満足度★★★★★
ウヒヒ、はひはひ、ウハハハハ、うふふ、ハハハ、ヒヒヒ、おほほ、ウヒうひ、ふぁふぁふぁ、へへへ、
ネタバレBOX
ふふ、ウワハッハetc.etc.観ている我々観客が、上演中の役者陣が笑い堪えるの大変だろうにゃと心配するほど笑いがいつも何処かで沸き起こっているような舞台。蝶番外しの上手さ、間の取り方の巧みに演技力、桁外しと言葉の頓珍漢な組み合わせの妙、シチュエーションとのずれ等々笑いの要素をこれでもか、と投げ込んでいるのだが、勘所を掴んでいるので本当に面黒い。
終演後、演じていた役者さんに「笑い堪えるの大変だったでしょ?」と質問してみたら、答えはイエスであった。
満足度★★★★★
Fを拝見。拝見した7本中、唯一の非ストレートプレイ。
ネタバレBOX
作家が何故このような作品を書くのか? 自分には分かるような気がする。どんなに良く構成され、計算が緻密であっても短期間に同一の作家が書き得る作品の幅には限界がある。キチンとした表現をしてきたればこそ、読者・観客に見切られ、飽きられる事に対する危機感は深刻である。
そこで、今作は様々な破壊、脱構築に挑んでいるのだ。従って今作の中で歌舞伎が取り上げられるのは、必然である。何となれば歌舞伎は、能など既に評価が定まっていた伝統的な古典に対する脱構築として生じたムーブメントだと考え得るからである。
現代のように激しく時代が変化する際には、表現する者総てが己の存在基盤を根底から疑い、解体した上で再構築するラディカリズムが求められるのは、表現上の必然である。少なくとも真の表現者は必ずこの問題と格闘せざるを得ない。この格闘を通してのみ、新たな意味を自由という普遍的価値に付与し、作家は真に創造者となるのだ。
当然のこと乍ら、新たな地平を開く際、それまでの伝統が完全であればあるほど、地平が堅固であればあるほど、深く疑い、穿つべきは穿って砕き、以て再構成せねばならない。その際、時折クソッタレ! 的な表現と見える形式、表現類型が出てくることは大いにあり得る。然し、根底が違ってしまっている以上、既にそれを伝統的価値基準に従って判断する術は無い。
以上のような問題を提起している点で、今作は頗る面白いのだ。
満足度★★★★★
Bを拝見。全きにゃこ党の吾輩、第1話が特に気に入りにゃ!!!! にゃ~~~~~~お、にゃ! ぺたん。
ネタバレBOX
1話:にゃんこは、1日に16時間寝るそうにゃ。上手にはテーブルの左右に椅子各1脚。男が引っ越しをしなければという時、女はシェアしていた女友達が居なくなったので半年も付き合ったのだし家賃も暮らし向きもプラスになるからと同棲を提案。そこで男が移ってきた。女の飼っていたのは雌猫のサクラ。男の飼っていたのは雄猫でちょっとお茶目なトラオ。この2匹、互いに余り記憶力は良くなさそうだが、下手の部屋で殆ど寝てばかりのサクラは閉じ篭って部屋を出たことが無い。然し、トラオは表が好きである。そこでサクラを誘うのだが、彼女は出たがらない。代わりに歌を詠む。これが中々良いセンスなのだが、トラオの名をくさすのでトラオはその度に傷ついている。そんなにゃこたちの日常は、にゃんという事も無く続いていくにょにゃが、人間の方は壊れて別れてしまった。サクラは、何故か寂しい。それで初めて表へ出てみる。地面に寝てみる。案外温かいが、ちょっと硬い。何だか互いの性を意識しかけた相手が居たような気がしている。人間の方は壊れてしまったが、それとは対照的に恰も初恋の甘酸っぱい思い出のように相思相愛の思いを共有するにゃんこたち。この対比と距離感、それを歌に詠むサクラのセンスが素晴らしい。
。
2話:これもカップルの話だが60歳にして心肺停止状態になった男の脳内で巻き起こる本当に大切な人は誰であり、どのような関わりを辿ってそのような結末に至ったのかを、案内役と共に記憶の追体験を通して再確認する物語。
満足度★★★★
Aを拝見。(華4つ☆)
ネタバレBOX
1:5万円台の賃貸物件を探している若者に不動産屋はからかうように高い物件ばかりを紹介。終に切れかかった若者が大声を出すと漸く該当するような物件を紹介し始めたが、最後に言い出したのが所謂曰くつき物件。4万円台の物件であった。無論、出たのだ。然しながら借主のお蔭で今は既に成仏したとのこと。伏線として渋谷の映画館に1度幽霊が出た話が挿入されたりするのだが、これが、オチに繋がる。
さて、幽霊が出た件の物件の顛末は以下の通り。引っ掛けがあって最初、話の流れで霊は女性、除霊に成功したのは男性と思い込まされるのだが、ここでも反転が為される。その後、2人が実は知り合いであったこと、女性は彼が毎週月曜に少年ジャンプと珈琲牛乳を買いに立ち寄るコンビニの店員で何となく話をするようになっていた。だが彼が亡くなった当日、彼女はコーヒー牛乳にストローをつけ忘れた。彼の死因は台所でひっくり返って頭を打ち、それで亡くなったのだが、彼女の解釈によると彼は少年ジャンプを読み終えることが出来ず、それが残留思念となって幽霊になったというのである。何故台所でひっくり返ったのかといえば、ストローが無かったのでコップを取りに行ったのだが、何らかの原因で転倒、頭を強く打ったという解釈であった。約1週間彼らは夜毎対話を交わした。そして彼女は件のジャンプと珈琲牛乳にストローをつけて霊の前に持参、彼はジャンプをいつものように珈琲牛乳をストローで飲み成仏できたということだ。ところで、成仏する前に彼が彼女の趣味である映画鑑賞は何処でするのかを訊ねており、渋谷との答えを得ていて、1度だけ会いに行ってもいい? と尋ねたのであった。唯一の瑕疵は、1週間、彼が読み損ねたのが、亡くなった日発売の号だとすると実際1週間後の次の号を持参したのか、それともちゃんと読み損ねた号を持参したのかがハッキリしない点。
2:女を矢鱈取り換えていた男が病死した。早い時は僅か2時間で別れるという記録の話も出てくるほどだが、それで付き合ったと言えるのかどうかとの疑念が湧く程の乱脈ぶりだった。が、1人だけ1年間も続き而も実家に連れて来た彼女が居た。その彼女と妹が偶々路上で出会い、久しぶりだからと彼の実家に寄って思い出話をするという設定。彼女から見た彼は、樹木のような存在で、何かよくは分からないが触れてはいけない何かを魂の奥底に秘めているような。だがそんな彼が何時の頃からか優しくなった。荷物をそれとなく持ってくれるようになったり。だが、彼女にとって、そのような教科書的優しさは本当の優しさとは感じられない。そこで、妹にお兄さんはいつ頃病気を知ったの? と尋ねている。このように繊細而もユニークな視座で男にとっては謎である女性心理を描く細やかさは、Bの1話に出てくるにゃこのサクラの詠む歌やDにも良く現れているこの作家の詩的感性を更に強く印象付ける。作家は、劇詩人と定義して良かろう。今後の雄飛に期待している。
満足度★★★★★
極めてメタレベルの高い作品。
ネタバレBOX
2011年辺りから本格的に演劇を見始めたのだが、以来2400本以上の作品を拝見しているから年平均で300本以上ということに成る訳だが、だからこそというべきか、極めて独創的で巧みな前説で言われたフェイクを本気で信じかけた。どんなフェイクだったかというと、開演後20分位ずっと幕の前に役者が現れて演技をしていたので「幕は終演後に上がります」と言っていたのを学生演劇最後に今迄誰もやったことのない奇抜な演出で見せようとしているのか? と思い掛けたりハタマタ「自分は前説だけで本番には出ません」と言っていたのを半ば冗談、或いは? と勘繰ったりしながら見始めたのだ。元来、演劇とは嘘を用いて虚実に満ちた世界の構造を暴き、そうして暴かれた世界の陥穽を通して真なるものの輪郭を示す技術だから、真偽は匙加減一つ。別の言い方をすれば傾くことで真を顕わにする。(以下各解釈へは、ここから繋げて読んで頂きたい)
解釈1:さて最も単純な解釈から始めよう。最初に述べた通り基点は、今作が極めて高次なメタ構造を持った作品だと言うことだ。前説でのフェイクやひっくり返し、ひっくり返された世界を更にひっくり返して、ストレートプレイに持ち込んだとみるや、今度は3つのストーリーを敢えてゴチャゴチャにして見せることで歌舞き、それを収束させることを目指してドラマツルギーを発動させる過程でも小ネタで笑わせる、3人の役者が演ずる、切れとスピード感のある殺陣でビジュアル的にも楽しませる等々。
更に振れ幅の大きい今作の本来の目的である卒業公演というテーゼを踏まえ、去る者(卒業生)と残る者(在校生)との間に生起する若者らしく柔らかで自然な感情の発露として“別れ”を見事に昇華してみせた。それは、作中ハチャメチャにした3つのストーリーを収束する際、何らかの方法でコンペを催し、負けたグループは消滅するというルールで為される争闘の持つ厳しい寒さと呼応しているのだ! 見事である。蛇足だが、この内容はタイトルとも交感している。
解釈2(補足的に):例えば「忠臣蔵」の真の狙いは幕藩体制批判であり、そのスピンオフ作品である「東海道四谷怪談」の真に迫ったおどろおどろしさ、お岩の怨念の強さと祟り伝説は、仇を討つことが寧ろ人々にとっての正義であり、それを押し潰したのが強権の権化たる幕府であったことへの凄まじいまでの怨念だったからこそ、為政者共は、復讐の権化たるお岩を恐れたのだと言うことができるのではないか? 或いは伊右衛門の不運・不幸を斟酌せず、単に非道な悪党に仕立てることで幕府への怨念を逸らす為に利用したと取ることも可能であろうが。ちょっと話が難しくなったか。
解釈3(これも補足的):ちょっと深読みしてフェイクに関して現在日本を振り返ってみれば、フェイクのオンパレードではないか? 安倍のようなアホを政権トップに就けている勢力は、未だ経済界を牽引していると思い込んでいる重厚長大産業・製造業のトップ達。彼らは自分達の利益を最大限に考え、大日本帝国軍の怨念を未だ抱えてこの「国」独自の覇権をアジアで為そうと考える右派と共に、軍事的に握ろうと考える。この目的を果たす為に様々なフェイクを用いると考えると、奄美から琉球弧への対中防衛第1次列島線設定や、インドを含めたセキュリティ・ダイアモンド構想、文政権への誹謗中傷、原発推進もかなりハッキリ見えてこようというもの。
満足度★★★★
舞台美術がちょっと変わっている。(華4つ☆)
ネタバレBOX
天井から床までロープが下りている箇所が板中央の奥と手前に各1カ所、その間に短いものが2カ所、丁度天井から3分の1程の所にカラビナが付けてある。このようなロープが、センターから等距離の位置に都合4本ずつ下がっており、構造は中央の長いロープと同じだ。客席に対向する三方の壁には、矢張り天井からロープを下げ床から1m程の高さまで不揃いに下がっているのは、まるで海底の岩礁から伸びている海藻のようだ。人魚がタイトルに入っているから、これは天井部分が海面かも知れないが、では人間が出てくる場面では、どうなるのだろう等とぼんやり考えながら開演を待っていたが、客席最前列の下手出捌けの布の地は青、その上に重ねてある布は、網のような布で色も漁に使う甲殻類の殻のような色である。
幕が開くと、内容的には、人魚をダシに、鵺社会で起こる支配・被支配の構造と固定化、それを許す因習と権威、そして実際には支配層より優秀で知恵の働く下層民の行動様式が描かれていたので、話としては可也興味深い作品だったのだが、支配層の無能にも拘わらず為政者として振る舞う滑稽と被支配層の有能とその惨めさをもう少しリアルな対比で描き且つ役者の身体から滲み出るアトモスフィアで膨らみを持たせることができるようになれば更に良くなろう。可也ポテンシャルは高そうなグループなので、もう一段高度な段階を期待したい。
終演後、今回振り付けをやってくれたグループがダンスを披露してくれたのだが、スタイリッシュで切れのあるダンスであるのみならず、何よりダンサー自身踊りを好きなことが伝わってくるような良い踊りであった。無論、振り付けも気の利いた洒落たものであったし、ラストから2番目に踊ったダンスでは顔の下半分を黒い布で覆って内面が最も良く出る目だけ出し身体表現を強調。タイツとブラと背の紐も黒で統一しつつ、背の紐だけは若干異なるものも用いて個性も出し、腕など露出部分で自分達女性の肌の白さを照明で強調した演出にしていたのもお洒落。
満足度★★★★
フランスの戯曲なので論理で追っていきさえすればオチは容易く分かろう。
ネタバレBOX
ところで我々の周りにも潔癖症や追跡症、離人症などの強迫神経症を抱える人間はいくらでもいるが、普段余り気に掛からないのは、彼らが己の症状を隠していたり程度が軽かったりするだけの話だろう。今作に登場する6人は偶々症状が重いという共通項を持つに過ぎない。だが、本人たちにとって問題が深刻なのは無論その症状によって差別されたり、からかわれて人間の尊厳を傷つけられるからである。恐らく総ての精神疾患の根底にあるのは、この問題であろう。
今作は喜劇という体裁を採ることで、このような人間の性を批評しているのだ。無論、観る側もそれが分かっているから己自身を省み自己批判的に笑うことでカタルシスを得ているのである。
そしてこのような戯曲が成立することで、フランスという社会のシステマティズムを表象しているのである。このようなタイプの作品は、日本では生まれ難いだろうが、その理由は明らかだろう。鵺のような社会で、個々人のアイデンティティーが、明確化されることを恐れ、嫌う余り、自らの頭で考え、論理的に出た結論を肯んじることを拒み、無化しようとするからである。こんなことだから何時までも日本社会は成熟しない。文政権下の裁判所判断に此処までヒステリックな罵声を浴びせるのはこのせいだろう。話が逸れた。
舞台美術はスタイリッシュでセンスの良さを感じさせるものだが、できれば1カ所だけ傷が欲しかった。美しい傷の無い落ち葉より、文化的レベルとしては病葉を選ぶ方が文化的洗練は高いと信じるからである。また、その方が、本当は作品の本質にもマッチしよう。演技にもそれが言えると思う。ルー氏の演技は品良く見せ過ぎな感があった。演技で本当に気に入ったのは、ヴァンサンを演じた近童 弐吉さんとリリィを演じた井上 薫さん、このお二人は今作の本質を的確に捉えた演技だと評価したい。演出に関しては以上から類推して欲しい。
満足度★★★★
Eを拝見。(追記後送)
ネタバレBOX
女の恋の在り様は、その存在の本質に同期しているが、男のそれは、非在に対応する。即ち女が存在を根拠に物を考え、発言するのに対し、男は本質的存在というよりは一種の鉄砲玉として存在するのみであり、その存在の比重が女性に比べてはるかに低いのだ。それは、チョウチンアンコウの♀、♂を比較してみれば歴然としている。
即ち女の恋愛には、存在を根に持つ深く多様な広がりと具体性があるのに対し、男のそれには枝葉末節と華美な果実の空虚があるだけなのだ。だから男ははにかむのだが、全き存在を感じ得る女がそのような男の在り様を理解することは経験的には殆ど不可能である。
満足度★★★★
劇場奥壁から通路の幅を取った上で衝立を設け中央に大きな楕円形のドア。(追記後送)
ネタバレBOX
平台の上には奥の衝立との間に出捌けの空間を上下手に取り、目隠しに煉瓦塀が中央方向に袖を為す。これに直交するように上下共に衝立が手前に延びている。平台手前の客席側下手にはカフェの看板よろしく、緑板に何やら書き込んであり、その奥には小振りの花壇。上手にはカフェ用テーブルと椅子2脚。上下共に手前に延びる衝立の外側は通路になっており、出捌けに用いられる。
今作、大学が薬物乱用防止啓発の為にフォローをしている作品群の一環として上演される作品だということもあって、舞台美術もしっかり作り込まれている。
物語は、正義感が強すぎて勤務時間中に煙草を吸った上司とぶつかった新任の郵便配達員ソラが、遂には危険で不穏極まりないと評判の街、リーガルシティに左遷されることとなった所から始まる。件の街では、殺人・盗み等が多発し噂では死神と仇名される人物が悪の元凶だという。更に時が無限ループしているらしい。
満足度★★★★
カナダの劇作家、モーリス・パニッチの作品。ピープルシアターで上演された幾多のカナダ作品の訳でもお馴染み吉原 豊司さんの訳だ。(追記後送)
ネタバレBOX
序盤、何やら不条理劇のような、何とも捉え所のない対話が続き、意味を捉え難いような印象で始まるが、丁度水彩画で薄い色を塗っては乾かしを繰り返して徐々に何が描かれているかが明らかになってゆくような具合に物語は、段々その輪郭を顕わにしてゆく。
満足度★★★★
腹違いの兄、妹。兄の母は殺人を犯した。痴情の縺れえ父を刺し殺した廉で服役。妹の母が2人を引き取り育てることになったが。(追記後送)
満足度★★★★★
プレビュー公演を拝見。途中休憩10分を挟んで凡そ3時間のミュージカル。良くぞこれだけ歌の上手い出演者を集めた! 舞台美術も主人公の老年、即ち人生の秋を象徴するかのような随所に落ちた葉によって象徴化され、人生の労苦・辛酸も描かれて、単に甘い夢物語には終わらない。(追記後送)
満足度★★★★
Cを拝見(追記後送)
ネタバレBOX
今作では板ほぼ中央に木製ベンチが置かれているのみ。中高生の甘酸っぱい恋を羞恥心というベースに載せて展開する物語だ。
1場:設定は高校の修学旅行、行く先は東京だ。TV局や映画撮影地に興味を持つマドンナ、ミズノに憧れるAは、告るつもりだったが恥ずかしくてどうしても言い出せず遂に最後の夜を迎えていた。理想を言えばひっそりとした夜、告りたかったが、既に遅い。翌日昼でも構わないと助っ人を頼むことにした、1人はミズノと中学の時から一緒だった鉄道マニアのB,もう1人が川柳好きで既にミズノと何度も話した実績を持つCだ。しかもCは策略を用いて明日の彼女の行動予定表をゲットしていた。この3人が彼女の行動予定表に合わせて移動し恰も偶然に出会ったかのように接触のチャンスを掴み、Aが告るチャンスを掴もうというのである。
然しながら、世の中そうそう上手く行くものではない。手分けして彼女を探す3人のうちミズノに出会えたのは1人、而もミズノは彼を好ましく思っていた。そしてその彼はAではない。更にちょっと深読みするなら、川柳好きのCは、何故、Aに助っ人を頼まれる前にミズノの翌日の行動予定を入手していたのかという点でも楽しめる。
満足度★★★★★
Dを拝見。各作品40分程。タイゼツべシミル!!(華5つ☆)追記2019.2.26
ネタバレBOX
明治大学劇研はレベルの高いことを評価している劇団群なのだが、星乃企画は初見であった。イヤ凄い。下手なプロは太刀打ちできないぞ!
学生劇団を自分は結構好きなのだが、その理由はハッキリしている。若い人の作品というのは先ず、物の見方、身の周りの事象に接する時の柔らかな感性、新鮮な戦きを感じていることが伝わってくるヴィヴィッドな表現に触発されることがあるからだ。作品を観る前に余計な判断をすることを避ける為、通常当パンを開演前に読まない自分が、どういう偶然か、ざっと目を通した。説明文を読んで驚かされた。星乃企画の公演回数や作品数とその詩的な感覚・質にである。
舞台を拝見して、この直観が裏切られなかったことを確認した。照明が入ると舞台美術を設えられた板に役者陣が就くわけだが、舞台美術も鮮明に浮かび上がる。客席に対向する3方をパネルで囲み、上手・下手各々の2カ所に出捌けを設けてある。上手側には、北欧風の木製テーブルに椅子(木の無垢を利用した作りなので木肌の色がそのままだ)下手側には、机上にパソコンを載せた黒くかなり大き目のデスク(椅子も無論黒だ)が置かれ、板中央奥には北欧風のベンチが設えられている。シンプルだが、キチンと整序され、合理的でコントラストの鮮やかな優れた舞台美術だ。
さて、上演開始直後にも矢張り驚かされたことがある。作家は21,2歳だろう。この若さで良くこれだけの科白を書いている、ということにである。2011年から今迄に2350本以上の舞台を拝見している自分だが、開演前に当パンを読んだ経験は数回程度だから殆ど初に近い感覚で拝読していたのだが、当パンを読んでの見立て通り、この作家は、世界に真っ直ぐに向き合い、バイアスの無い物の見方をしている。表現する者にとって最も大切な資質を持っているわけだ。作品は極めて本質的である。生と死、親と子、男と女、幸と不幸という要素が過不足なく、極めて巧みな構成の内に呈示されているばかりではなく、物語の流れや男子高校生と女子大生とのカップリングについても、少年にとっては大人と感じられる女性に対してする背伸びの在り様が内容的な必然性と共に描かれ、更にそれが、上手で演じられる内容にキチンと被る。この組み立て方が素晴らしい。役者陣の演技も中々に優れたものである。自分が殊に気に入ったのは、隼人役を演じた役者さん、妹との会話で背伸びをした嘘を追及されるシーンでの表情が素晴らしかった。上演期間中A~H迄8作品を上演するのだが、各作品、尺は40分前後というのは既に告げた通り。
喫緊のお知らせが入った。明治大学の先輩には、パレスチナに関わった人もいるので。
今作の腰を折る事にはならないと考える。そんなヤワな作品じゃないし。で、今作の追記については、今暫くお待ちくだされ! にゃん。
知り合いから案内が届いたのでお知らせします。
すでに、新聞・テレビ等で報道されているように、現在、封鎖下のガザから現在、パレスチナ人画家3名が来日中です。
その画家のみなさんを、27日(水)、京都大学にお招きして、公開講演会を開催いたします。
*東京でも、東京大学東洋文化研究所(本郷キャンパス)のロビーにて、彼らの作品展を開催中です(3月7日まで)。
28日(木)には、東京大学本郷校舎に作家の徐京植さんをゲストに、画家たちのギャラリートークがあります。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/news/news.php?id=WedFeb201410392019
以下、27日の京都企画の詳細です(拡散歓迎!)
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アーティストブリッジ2019 in 京都
封鎖に抗して ガザ・アーティストは語る
2月27日(水)
京都大学 吉田南キャンパス
人間・環境学研究科棟 地下講義室
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イスラエル占領下のパレスチナのガザ地区が完全封鎖されて、まる12年が経とうとしています。
現在、200万以上の住民たち(その7割は、71年前の民族浄化によって故郷を追われた難民たちとその子孫です)が、12年もの長きにわたり、世界最大の野外監獄と化したガザに閉じ込められて、人間らしく生きる権利を奪われています。
4年半前の2014年の夏には、ガザは51日間に及ぶ、ジェノサイドとも言うべき攻撃に見舞われて、2200名以上の人々が殺されました。
(うち500人以上が14歳以下の子どもたちでした。)
攻撃から1カ月半後の2014年10月、ガザから、パレスチナ人権センターの代表で弁護士のラジ・スラーニ氏をお招きし、京都大学で講演会を開催しました
*その時の動画はこちらで視聴できます。
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/tag/rajaslani
あれから4年。
環境はさらに悪化し、社会全体が精神を病み、自殺を最大の禁忌とするはずのイスラーム社会のガザで、ここ数年、自殺者が劇的に急増しています。
もはや自殺して地獄に堕ちることと、ガザで生きることに何の違いもないからです。
その完全封鎖下のガザから、このたび、3人のアーティストが来日しました。
ガザを出ることができたということ、それ自体が奇跡のいま、多くの困難と障壁を乗り越えて実現した、まさに奇跡の来日です。
世界から隔絶され、世界の忘却と無関心のなかに打ち棄てられているガザの声を、ガザの人々の《肉声》を通して世界に伝えたい、ガザと世界を、私たちを、つなげたい——そのような市民の想いで、3人の来日と作品展が実現しました。
呼びかけたのは、20年以上にわたり、占領下のパレスチナやレバノンのパレスチナ難民キャンプで難民の子どもたちの絵画指導をおこなってきた画家の上条陽子さん(1937年-)をはじめとする日本のアーティストたちです。
(来日した3人の画家のうち2人は、上条さんの教え子です。)
彼らの来日は、日本のメディアでも報道されています。
NHKニュース
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190219/k10011820611000.html?utm_int=news-international_contents_list-items_003
朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/DA3S13900374.html
奇跡の来日を遂げたガザの3人のアーティストを京都大学にお招きできることになりました。
27日(水)18:00〜、講演会を開催し、ガザの人々の思いを肉声で語っていただきます。
そして、3人のお話をより深く理解するために、2部構成にして、第1部(16:00〜)では、ガザで支援活動をおこなっている日本のNGO、日本国際ボランティアセンター・スタッフの渡辺真帆さんに、ガザの現況についてお話しいただきます。
市民の力で実現したこの「奇跡」が、私たちにできることは、まだまだたくさん、あるということを示しています。
みなさまのご来場を心よりお待ちしております。
世界を変えるために、私たちに何ができるのか、ともに考えましょう。
以下、プログラムの詳細です。
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アーティストブリッジ2019 in 京都
封鎖に抗して ガザ・アーティストは語る
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【日時】2019年2月27日(水)
第1部 ガザの現況報告 16:15〜17:30(16:00開場)
第2部 封鎖に抗して ガザ・アーティストは語る
18:00〜21:30(17:30開場)
【会場】京都大学 吉田南キャンパス 人間・環境学研究科棟 地下講義室
*吉田南キャンパスは、時計台キャンパスの南側のキャンパスです。
*キャンパスマップ↓
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/yoshida/map6r_ys.html
人間・環境学研究科棟は、89番の建物です。
ピロティを挟んで東側(大文字側)、ガラス張りの建物の地下です。
【言語】アラビア語、英語(日本語通訳あり)
●入場無料、事前申し込み不要(どなたでもご参加になれます)。
【プログラム】
第1部 ガザの現状(最新報告)16:15‐17:30
16:00 開場
16:15 開演 主催者挨拶(おか)10分
16:25 講演「完全封鎖下のガザの現況」
渡辺真帆さん(日本国際ヴォランティアセンター)
17:15 質疑応答
17:30 終了
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第2部 封鎖を超えて ガザ・アーティストは語る
17:30 開場
18:00 開演
主催者挨拶(岡)
招聘団体挨拶(「アーティストブリッジ2019 ガザのアーティストを支援する交流展」)
18:15 封鎖下のガザ 現況(渡辺真帆)
18:30 動画紹介(12分)
アーティストトーク
ガザの状況、封鎖下の生活、アートとは何か
20:15 休憩
20:30 私たちに何ができるか
質疑応答
21:30 終了予定
通訳:渡辺真帆、佐藤愛
【プロフィール】
■ムハンマド・アル=ハワージュリー Mohammad Al-Hawajri
1976年、ガザ、ブレイジュ難民キャンプ生まれ。ガザの現代アーティスト集団「エルティカー」創設メンバーの一人。国外の多くの国から展覧会に招待される。作品はコレクションされている。
■ソヘイル・サーレム Soheil Salem
1974年、ガザで生まれる。「エルティカー」創設メンバーの一人。アル=アクサー大学美術学士号取得。フランス他、国外から招待出品。
■ラーエド・イーサー Raed Issa
1975年、ガザのブレイジュ難民キャンプ生まれ。国外でも活躍。イタリア・ローマの国際美術賞を受賞。「エルティカー」メンバー。
満足度★★★
自同律の無限ループを生きようとすることの過ちを実践してみせようとした作品。
ネタバレBOX
従って、関係を対立させることによって研ぎ澄まし、以て起爆力と為す演劇的手法にはそぐわない。演劇的手法とは、この起爆力の部分にエートスやカオティックで未分化なパトスを溜め、対立的関係をより尖鋭的に対峙させることによって、生きる我々自身を腑分けするからある。自らの体を自ら執刀する外科医として。
然るに今作では、敢えて肝心要の主語に当たる部分即ち主体を曖昧化し、このことによって己を己自身で腑分けする努力を怠っている。捉えようによっては甘えている訳である。このスタンスがナルシシックな立ち位置を正当化し、ディスコミュニケーションを己の主張の正当性の根拠たらしめようとしているが、所詮トートロジーでしかあるまい。この構造が自動律を必然的に呼び込み、その結果無限ループという罠に嵌るのである。観る者に難解を感じさせるのも当然であろうが、これは、甘えをベースにした韜晦という手法によって成立している。
演劇として、このテーマを表現するなら、敢えて暈している主体をハッキリさせ、キチンとその正体とトートロジーの過ちを関係性の場に持ち出して切開し、自らを関係世界に投擲するアクションによって腑分けしなければなるまい。そうしない限り、曖昧模糊とした今作のモノトーンと非演劇性は克服されず、自ら作り出した不分明な冥界を彷徨い続けることになろう。恐らく誰にも理解されぬまま。無論、「悩む」本人にさえも。そして自ら腑分けしないことは、本人にとって快楽に近い。ナルシシズムの持つぬるま湯の罠に留まり続けることである。
満足度★★★★
板中央奥に両袖机。椅子は革製の豪華なもの。両袖机の下手に斜めに置かれた書記用サイズの机。こちらは秘書が使っているもので椅子も粗末だ。両袖机の上には黒電話器が載っている。更に机の脇には、木製の椅子一脚。
ネタバレBOX
中盤迄、つか こうへいの「熱海殺人事件」と“べしゃり”や演出がカブル形で展開するので、パロディーというよりパクリかと思いつつ見ていたのだが、モテオ君役の心九郎、彼の同棲相手であるいつみとの愛の軋みが作家のオリジナリティーで満たされ、つかと格闘していることが見て取れてからは、俄然面白くなった。この時、いつみを演じた女優さん、日向 みおさんの演技が素晴らしい。(因みに今作で彼女は三つの役を演じている)
心九郎の考える愛の形はあくまでセクシュアルな関係であり、曜日毎に床を共にする女は異なる。それに対していつみの愛は、羞恥心と控え目で待ち焦がれる、可也ナイーブでプラトニックな側面を含む。テレサ・テンの歌で歌われるような可憐な女性のそれである所が奥ゆかしく、可愛い。
総理大臣の金之助は、おかまという設定で、心九郎を愛しているのだが、本当は、彼と一緒に居ることで幸せを感じることのできる己を愛している。即ち愛とは自己愛が他者にシンクロナイズすることだとの認識に辿り着く。心九郎の名はシンクロと響き合っている訳だ。このような形でしか愛を形成できない所に、日本人にありがちなある種の愛の形が現れているのかも知れない。ナルシシズムと言ってしまえばそれまでなのだが、そのような表現では味気ないので、ここでの表現はこのようになっているのだろう。断腸の思いで別れるのだし。
中心になる役者3人の熱演がグー。
満足度★★★★★
完全なディストピア作品。
ネタバレBOX
現在日本の右傾化の主体は、無論、聞く耳を持たず、観るべきもの・ことを見ず、発言すべきことを発言せずに口を噤む日本国民自身の民意によって齎されている。この結果、近い将来に起こり得る核戦争によって齎されるディストピアが描かれていると捉えた。
物語の中では、現状を曲がりなりにも支えてきた枠組が日本国憲法で示されると同時に、自分の目で見たものは見たと認識し、聞いたことは聞いたこととしてこれまた怪しければ自ら向き合い、常に自ら立証し得る事柄のみに根拠を置いて、己の頭で考える主体が示される。無論、その主体は他とは異なる。それが完全ではないと判断され、己の特異性が自然を裏切ったとしてファクトを主張するも、事実を事実として認識し、そのことを主張し得る夢を語ると、彼は他ならぬ見ざる・聞かざる・言わざる結果、自らの頭では決して考えることをせぬ国民に虐殺されてしまう。
身の周りでは、それまで辛うじて成立していた屋台骨が無惨に砕かれ、遂には核戦争が勃発してしまった。降り注ぐ核種は、丁度放送終了後のTV受像機のちらつきのように世界を覆い核の冬を齎した。その直中で人々は、食べ、飲み、出産している。間近に迫った、核汚染による惨たらしい死に向かって。僅か旬日、飲み食いを断つだけで我らヒトは死の憂き目に遭うからだからだが、死のみが救い。何故なら生き延びることは、目から、鼻から、耳から、口や尻や性器から出血するのみならず、目は飛び出して落ちかねず、最早医療のケアも期待できないまま、唯地獄の痛みにのた打ち回った挙句息耐えることだから。風が吹く、風が吹く。更なる汚染を運んでくる。
このような未来は、冷静に現在の日本を検証する限り、可也リアルな未来だと考える。トランプは使える核兵器を本気で開発したがっている訳だし、冷戦終結に繋がったINF廃棄条約の破棄と宇宙軍構想、小型核兵器開発等々は、中国・ロシアの対抗を更に急速にまた過激にすることは言を俟たない。このような情勢下での日韓関係悪化と米朝関係の進展は何を意味するか? 仮に朝鮮半島統一ということになった暁に、その政治体制はどのように変化するか? 在韓米軍が引き上げることになったら、その時日本は、アメリカの最前線として新たな冷戦下、中露と向き合う不沈空母の役割を負わされることになろう。既に集団的自衛権は既定路線、反対派を抑え込む為の法は整備され、適用され始めている。政府は、嘘・隠蔽・証拠隠滅廃棄と書き換え、秘密保護法、更にフェイクと共謀罪等々の他、溜池規制迄言い出しているのは、自然災害よりは、日本が戦地になると見越してのことだろう。国民の再洗脳もメディア、官僚、政治屋共の思うが儘のように見える。既に己の頭で考える習慣もなければ、キチンと話し合う気も無い国民については、その根底から倫理が崩れ去ってしまったことも明らかである。後は為政者の扇動に従って盲従する他あるまい。判断の根拠は其処にしかないのだから。このような状況の進展の結果、今作に描かれるようなディストピアが出来することは想像に難く無いのである。観劇した方の多くが気付いたことを期待したいのが、終盤、女性が着ている着衣が何であったかである。
満足度★★★★★
にゃんと当パンのサラリーマンチュウニ的用語解説に銭湯が載っている! にゃんにゃんだ、れこは!! ふに~っ!!!(追記第1弾にゃ~~~、終演後になって申し訳にゃい。理由はネタバレに)第2弾は近いうちにゃ。
ネタバレBOX
非モテ系に絶大な人気を誇る反リア充作家・吉崎の新作出版記念会場で 、幕が開くのは、この劇団が今年十周年を迎え、今作がその記念公演であるという事情が関わっていよう。この劇団らしいセンスの良い内祝いである。
板上は、門構えの中心やや客席側に演説台より少し高めのテーブルを設え、テーブル奥には、人が立てるようなスペースを設けて、出版記念パーテイーの時には背後に“爆(は)ぜろリア充”と大書されたパネルが貼ってある。このスペースの両側に設けられた出捌け口は、男湯、女湯の暖簾が掛かると銭湯・玉の湯の番台に早変わりという訳だ。下手壁際には、書籍なども展示できる、階段型の収納ボックス、上手側壁には本棚として用いられているカラーボックスのような本棚がある。椅子等は必要に応じて適宜丸椅子を配する。
序盤、反社会的とは言わないまでも、どちらかといえば非社会的・サブカル的範疇に属すタイプの人間集団を描く所から始まるので、吉崎を“神”と崇めかねない熱狂的支持者たちなどは、一般的感覚を持つ観客には、どこか刺々しい摩訶不思議な人々と感じられかねない、何らかの距離感があるであろう。だが、序盤のこの「違和感こそが中盤以降の物語りの受け皿となって作品の広がり、深さをドンドン増してゆく構成に繋がる辺り、流石サラリーマンチュウニ! と拍手を贈りたい。
ではどのような点で作品に広がりと深さを持たせてゆくかというと、脚本・演出・演技それぞれが現実に存在している卑近な、当に隣に居る人々のような自然なリアリティーを漂わせつつ、決して居ないであろう類型を同時に抽出しているのだ。(「隣は何をする人ぞ」的な近隣の距離を含めて)この微妙で精妙なセンスの良さに着目しておきたい。
例えば凋落産業である銭湯の再活性化についても、経営の合理性から見、テキパキと必要な改正条件を挙げ対処してゆこうとする妹のデキル女の合理性と、どこか妹に甘えつつもその裏の無いキャラで常連さん達に支持され・愛されて人間関係の糊のような役割を果たす兄、女房・子供に事業展開の失敗から愛想を尽かされ、現在はこの銭湯で働きながら居候同然の男、自らのユーチューバーとしての位置を確立する為に作家に近づき押しかけ同棲を始め、非モテ系のカリスマとして君臨する作家をネタに利用する女。自分達の神を虚仮にされたのみならず、隠れ家のようにして同行の士が集まっていたコミューンを破壊され逆上してサイトを炎上させたのみならず、件のユーチューバーを包丁で刺し殺そうとした吉崎の信奉者。アニメ中毒の息子を心配する母と、その母は怪しい宗教に嵌っていると心配している件の息子は、顔を合わせば言い争いになる。
こんな状況を抱えながらもユーチューバーは、とても優しく良い人である作家を裏切り続けている己自身の自責の念に耐えかね出帆してしまう弱さを持つ。ところで、初めて恋心を知った作家は、何らインパクトの無い駄作を書き連ねる。為に担当編集者との間で作品を巡って丁々発止の論戦が繰り広げられる、等々が中盤の見せ場を作っている。
件の理由にゃ:https://handara.hatenablog.com/
満足度★★★★
劇場の後ろ壁から手前に平台を重ねた舞台踊り場に、出捌け用のスペースを確保した上で、衝立を立て、その中央を開けてある。踊り場へ上がる階段は4段、丁度平台の中央に設えた。上手は黒の緞帳で衝立の右端から上手客席側の出捌け迄斜めに仕切り、緞帳の前にバリケードと放送用機材、テーブル等が在る。下手は後ろの衝立に直交する形で緞帳を伸ばし下手奥から出捌けが出来るようになっている。手前はフラット。(華4つ☆)
ネタバレBOX
時代背景は、1970年の安保改定を前に、四日市喘息、新潟水俣病、イタイイタイ病等々の公害問題が表面化、政府・各省庁の杜撰極まるいつもの対応もあり、人心は更に権力中枢から離れて行った。当然だろう。人々の身の周りでは光化学スモッグ注意報のオンパレード、地域河川、湖沼、海、入会地や山林の汚染、荒廃が極端に進み、背骨の曲がった魚や足の形がおかしい蛙など身近な生き物の奇形が目に付いた。
描かれるのは東大理Ⅲで68年から始まっていた闘争に、大学側が機動隊導入という暴挙で対抗した1969年東大闘争の渦中である。世界的には、1968年パリの5月革命から世界中でベトナム反戦、世界同時革命を目指し立ち上がる者、ドイツ赤軍の活動、70年よど号ハイジャック事件、72年リッダ闘争を始めとして若者の反乱が起っていた時代である。60年代末には、沖縄でも核抜き本土並み復帰闘争が繰り広げられていたし、70年には三島の割腹自殺事件などもあった。
因みに自分の同年代は団塊の世代の直後、三無世代の前の世代に当たり、東京では初めて学校群制度が適用された世代に当たる。1970年7月28日は、第2学区で最難関の22群(新宿・戸山・青山)の中で東大合格率が最も低かったこともあって都立高校で最も深刻且つ激しい学生運動の拠点となった青山で議長をやっていた自分の中学時代の親友が自殺した命日である。無論、高校時代や早い奴は中学時代から活動家として動いていた者もあった。闘争の中で失明した者、自殺を含めて亡くなった友人、障碍者となった者なども多いが、公安からの追及を逃れている身でもあったので、正式な統計には無論現れていない。自分は大学時代、中退するまでの2年間を大学自治寮で暮らしたが、公安の電話盗聴は当たり前、消防などもマッポとリンクして寮に侵入を図ることは年中であったから、電話1本の受け答えにも様々なテクを用いたのは無論である。大学によっては、自治会やサークル、部活メンバーの中にもスパイが送り込まれていたし、デモ隊には公安の犬や私服が、学生を検挙する為に送り込まれ、デモ指揮を装って検挙されるような行動をするよう誘導したり、煽ったりは当たり前であったし、体育会、右翼・ヤクザ等が襲撃してくることもあった。
こんな背景が今作の時代状況である。このような状況のほんの一端でも思い浮かべながら、観劇すると良い。学生たちの提起した問題には現在も古びない普遍的な問題も数多く含まれているし、当時の討議の緊張もかなり良く描かれている。
満足度★★★★
観劇中にビックリしてしまったことがある。(追記後送 華4つ☆)
ネタバレBOX
自分は、時々“イマジネーション遊び”というのをやっているのだが、今分かっていないことを素材に勝手な想像をして楽しむのだ。そのイマジネーション遊びの一つとしてDNA個々の塩基の役割が不明のものの役割について等への想像がある。自分は、この役割不明の塩基が、いつ、如何なる状況に於いてその機能を明らかにするかについて想像し、同時に素数の存在意義を同じ俎上に載せてみた。この想像の結果は読者諸氏の想像力に任せるが、兎に角こんな風にして遊んでいると楽しくて仕方がない。
今作で登場するのは、この塩基配列が突然変異を起こした話。どういうことかと言うと惑星全域を襲ったパンデミックサバイバーが僅かばかり居た。彼らは突然変異により、それまでの人類とは異なる能力を身に着けていた。その能力とは脳内シナプスの量が、それまでの人類の1.5倍にも増えたことであった。当然、記憶力、演算・より多量の情報源の一括認識・統合力・分析力・判断力など情報処理能力の飛躍的増大と処理時間の短縮が彼らの属性となった訳だ。謂わば新人類の誕生である。但し、罹患せず生き残った旧人類も25億人程残っていたので、数では圧倒的マイノリティーであり、パンデミック収束以降には、新人類は危険だとの認識が旧人類の一部に広がりを見せた為、融和を図ろうとする勢力、戦い殲滅すべきだとの勢力がつばぜり合いを始めた。