卒業式で聞く。吉本が「何のための学校だったのか」と荒れる。そして劇中、ある授業で先生が出した質問におじいちゃんが答えたその答えが反芻される。

実は終盤、おじいさんが教室に居て、授業が中々始まらない、副校長が槌屋先生を慌てて呼びに来るが居ない、どうしたんだろうという場面がある。最初はのんびり構え、やがて何かを察した生徒らが全員いなくなった後、おじいさんが黒板の空白に書かれるべき字を書いて去るのであるが、照明変化に気づかなかったためか、おじいさんは「実在している」と見てしまった。だから槌屋先生が何に、誰に(どの緊急事態に)向かったのかを終劇後まで探っていた(何か見落としたエピソードあったっけ・・と)。
だから終わりへと進んで行く劇に本当は付いて行けてなかったのだが、おじいさんは既に亡くなった後か、または息を引き取る前、魂がこの教室を訪ねた、という事だったのだと解釈した(実はそれで合っているのかも自信がないが、まあ多分合ってるでしょう)。
山本氏はあの山本学、圭兄弟のその下の弟だと言う。兄二人程には映画・ドラマに出なかったが俳優を続けて年輪を刻んだ人だったのだな。

ネタバレBOX

槌屋絵図芽女史演じる教員の姿を見て、想起したのは(例によって引用恐縮)宮台真司が最近よく言う「空気を変える人」の事だ。

日本人は「平目キョロ目」で自分の主義主張や思考で物事を決められない人間が多い、という事から、その弊害として、空気を読まずに勇気を持って本当に思っている事(正しいと思う事)を発言する事に困難が生じる。
ある調査によれば、貴方はクラス(集団)に何人の味方(又は頼れる人)がいたら、曲がった事を正そうと提案する勇気を持てるか? という設問に対して、諸外国では2,3人または数人いれば言える、と答えたのに対して日本は「クラスの半分」だったそうである。
事程左様に日本では、いじめをやめろ、と言える人間が(全員がそう思っているので)少ない。つまり悪い事態を良くしようと提言する発言そのものが出づらい土壌がある、という訳だ。
だが例外がある。そのクラスを導く教師が対等性を重んじ、公正さを重んじ、小さな意見にも耳を傾けようとする、毅然とした態度を貫ける人間である場合に、ガラッと空気が変わる。生徒は物が言えるようになる。
それは地域のリーダーにも集団や組織のリーダー的存在、引いては国のリーダーにも言えるかも知れない。安倍が自分を批判する人間を敵と見なして我が方に付く者と批判する者とを分断するタイプの政治家だったことは、上記の条件とは真逆。寄らば大樹と寄りかかる人間を作り出し、己の考えを貫く人間にとっては困難な空気をより押し広げた。
人の道を重んじる「大人」がそこに居るか否かで空気が変わり、人の振る舞いが影響されてしまうという事であるが、日本では、そのキーマンがいなくなったら、元の木阿弥となるのが悲しい。
自律的な振る舞いに慣れていないのが日本人のスタートラインだとすれば、この意識の変革には歳月を要するだろう。

劇に戻れば、夜間中学では損得を度外視して「関わる」人の輪がそこにあった。芝居はその事が裏付けを持って感じられるものだった。
時代設定は1980年代後半で、既に高度成長期を終え不況~バブルを迎えたあたり、競争原理が可視化された「偏差値」教育の場とは一線を画した、夜間中学という場所がそれをもたらしている事は明白で、ぶつかる時はぶつかる本音のコミュニケーションが書き込まれ、美化されていない。関係が自然に成立している事の裏付けがディテイルで充実していたのが、前回観たバージョンを超えてたなと感じた部分。
吉良屋敷

吉良屋敷

遊戯空間

シアターX(東京都)

2023/11/01 (水) ~ 2023/11/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

手当たり次第にあれこれ芝居を見始めた頃、あの気分は震災後のまだ余震を錯覚してしまうような時期だったが、はじめて遊戯空間を見たのもそんな時期で、とある寄席で行われた「仮名手本忠臣蔵」全通しがそれだった。
その後和合氏の詩の劇や、その他ユニークなパフォーマンスを観た。私が何に惹かれているのか、と自問してもうまく言えないのだが、伝統的演目でも現代詩でも、原典に対する折り目正しきリスペクトと、飽くまでもそこに立つ所から必然的に生まれる演出趣向に留めている事(という感触)、要はストイックさと言えるか。
「吉良屋敷」も飽くまで遊戯空間のその在り方をベースに、であるが、贅沢な舞台であった。吉良邸内という閉じた場での悲喜劇として描いた井上ひさしの作とは、同じ「吉良邸内」でも趣きが異なり、最終的に吉良側にシンパシーを覚える描き方をしている。そのあたりは意見は様々かも知れないが、閉塞感よりもむしろ広がり、多彩な場面から吉良邸の日常(と言ってもこの日はハレの日に当たるがそれも含めて)が浮かび上がり、趣向の数々が贅沢かつストイックに舞台を彩っている。
雪が降っている、と読み手が伝える。「その日」であると分かる。その瞬間までの十数時間が、それとは言及される事なく(なぜなら吉良邸の者はその日が何の日になるかを知る由もない)、淡々と時が過ぎる。

ネタバレBOX

琴が鳴っている。尺八が鳴る。篠笛、後半の緊迫の場面で呼び子が鳴る。そして、琴と、尺八。
シアターXのせり上がった舞台奥に襖戸、開いた中央に演奏者二人が見える。人物皆、和の正装。場割は細かく、登退場は歩いてその位置に付く様式で行なう。能の要素がある。舞台より下、左右端の床に立つのは二名、篠本氏、観世氏。ト書きを読む格好。物語の誘い手である二人の圧巻は後半、いざ討ち入りの後、演者は皆無言で動き、阿鼻叫喚の様は文章の読みで伝える。死体が累々と折り重なる。この作品の特徴と言えるのが、鎖帷子に身を包んだ浪士たちに討たれて行く吉良邸の要人ら一人一人の動きや吐き捨てた言葉、死に方、享年が読み上げられて行く描写だ。
残酷な末路はギリシャ悲劇もそうだがある種の高揚をもたらす。津波、ISによる処刑、悲劇的な場面は人を嗚咽させ、凝視させ、身体作用を促す。
赤穂四十七士がやった事とは何だったのか、義憤を晴らす爽快さとは異なる感情に襲われる。
役者のストイックが演技も良い。
この日はお茶会が催される日である。誰それは巷の噂(赤穂浪士が吉良家を討ち入る等という)を気にしてか今日は欠席された、あのお方がこの日を定めたにもかかわらず・・といった会話が交わされている。新しい女中が赤穂の者と通じていると指摘され言い逃れる場面もあるが決定的な事とは思われないあどけない少女。と、玄関が賑わしい。来客が並び、茶を点てる吉良。そして吉良上野介の子息・義周(よしちか)が舞いを披露する(ここは篠本氏の「謳い」をバックに)。宴席は盛り上がり、夜は更ける。赤穂の姿が近頃見えんが・・に、筆頭剣士答えて曰く、江戸の外れの本所では周囲から常に見張られていると思うべし、警戒怠りなきよう・・「何だか辛気くさくなったわい」「明日から心して掛かろうぞ」等の会話。
家人が寝静まった深夜、寅の刻と言うから午前四時(三~五時)、「火事だ~」という声で起こされた門番が突かれ、火蓋が切られる。やがて長屋に至り、出て来た者は次々と突かれ・・本丸の吉良の屋敷へ。
文章による克明な描写に、演出が際立つ。天井に固定されていたらしい襖がバラバラと吊られて揺れ、白装束が血(使ったのは墨汁)で染まって行く。動きは皆異なり、鎖帷子の黒装束4人が皆の前に立ちはだかり、無慈悲に殺されて行く。一人で太刀回りをやって倒れる者も、刀、薙刀を交す者も、能舞台に使う柱が上手から下手に三本、やや斜めのラインに並んで置かれているのだが、これに触れず、当てず見事にすり抜けていた。音使いの一つ、討ち入り場面ではハァハァという息が鳴って緊迫感を高める。音の特徴的な使い方は、一つが柝の音で場面転換ごとに頻出、朗読の内、一部が録音された声が流されている。これがひどく効果的であった。
紅二点の一人、古手の奉公人が現われる。屋敷内を歩き、次第に辺り一帯に重なる死体が見えて来て絶叫するのが、カタストロフの描き収めである。再び尺八が奏でられ、終幕となる。

終演後、役者たちは早々とロビーにてそれぞれ知己との挨拶をしていたが、コロナ時期を経て久しぶりの光景。こうありたい。
検察側の証人

検察側の証人

俳優座劇場

俳優座劇場(東京都)

2023/10/22 (日) ~ 2023/10/28 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

観た後にこれが映画「情婦」の原作に当たる作品であり(アガサ・クリスティが最初に書いた短編を戯曲に書き改めたもので、映画はそれを元にしたものという)、あのマレーネ・ディートリヒが法廷で悪役ぶりを演じた後、愛に敗れた(って感じのストーリーの)やつ、と気づいた。
芝居を観ながら、既視感は全く覚えなかった。雰囲気が違った。法廷物の常道といった感じで、主役の青年(采澤)が殺人を「やったのか、やってないのか」で言えば最後に「やった」となるんだろうな、とは予想していたが、ミステリーの仕掛けにまんまと乗せられ舞台を凝視していた。
タネが分かってしまうとミステリーはつらいな、という大方の意見に対し、アフタートークで翻訳の小田島氏が、「結末が分かった上でディテイルがどう作られているかを見るのは一つの楽しみだ。マクベスもハムレットも結末が分かってるのに皆観に行く」と成る程な発言。
リアルで緻密で見せ場のあるドラマなら、「謎」だけに引っ張られて最後まで観る(これミステリーというジャンルに限らず演劇にそ「引っ張り」の手法は普通に使われている)タイプの演劇は後に残るものがあまり無い、という事は確かにある。

さて今作、終盤のどんでん返し一つ目は見事に騙され、それが痛快であった。だが最終的などんでん返しは非道な男という造形が、単に彼のそういう「素質」から来ている、という風にしか解釈の行き場がなく、きつい所がある。(どんでん返しの面白さは十分にもう味わっているのでその時点では文句はないが。)というのは、やはり芝居は時代を映すものでありたい願望がある。
男の造形の中に何か社会背景を思わせるものが書き込まれていれば、女性の悲劇が際立つだろうし、この出来事をより立体的に、彫刻のように眺めさせる事もできるのでは・・と。
スパイ云々の話は作り話で一旦チャラになった後、男の非道さだけが残る。外国人である妻(永宝)はこの国で男との一対一の濃い関係を育み、それゆえ物理的な意味では依存関係(男の側に圧倒的な強み)があったと言える。ドラマとしては、ナチスとの関係を疑われた彼女の逃亡を助け、利用して捨てた男がいた、という話である。
女の態度から、一計を案じて彼を殺人容疑から救ったのは彼女だと見える、という意味では男の「心変わり」は偶発的であった可能性もある(その線の方がドラマティックである)。
客観的には弁護士の心証として彼は無罪であったので、一計を案じなくとも推定無罪を勝ち取った可能性が大きい。そこにちょっとした隙間風がある。そこで際立たせなければならないのは女性の「愛」となる。
だが男の本質はサイコパス並に「人をだませる」特異な才能を持つ、という特別な設定に頼っている面もある。その本質は、妻でさえも見抜けなかった。問題が残るのはつまり男の存在だ、という事に(私の感覚では)なる。
従ってやはり最後に「本当の制裁」として妻が男を殺す、という結末は事を収めるためにも必要だった。法廷内とは言え閉廷した後は「普段の時間」、そこで女は男を殺した。とは言っても男が殊更に元妻を怒りに駆り立てる行為を取らなければ、また廷吏に取り押さえられていれば・・と、殺しが成就しなかった可能性が「現実」として広がる。もしそうであった場合でも、物語は成立するのか・・。物語は完結せず不当さへの恨みは燻り、その収めどころを探すしかない。復讐か。あるいは女のこれ以上の墜落をもってカタストロフを作るか・・。と考えると、やはりミステリーはリアリズムでないミステリーのルールに則っているので、「それを踏まえて楽しむ」のがミステリーを味わう弁え、という事になるだろうか。

日本演劇総理大臣賞・余話

日本演劇総理大臣賞・余話

ロデオ★座★ヘヴン

新宿眼科画廊(東京都)

2023/10/17 (火) ~ 2023/10/24 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

先日同じく新宿眼科画廊で観たリーディング「ファミリアー」では出演していた澤口渉氏は裏方進行に回り、ロデオ★座★ヘヴン・音野氏ともう一名との男二人組、女性二人組による二編の「余話」を観せてもらった。
戦前を舞台にした作品で、最初の女性編は、女優引退宣言をした、中小劇団の“五番手”女優に呼ばれた学生時代の級友である女性記者とのやり取り。必ずしも仲良しでなかった間柄だがズケズケと言い合う仲ではあった事が徐々に知れる。今も一つも変わらない女優“やちよ”の「女優を辞める本当の理由」に迫る。
二つ目は先輩作家(主に劇作?)の元を訪れた元弟子?の編集者との、戦時下という状況でのやり取り。かつてアグレッシブな作家活動をしていて芸術のためにはお上を恐れないと豪語していた作家が、著名作家となり、このところ日和見な作品ばかり出している事に失望を覚え、後輩はその事を伝えに来たと分かる。最後にこの先輩作家が考えを変え、危険な道を選択をするのがミソで、逆にその事で「今がどういう時代なのか」が目の前に立ち現れたのか、後輩の方がおののく。短い戯曲の中によくこの要素を織り込むものであるな・・と素朴に感心。
本編である「日本演劇総理大臣賞」とは一体何であるか、皆目不知であるが、どことなく楽しみ。

逃げろ!芥川

逃げろ!芥川

文学座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2023/10/27 (金) ~ 2023/11/04 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

文学座のサザン公演(アトリエでない大劇場公演)はいまいち、という前例が既に二度あるので今回も多くを期待せず、だが畑澤戯曲だけに「作品」への期待は高めて劇場へ赴いた。
大劇場では大仰、喜劇調に作られるのが文学座の伝統なのかも(「寒花」という震撼とさせる鐘下戯曲で新派のような見栄芝居が突然入ってきた時は唖然とした)。

本作はスペイン風邪の流行った100年前を舞台に、菊池寛と芥川龍之介の長崎行きの車中で終始展開する舞台である。両名による時に冗談を交えた、時に辛辣なやり取りは車中だけに基本「深刻にならない」軽快さで進む。途中予期しない登場人物とのやり取りや大立ち回りが始まったり、芥川作品世界の検証のような時間になるのも面白い。
ドラマタークに工藤千夏とある。夏の渡辺源四郎商店二本立て公演の内、工藤作品がやはり戦前を舞台にした着想に優れた芝居だったが、今作も間違いなく工藤女史の知恵がまぶされていると推察。芥川作品への「批評」を一つ一つ菊池が紹介したり、芥川氏の女性遍歴(人物像が作品にも投影されている)がその作中人物によって明かされたり。
その時点では芥川が知らない事実や作品にも遠慮なしに言及され、喜劇性は否応なく高まる。
汽車の旅をベースに、時空を超えた目線で芥川龍之介の人生を眺める趣向、と言ってしまえばそれで収まりそうだが、芥川という人間が歴史上の芥川龍之介を離れて、一人間と見えてくることがある。この文学者への洞察は人間性のレベルに踏み込み、彼が様々な影響の中にあって生まれた歴史上の一存在であり、その人生の意味とは何であったのか、という問いを程よい距離感で投げている。史実上のビッグネームに依存した作品からは離脱している。

フートボールの時間

フートボールの時間

(公財)可児市文化芸術振興財団

吉祥寺シアター(東京都)

2023/10/26 (木) ~ 2023/11/01 (水)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

殆ど完璧と言えるほどに女子たちの心情、立場、目の前に立ちはだかった時代の通念への思い、素直な発見への喜び、相手への依頼心を含めた友情、胸に秘めた切望が、丸ごと伝わって来る。
彼女達の一挙手一投足が胸を打って来るが、これは弱者に対する優越性のなせる「感動」の類だろうか。。(と自問する程に琴線に触れまくりだったのだが、、彼女らの無念さへの共感と、理不尽さへの怒りとやるせなさ、そして人は変われるものでもある微かな希望という言葉にすればお芝居の定番メニューのような感想が口から出てくる。素直に吐露して良いものか逡巡してしまう。)

ala collectionは10年程前に発見してより頑張って2、3回に一度ほど観てきたが、やはり良質な作品を作る。

ネタバレBOX

満点を付けておいてナンだが(つっても☆5は主観以外の何者でもないが)、一つこれは書いておかずば正直でないというのは、終盤のクライマックスのこと。

この物語には、女子らの成長、学び、前途にとっての障害として立ちはだかる(当時の社会通念を象徴する)三人の人物がいる。三名の内二人は、最後にある種の変化を起こす。
一人目は写真館の主人で、娘の強い意志を前に受動的になし崩し的に、もう一人は最後に見せ場を飾る事になる堅物の女性教師が、ある事を機に思考過程の中で導き出した結論を実践する形で・・。
残る一人はダブル配役のため登場せず、正にこいつをギャフンと言わせたいのだがそこに居ないという事になる。
問題は女性教師である。

台詞の端々に見られる、この女性教師がある理解に至り、良心が発露するまでの過程が美しく描かれるが、最後の長台詞の中にやや時系列の飛躍があり、それがこの人物のリアリティに決定的な躓きとなっている、と感じたわけである。
高校演劇においては、ざっくりとした人物造形をノリでカバーし、大きな物語を伝えるミッションを遂げていたのかも知れぬ(原典を読んではいないが)。
が、この舞台の作りでは、リアリティの緻密な構築が必要になる。

良妻賢母を育成するという女学校の存在目的があり、それは結婚を前提としているため、女性が手に職を付けたり自立の方法を手にすること、即ち、学校生活においては様々な発見と成長を実感できること、が否定される構造がある。
この根本的な問題は、彼女らがその時点に至る十五年間、校長のこだわりから実現していた「女子フートボール部」(今のサッカー部)に、熱中できる対象を見出した三年生二人(北原日菜乃/谷川清夏)、一年生二人(桜木雅/庄司ゆらの)がその道を断たれる事になる後半に浮上してくる。それまでは女子たちの生き生きと羽ばたく姿が描写される。米国の女性シンガーソングライターの曲が折々に流れ、自由へと開かれて行く予感が彩られる。この音楽の力も大きい(ジョニ・ミッチェル「コヨーテ」は珠玉)。
このフートボール部を率いるのが若い女性教師(堺小春)である。他の教師に、小春に期待をかけている校長(おかやまはじめ)、教育委員会の出先機関のような副校長(近江谷太郎)、裁縫を教える堅い中年女性教師(林田麻里)がいる。
そして冒頭から登場してサイドストーリーの主役として併走する、父の写真館を手伝う娘(井上向日葵)が、小春と対をなす。その父役は、副校長の近江谷氏が兼任する。
芝居の冒頭、写真館の娘は、父の事故・入院により、学校行事の写真を自分が代わりに撮る事を申し出る。父は他の業者に頼むことをじつは娘に言い置いていたのだが、それに背き、「父から是非にと頼まれた」と学校に言いにやって来たのだ。その時、彼女の採用を後押しするのが小春。今度の山登りも含めて一ヶ月お試しをやり、ダメなら考え直せばいい、と校長他の教員を説得する。
井上の写真を、小春は褒める。これが「同じ女性として応援する」だけでなく本心から良い写真だと思っていた、と後半に分かる。井上は自分の中に「撮りたい」欲求が沸々とあって、欲求のままに被写体を焼き付ける行為に没頭していく、という事がある。

一方フートボール部は、正式な試合が出来るように部員を増やそうと盛り上がる。今度の運動会で、フートボールは試合ではなくプレゼン的にデモンストレーションをやるので、それに参加する人を集める事が目先の目標だ。女子ともあろうものが股を広げて球を追いかける「はしたない」競技、と眉をひそめる父兄もいるが、四人の生徒が部活動の時間を愛している事実の前には、何者もこれを取り上げる事はできない、と観客にも思わせる輝きをもって描写される。
だがこのフートボールが取り上げられる時がやってくる。
あるとき小春が他に二つの部活動の顧問も受け持つよう申し渡され、これに対し「では給料を上げて下さい」と要求したのが事の始まりであった。

芝居の時系列としては、小春が呼び出されると、校長が突如辞職し、副校長が校長に昇格すると言う。副校長は校長の方針である「女性も心身の成長のために運動に親しむべし」を引き継ぐが、フートボールは廃止すると告げる。今ある8個のボールは痛みも激しく交換時であるが、そんな予算はない、しかも反対の声もあるとし、ボールを廃棄するよう林田に指示する。
「承知しました」と退席する林田を追いかけ、小春は談判を持ちかけ、「せめて自分の手で廃棄したい」と言う。ところが林田は今回に至った事情を知らない小春に呆れ、以下を説明する。
昇給を当然の権利だと主張する小春に対し、副校長は反対し、林田も「私はそのような要求はしない、雑用は自分の本分だと心得ている」と己の考えを述べる。
だが校長はこの要求を取り上げ、上の管轄機関に伝えた。だが小春がフートボール部をやっている情報も上がり、解雇が検討される。校長はそれに抗い、彼女を辞めさせない代わりに自分が辞職すると申し出た、校長は貴方を守ったのだ、と言う。
一言も返せず呆然と立ち尽くす小春。
このお膳立てがあっての、終盤である。

林田の中に起きる変化の第一は、生徒たちと遭遇した際のやり取り。生徒は「折角好きなもの、打ち込めるものを見つけたのに・・」とぶー垂れていた後、林田が現れたので思わず、「先生は自分が好きなことってあるんですか」と聞く。「あるわよ。裁縫がそれ」と言い、自分がこれと出会ってから、いかに心を注いでいるか、を思わず顔をほころばせて語る。生徒たちが去った後、彼女はハッと何かに思い当たった顔をする。
その後のシーンでは、己の無力に打ちひしがれる小春が無言で涙を流し、中庭を歩く姿を月明かりの下に見る。いずれも無言のシーンでの林田の「変化」の兆しが胸を打つ。
一方、写真館の主人は思ったより早く退院して来て、娘・井上が他の業者に頼まず自分で写真を撮っていた事をなじり、叱る。やはり不許可での無謀な行動だったと知れるが、父の態度に彼女は大きな壁(父だけでない社会という)を感じ、絶望する。彼女の写真を期待していた小春に、もう自分は写真は撮れない、と告げに来る。
そして場面は運動会の日となる。井上も父に付き添って荷物を持って現れている。その前に林田は小春に、「私は貴方のようにはならない。けど、私は私なりのやり方で、物を言う。」と告げる。驚く小春。何らかの相談があった後、辞職した校長も「これだけは見ないと」と会場を訪れている。この後である。

その前に、他のエピソードも紹介すれば、三年生の二人、北原と谷川はでこぼこコンビで、谷川は甘えん坊で北原を追いかけてる格好だが、芯が強く無駄な言葉を吐かない北原が師範学校へ行って(小春の後を追いかけて)女性教員になる夢を持ち、谷川はその北原と同じ目標を本気で追い、いつか北原が勤める学校と自分の学校のフートボール部が試合をする夢を温めている。女子同士のキャピキャピとした会話の中でではあるが、フートボールを介して彼女らが「本当に向かいたい方向へ歩いていく」尊さを実地で学び、夢を描くことの純粋さと強さが印象づけられる。
だが、北原は結婚のために学校を退学する。実は一年前に決まっていた事だった。せめて学校生活の中では思い切り夢を描いていたい、そういう時間にしたいと願っていた。谷川は自分に一言もなく去った北原を恨み、腐るが、挨拶に行く。疑似恋人のような二人の会話も切ないが清々しさがある。
一年生の二人の内、背の低い庄司は感情を直線的に放出するタイプだが、おませで「青鞜」を読み、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」を諳んじる。それを聞きながら女性が輝く未来を遠く見つめる四人の姿。もう一人の桜木は庄司に言われてイヤイヤ部に入ったが実は最も才能があり、ドリブル、パスの場面を主導的に疾駆する(と行きたいのだろうがまあ頑張ってボールを蹴る)。

どんな巻き返しがあるのかと期待が高まる最後、運動会の執行と挨拶を任された林田は、フートボールの廃部そしてボールの廃棄について語る。
私の願望を言えば、ここは黙って残ったボールを一つ取り出し、「最初の種目は、例年通り、フートボール」と紹介する、で良かったと思う。ここでの長台詞は原版を尊重したと見たが、今回の流れでは、うまく嵌まらない。
林田が「気づき」を得る過程は、ボールの廃棄がとうに済んだ後である。だが台詞では自分がボールに穴を開けている内に、自分の心臓を針で刺すような苦痛を覚えはじめた、と吐露する。これは演技にも拠るかも知れないが、自分がそのような苦痛を覚えていた事を「今になって気づいている」、という吐露が時系列的にも適切ではなかったかな・・。
そういう風なニュアンスに変換して自分の中で整合性を付けたようにも思うが、やはり浮いてしまった後味は否めなかった。

クライマックスだっただけに惜しいのであるが、しかし各場面の作り、張り合う必要のない境地に立った女子たちの純粋そのものの群像が、信じられる形で描かれた事は今も嘆息が出る。
運動場にて、井上演じる写真館の娘は一つも笑わなくなったらしく、父は弱気になり「笑ってくれよ」と頼んでいる。「撮った事を責めたんじゃない。嘘をついた事だ」と言うが「じゃ私が頼んだら許可してくれたか(そうでないだろう)」と無表情に答える。
と、フートボールが始まる。位置取りを確認する父。と、パスを始めた彼女たちを遠景として撮っている父を差し置いて三脚を抱えて井上が走り出す。中央でパスに興じる彼女らの真ん前に陣取り、シャッターを切る・・。
暗転後、現代とおぼしい風景の中に、小春は青いユニフォームを着て選手として、井上は望遠レンズが装着されたカメラを手に恐らくスポーツカメラマンとして、立つ。

それにしても何気に進歩的な校長の「貴重さ」は飾らない風情に溶けていい感じであった。闘いとは息の長い営みなんだと、ある種の諦観へ促されている気がする。
幻想振動

幻想振動

イデビアン・クルー

東京芸術劇場 シアターイースト(東京都)

2023/10/27 (金) ~ 2023/10/29 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

抽象性の高いパフォーマンスが「ハマる」というのはどういう現象なのか自分でもよく分からないが感覚している自分がいるのは事実で実に不思議。
井手氏本人の踊りは初めて。イデビアン・クルーは三度目。身体の動きは心情、感情を伴っており、そこが井手氏の特徴だろうか。ビニルシートを取っ払うと六畳一間の畳部屋の台。周囲は砂利を敷く代わりに白い無機物が敷かれた畔のような筋が、その左右に奥へ向かって伸び、奥では上奥袖から下奥袖まで一本伸びる(上から見ると鳥居のような)。最初、舞台の舞踊エリアの対角線に男女が立ち、目線が合うと、男女の関係だと分かる。カップル同士の営みが時に面白おかしく、時に虚しく、切なく、冷淡だったりノリノリだったりが演じられて行く。
動きのバリエーションは(井手氏っぽい動きというのはあるようだが)多彩と言え、先述した如くそれらは心情・感情のバリエーションを意味する。そして心地よい。
舞踊には楽曲も不可欠だがスタイリッシュ。一曲目のヴィヴァルディの曲が微妙な強弱が少し入ったと思うとエコーが微妙にかかったり、鳴り方が変わったり(ステレオ全開が局所でAMラジオの音、になったり)、空振りパンチ攻撃に合わせて効果音の「空を切る音」を入れ込んだりと忙しく、嬉しい。一曲目は唐突に終わり、突如ベース音がリズムを刻みスローなドラムに、二人の揺らぐ身体が揃う。理屈抜きに相性抜群な瞬間だ。
音楽は5,6曲程だったか。ボレロも流れる。人生のあらゆる場面だったり、想像の世界を遊ぶ時間だったり、どちらかの見る夢だったり・・。
延々と続く二人の風情への既視感は、最後に種明かしがある(その作品を知らなきゃ分からないが)。
1時間と少しと舞踊作品としては平均的だったが、もっと長く、めくるめく時間を過ごした感覚である。

同盟通信

同盟通信

劇団青年座

新宿シアタートップス(東京都)

2023/10/13 (金) ~ 2023/10/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

久々の古川健戯曲の舞台鑑賞。やはり歴史物(とりわけ戦争責任にまつわる)をやらせると右に出る者無しではないか。戦時中実在した通信社のの「戦争」と共に歩んだ軌跡を、ジャーナリズム精神の視点から批評的に描いた力作。
登場人物中、海外からの情報を参照する語学力と現状分析力に長けた加藤という人物が、彼の提供した情報にも関わらずこれを無視したとしか思えない戦争続行の決断または停戦交渉を怠った不作為への批判を可能にする。「知りえた情報」を前に、それをどう受け止め、これ以上の犠牲を出さないための判断ができるか・・厳しくこれを問わなかった陸海軍を悪しき先例とするなら、科学的精神の発露を尊重し、知に対する畏敬を育むことがこれに応える一つと言えそうだが、学術会議や大学改革などを見る限り現状はそれに逆行する。
損得利害を離れた領域が、今や聖域と化しつつあるようで・・知に謙虚に問うてみる科学的態度の大きな後退が
見られた例が、東電による「処理水」海洋放水を巡る反応であった。
大手メディアさえ政府・東電の説明に疑問も挟まず看過した。日本は十分に戦前化しており、その事にあまりに無自覚である。

写真

写真

劇団普通

カフェムリウイ「屋上劇場」(東京都)

2023/10/19 (木) ~ 2023/10/22 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

カフェムリウイは二度目。表からは建物の判別にまた手間取ってしまったが大方の距離感を頼りに辿り着いた。大風の吹く中、三人の会話劇が始まる。畑のある田舎、のどかな風景が窓外に広がってるだろう部屋のテーブルに弟を挟むように姉夫婦の姉が弟の向かい、夫が隣に居る。
劇団の常連かつ茨城弁芝居に不可欠?の用松亮は毎度の親父キャラと思いきや今回は少し違い、登場時点からいつにない目付きを見せ、小柄だが強い姉(後藤飛鳥)に逆らえない弟役。その姉の「でっぱり」分を「ひっこめ」る塩梅が夫婦の秘訣、といったような姉の夫(近藤強)。
短めの芝居という事で以前映像で観た感じの「切り取った」写真のような劇だろうかと想像していたが、その通りの作品だった(思わず「写真」と書いたがたまたま。「写真」は芝居でちょっとだけ出てくるアイテム)。
キャラといい会話の間のリアルさといい、噛んで味がするこの幸せな時間は何だろう。この路線、掘って行ってほしいとは個人的願望。

失われた歴史を探して

失われた歴史を探して

新宿梁山泊

ザ・スズナリ(東京都)

2023/10/12 (木) ~ 2023/10/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

同作者による「旅立つ家族」(文化座)を今年はじめに観たばかり。植民地時代と戦後、韓国と日本と二つの時と国をまたぐ話を、今回と同じ金守珍が冴えわたる演出で壮大なドラマに仕上げていた。苦悶の内に他界した朝鮮人画家イ・スンヨプの魂の彷徨であったが、今回のは同じく日韓現代史の断面を切り取った劇でも題材はあの関東大震災時の朝鮮人虐殺だ。これを劇化した日本人作家は不勉強ゆえ知らないが、題材が題材だけに、実際存在しないかもしれない。
作者は、渡日朝鮮人の従業員たちと、彼らに理解ある社長、及びその家族というコミュニティを真ん中に据え、大震災というエポックが彼らに何をもたらしたか、という視点で歴史を叙述した。芝居は劇中劇の形を取り、冒頭とラストには現代シーンがある。件の社長の手記が百年後の現代、古本屋に並んでいたのを「高かったが背に腹は」と入手したライター志望?の女性(水嶋カンナ)が、友人(杉本茜)と聖地巡礼=社長の実家を探しに田舎町を訪れているのだが、このシーンで映画「福田村事件」のパンフを持って熱っぽく語ったりする。重いテーマの芝居への軽やかな導入を趙氏又は金氏が追加したのか、原作にもあったのかは不明。
本編の劇では、社長(ジャン・裕一)の息子(二條正士)と、朝鮮人職長(趙博)の娘(望月麻里)との男女関係、それを見守る娘の弟がいる。社長の家族は二人の関係を正統なものとして受け入れようとしている。他には朝鮮で叶えたい夢のため切り詰めてお金を貯めている従業員(ムンス)、博打に目がない従業員(青山郁彦)、彼を追ってやって来るヤクザ者(藤田佳昭ら)、通報があったと刑事(大久保鷹)も登場する。彼は震災での混乱の中で良い働きをする。だが夢追い人は無惨に殺され、朝鮮人を留置所に匿ったと非難された刑事は彼らを追い払うも、火をつけられる。息子の許婚は実は子を宿していたが、一度逃げ出すも絶望に襲われなぜか炎の中へ飛び込んで行く。
工場に匿われていたのでは迷惑がかかると飛び出て行った朝鮮人従業員の内、職長と博打好きは最後には生きて戻り、娘の死を知らされる。危機が迫る中、相手の息子との結婚を社長夫妻に申し出られても一旦持ち帰ると答えてしまった己の不覚を悔いて泣く。
この歴史事実で看過してならないのは「流言」が意図的に、公権力から発された事だが、金守珍演じる何とか大臣と管轄下の警察のトップの太々しいやり取りが書きこまれている。

全体には梁山泊らしい演出であったが、唐十郎のような詩であり幻想である「フィクションでしかない」作品世界には悲壮な色を帯びた(大貫誉の音楽に象徴される)演出は適しているが、史実を扱い、史実である事が重要である作品においては果たしてどうか・・というのは残った。

ネタバレBOX

出来事の連続としての物語の中で、人物に(ストーリーに直接関わらない)批評性を帯びる言葉を語らせる事がある。この作品の場合、植民地化、侵略の歴史に触れる部分。もっとも虐殺は日本の拡張主義と連動している。
社長の息子は兵役帰り。派遣先は三一運動の燃え盛る朝鮮。父親も同じく朝鮮の地へ日露戦争で赴いた。この過去が、父をして朝鮮出身の従業員への分け隔てない待遇をさせしめ、また息子をして婚約者に対する処理できない屈折した感情に埋没せしめている。
朝鮮からの帰還以来何かが変わった様子の息子を父は持て余し気味であったが、ある時(母(佐藤水香)のうまい計らいもあり)二人は酒を酌み交わし、息子は記憶から消せない出来事を語る。
映画「福田村事件」は朝鮮帰りの夫婦を登場させ、夫婦生活の危機の遠因となった出来事を夫が妻に語る相似形なシーンがあるが、震災後事件が起ころうとしたその時、妻は「あなたは今度もまた、何もしないの?」と夫を責める。彼は朝鮮でのその事件(堤岩里事件)で「何もしなかった」その前に余計な事をした。教会に閉じ込め火を放とうとした日本の官憲に、ある女性が抗議したので彼はその言葉を日本人憲兵に通訳した。自分が必死に覚えた朝鮮語を役立てようとその時初めて通訳を買って出たのだが、その事のために憲兵は女性を睨みつけ、その場で首を切った。
芝居に戻れば、親子が語るのは彼の地で犯した殺しの数である。父から思い切って息子に切り込んだ。話せない事を話す呼び水とするべく、「お前、何人殺した?」と訊くのだ。・・最初は抵抗があった。だが段々と慣れてきて、いかに多く殺すか、いかに残虐に殺すかを競うようなる・・。己自身が見せた姿におののき、平穏な日常生活の「裏」を覗こうとする。許婚から子どもができた事を知らされた息子(二條)は驚き混乱する。
「ゆきゆきて神軍」は今となるととてつもなく貴重な映像満載であるが、ここには人間のグロさを戦地にとどまらず現在にも引っ提げて異臭が放たれる様が映されている。
人間が負の側面を見なければならないのは何故か。果たして見なければならないものなのか?という問いにどう答えられるのか。
無関係のジョバンニ

無関係のジョバンニ

妖精大図鑑

吉祥寺シアター(東京都)

2023/10/13 (金) ~ 2023/10/15 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

同じ吉祥寺シアターで複数のダンスユニットによる短編企画で観たのが初(このユニットが目当てで観に行った)。次が桜木町で今回やっと三度目とまだ少ないが注目しているグループだ。多摩美時代から活動し、脚本の飯塚うなぎと振付の永野百合子が台詞シーンとダンスとその中間と、勇剛しづらい両者が渾然一体となった一つの世界観を作り上げ、どくじである。両名とも舞台に立つ。
10周年記念という本作、初見の時と同じく吉祥寺シアターの劇場機構を活用して水を得た魚のようであった。
実は昼間にも関わらず電車でまさかの寝過ごし(さっき「恵比寿〜」とアナウンスが耳に入ったから今着いてる駅は恵比寿かせいぜい渋谷だと発車を待っていたら、ドアが閉まって「次は池袋〜」新宿であった)。
15分遅れで入場する際、案内の方に「恐らく抽象的な舞台だろうから途中から見ると解らないのでは?」と冒頭からのシーンについて聞くと、(逆に)「一つ一つのネタがバラバラですからどこから観てもきっと楽しんで頂けます」と笑顔。
「そんなものかな?」と思いつつ観始めると成程、クスッと笑かす場面が数珠つなぎに続き、時折舞踊が入る。踊りもセンスを感じさせつつコミカルな、世を超越した目で描かれる芝居もどきに呼応した動きが繰り出される。直裁なメッセージがダンスに込められ、芝居に属する表現はひたすら婉曲に何かを言わないために作られてるかのよう。笑える場面や言葉で間を埋めながら、どこかに向かってる感は描写されている。
何しろ20分近く見逃したので何とも言えないが、ここでない別の世界(ステージ奥のシャッターを境界に広がるパラレルワールド)を探検気分で探してる雰囲気だが、別の世界を「切望する」文脈に読めるワードが一瞬チラッと織り込まれていたような、いなかったような。
狐につままれた気分で劇場を後にしたが、注目の度合いは変わらず。ユニットもこの路線を益々確信をもって邁進する模様である。

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